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宮沢賢治による日本の童話 ウィキペディアから
『グスコーブドリの伝記』(グスコーブドリのでんき)は、大正後期を中心に活動した童話作家・宮沢賢治によって書かれた童話。1932年(昭和7年)4月に刊行された雑誌『児童文学』第2号にて発表された。賢治の代表的な童話の一つであり、生前発表された数少ない童話の一つでもある。
本作にはその前身となる作品が存在する。1922年(大正11年)頃までに初稿が執筆されたと推定される『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』である。この作品は「ばけもの世界」を舞台とし、苦労して育った主人公であるネネムが「世界裁判長」に上り詰めながら慢心によって転落するという内容の作品であった。賢治はこの作品のモチーフを利用しながら、およそ10年の間に作り変え(その過渡的形態を示す『ペンネンノルデは今はいないよ』という創作メモが残されている)、1931年(昭和6年)頃に本作とほぼ同じ内容を持つ下書き作品『グスコンブドリの伝記』を成立させた[注 1]。
賢治は詩人・佐藤一英が編集・発行した雑誌『児童文学』の創刊号に『北守将軍と三人兄弟の医者』を発表したのに続き、本作を発表する[注 2]。その発表用と思われる清書原稿の反故が数枚現存しているが、その中には上記の『グスコンブドリの伝記』の終わりのほうに裏面を転用したものがあり、『グスコンブドリの伝記』が完結しない段階で冒頭から『グスコーブドリの伝記』の清書を行うという差し迫った状況を垣間見せる。『グスコンブドリの伝記』と本作を比較すると、『グスコンブドリの伝記』での細かいエピソードの描写を省略した箇所がいくつか存在している。賢治の実弟である宮澤清六も評伝『兄・賢治の生涯』で「後半を書き急いでいるような印象」を指摘している。
なお、本作の発表用原稿の執筆時期については1931年(昭和6年)夏に書かれた書簡に「(『児童文学』に対して童話を)既に二回出してあり」という表現が見られる[注 3]。一方、『兄・賢治の生涯』ではこの作品の執筆をめぐるエピソードが1932年(昭和7年)春の話として出てくる。このため1931年夏にいったん送った後、書き直しを求められたのではないかとする意見もある。
2015年7月2日、古書入札会に出品予定の本作の自筆草稿1枚が、東京古書会館で報道陣に公開された[2]。これは清書稿書き損じ断片とみられるものの1枚で[3]、内容は「三、沼ばたけ」の章の一部であるが、『児童文学』発表形とは内容に相違が見られる。
グスコーブドリ(ブドリ)はイーハトーブの森に暮らす樵(きこり)の息子として生まれた。冷害による飢饉で両親を失い、妹と生き別れ、工場に労働者として拾われるも火山噴火の影響で工場が閉鎖するなどといった苦難を経験するが、農業に携わったのち、クーボー大博士に出会い学問の道に入る。課程の修了後、彼はペンネン老技師のもとでイーハトーブ火山局の技師となり、噴火被害の軽減や人工降雨を利用した施肥などを実現させる。前後して、無事成長し牧場に嫁いでいた妹との再会も果たすのであった。
ところが、ブドリが27歳のとき、イーハトーブはまたしても深刻な冷害に見舞われる。カルボナード火山を人工的に爆発させることで大量の炭酸ガスを放出させ、その温室効果によってイーハトーブを暖められないか、ブドリは飢饉を回避する方法を提案する。しかし、クーボー博士の見積もりでは、その実行に際して誰か一人は噴火から逃げることができなかった。犠牲を覚悟したブドリは、彼の才能を高く評価するが故に止めようとするクーボー博士やペンネン老技師を冷静に説得し、最後の一人として火山に残った。ブドリが火山を爆発させると、冷害は食い止められ、イーハトーブは救われたのだった。
農業を始めとする宮沢賢治の実体験が色濃く反映した作品で、「ありうべかりし自伝」と言われることもある。また、その伝記的側面とのつながりから語られることが多い。一方、結末については第二次世界大戦後になって「自己犠牲を過度に美化した内容である」という批判もなされている[注 4]。
発表時の挿絵(6点)を手がけたのは無名時代の版画家・棟方志功であった。棟方は、約40年後に『校本宮澤賢治全集』の月報に寄稿した文章では、その絵を描いた記憶が「薄すぎる」と述べ、「けれどもたしかに、わたくしの、その頃の絵ですから仕方のない事です。―少し、思い出されるのは、これはたしかに「ムナカタシコウ」の絵に違い無いという事だけです。」と記した[4]。6点の挿絵中4点には棟方による署名の添え書きとして「六年九月」という記載がある[5]。
作中に登場する潮汐発電所は、執筆から約30年後にフランスで実現した。また、作中で「もっとも重要な作物」として出てくる「オリザ」はイネ(稲)の学名 "Oryza sativa" の日本語転写「オリザ・サティヴァ」に由来する。また、水田に相当するものは「沼ばたけ」と表記されており、日本語としての「稲」や「水田(田んぼ)」という言葉は使用されていない。
冷害を止めるために火山噴火で二酸化炭素 (CO2) を増やそうとするくだりは、地球温暖化現象が大々的に問題視され始めた21世紀初頭には、温室効果のわかりやすい描写の例として紹介されることも多くなった。また、火山噴火ではそれに伴う火山灰などの噴出物によるエアロゾルでむしろ冷害が悪化するのではないかという意見もあるが、根本順吉(元気象庁予報官)や石黒耀(『死都日本』の著者)[6]からは、賢治はそれも認識した上で(他の噴出物をほとんど伴わずに)CO2ガスを主に噴出するタイプの実在する火山を、念頭に置いて執筆したのではないかという指摘がなされている。
賢治の没後60周年を記念して1994年に制作、同年7月16日に上映会(親子映画)向けに順次公開された。制作に当たっては制作費の一部が地元である岩手県からの募金によってまかなわれている。舞台であるイーハトーブについては、賢治が暮らした「1920年代の岩手県」をモチーフとした描写がなされ、ほぼ原作に忠実なストーリーである[注 5]。
本作について、アニメ映画『セロ弾きのゴーシュ』を監督した高畑勲は1996年に執筆した文章で、原作における人工降雨での施肥や火山噴火を利用したCO2増加による温暖化は賢治の切実な願いに基づく科学の夢だが、現在ではそうした行為が生態系に深刻な影響をもたらすことがわかっているのに、その点を考えずに映画化したことを批判した[7]。
2012年7月7日にワーナー・ブラザース映画の配給により、丸の内ピカデリー2他全国241スクリーンで公開された。
1985年のアニメ映画『銀河鉄道の夜』と同様、ますむらひろしによる漫画版(猫をキャラクターとしたもの)をベースとしており、キャラクターはすべて猫の姿をしている。『グスコーブドリの伝記』の原作に基づきつつ、原作に登場しない「世界裁判長」や「ばけもの」のキャラクターを『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』から借用した内容となっている。
制作は手塚プロダクションで、監督は同じくますむらの漫画版をもとにした『銀河鉄道の夜』を手がけた杉井ギサブロー。文部科学省特選。
7月7日、8日の初日2日間で興収5,888万8,200円、動員4万6,355人になり映画観客動員ランキング(興行通信社調べ)で初登場第7位となっている[9]。
2008年3月に開催された東京国際アニメフェアにて制作が発表された。制作は『銀河鉄道の夜』と同じグループ・タックが当たるとされ、脚本は村井さだゆきの予定であった。上記の東京国際アニメフェアでは「2009年春完成予定」[10]とされていた。予定を過ぎた2010年4月当時、グループ・タックのウェブサイトでは「製作中」となっていた[11]が具体的な公開予定などは明らかにされなかった。2010年9月にグループ・タックが事業の継続を断念し、破産手続きを開始したことが報じられたため、同社が本作を完成させることは事実上不可能になった。
その後、2011年9月30日に文化庁が選定した平成23年度の「国際共同製作映画支援事業」における製作支援対象として、手塚プロダクションが制作する形で本作が含まれていることが明らかになった[12]。この支援を受けるには2カ国以上での共同制作で、平成23年度(2012年3月末)までに完成させることが条件となっていた[12]。
2011年12月、2012年夏にワーナー・ブラザース映画の配給で公開予定であることが報じられた[13]。2012年1月、公開日(7月7日)とメインスタッフが発表された[14]。
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