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東京音楽祭(とうきょうおんがくさい、Tokyo Music Festival)は、1972年から1992年まで開催されていた音楽祭である。
TBSが設立した財団法人東京音楽祭協会(この主催者名称は第4回以降。第3回以前の主催者名は「東京ポピュラー音楽振興会」[1])が主催する国際音楽祭である。東京放送(TBS)創立20周年を記念した永続的な行事として企画され、推進母体となる財団にはTBSから1億円の基金が出資された。第1回大会の準備段階での主催者の仮名称は「東京音楽祭運営委員会」で、委員長(のちの財団初代理事長)はTBS社長(当時)の諏訪博[2]。
但し、音楽祭の企画は、ゼロから突然生まれたのではない。1970年に大阪万国博会場で開かれた第1回全国ヤング・フェスティバル、翌1971年に東京・日本武道館で開かれた第2回同フェスティバルが、スポンサーの事情で続行不可能となったために、新しい企画の東京音楽祭に発展解消したものである。従来のスポンサー色の強さを反省すると共に、「本格的な音楽祭として、日本の軽音楽の向上と、世界的レベルへの到達を図る」(諏訪博)狙いがあった[3]。更に、その実現には、渡辺正文・TBSプロデューサーの「日本での国際的大規模な音楽祭開催の必要性」への思いによるところが実に大きかった。同調した大橋巨泉などの協力者を得て、第1回大会は開催にこぎ着ける。この東京音楽祭を誕生させ、成功させた渡辺正文をモデルになかにし礼が『世界は俺が回してる』という小説を書いている。
1972年5月13日、第1回東京音楽祭が日本武道館で行われ、通算第20回まで開催された。最初の司会は大橋巨泉、土居まさる、うつみみどり[4]。その後は毎年、場所は帝国劇場と日本武道館をほぼ1年交代にして開催され、1977年の第6回大会からは武道館で持続的に開催されるようになった。指揮・音楽は第1回から第17回まで長洲忠彦が担当。TBS(中継も行う)の二大音楽イベントの一つとして、日本レコード大賞と共に双璧を成していたが、年度前半に行われる東京音楽祭は、あくまでも「楽曲」「歌唱」を評価ポイントとしている事が特徴で、年末開催のレコード大賞等の音楽賞の様な「その年のセールス」に重点を置き評価するものとは一線を画している。
東京音楽祭の、世界的ヒットやアーティストを輩出し、アメリカはもちろん、フランスやヨーロッパ、アジア世界の音楽シーンを日本に持ち込み地位を高めた功績と存在意義は非常に大きい。かくして東京音楽祭は、その1年半前に始まっていたヤマハ主催の世界歌謡祭と共に、日本で開催される二大国際音楽祭となったが、世界歌謡祭が未発表曲を競うのに対し、東京音楽祭では発表または発売済みの曲という条件を設け[5]、独自の特徴を打ち出している。また開催時期も、世界歌謡祭は初冬・東京音楽祭は初夏と、棲み分けが為されていた。
大会の模様はTBSテレビ・ラジオの同時放送で、初期にはFENでもラジオ放送された。1974年まで関西地方は朝日放送で、1975年以降は毎日放送で放送されていた。テレビ放送では、1979年の第8回からステレオ放送となっている[6]。
1991年は開催が中止、そして、1992年の第20回大会をもって開催終了となり20年の歴史に幕を降ろした。
毎年上半期(3月-6月)に初期には帝国劇場、第1回・4回と6回以降は日本武道館で開催されていた。 海外から参加の楽曲は、数週間程度の公募期間があり、日本国内において財団法人東京音楽祭協会に在籍する審査委員会にて、厳正なるテープ審査が行われ参加曲が決まる。(アメリカなどでは、雑誌で参加アーティストを募る公募広告も存在する。これが功を奏したのが、東京音楽祭から世界的大ヒットとなったザ・スリー・ディグリーズである)
また連動した海外音楽祭の優勝者が参加権利を獲得する事例や、任意での音楽祭優勝者を優先する例も多々あり、マニラ音楽祭(フィリピン)、ホンコン音楽祭(香港)、ローズドール音楽祭(フランス)、フランス音楽祭(フランス)、マジョルカ音楽祭(スペイン)、ロサンゼルス音楽祭(アメリカ)、ソウル音楽祭(韓国)、ユーロビジョン・ソング・コンテスト(ヨーロッパ)などがこれにあたる。これは東京音楽祭が、国際音楽祭連盟(FIDOF)に加入しているためである。
さらに、外国人歌手に日本の作曲や作詞による楽曲を提供し参加する事例も多く見られた。 「若者は帰らなかった」オリベラ・カタリーナ(ユーゴスラビア)、「ミドリ色の屋根」ルネ・シマール(カナダ)、「18,19,20」サイモン・アンド・ベッティーナ(西ドイツ)、「トシヒコ」ベッシー(ギリシャ)、「トーキョー・メロディ」シューディー(モザンビーク)、「唇を奪う前に」アニタ・ムイ(ホンコン)、「時の流れに」ブラザース・フォア(アメリカ)、「ふたりの絵〜セラ」エマヌエル(メキシコ)、「恋はノータイム」ルージュ(西ドイツ)などが一例。
これらの海外参加アーティストと「国内大会」で選出された日本人の優秀アーティストが一堂に会し、楽曲を披露し、音楽祭協会の音楽家や海外著名人・世界的歌手や俳優女優などで組まれるゲスト審査員団に投票審査され、受賞に至るのが世界大会である。 審査中には、世界に広く知られた豪華大物アーティストによるステージが披露されるのも特長である。
国内大会の応募者は、第1回・第2回の場合、まずテープ審査で50組を残し、それをTBSの番組で毎回4~5曲ずつ紹介しながら公開審査で絞り込み、最終的に専門審査員団の判断も加えて、国内大会参加20組を選ぶ、という方式が採られた[7]。第2回大会の場合、公開審査番組(『東京音楽祭・歌は世界に』TBS系テレビで1973年2月初旬~4月中旬。2・3月は日曜午後6時~、4月は日曜午後11時~[8]。TBSラジオでも月-金午後9時~に同一タイトルの番組で曲を紹介)の配点基準等は、浜口庫之助ら専門家審査員5人が1人10点、一般視聴者から選ばれた審査員50人が1人1点の持ち点で、ボタンを押して審査し、全50曲の採点を終え上位15曲を選び、これに専門審査員推薦の5曲を加え、最終的に20曲が決定される、というものだった[9]。
「国内大会」は渋谷公会堂や中野サンプラザで開催されていた。 「世界大会」の2週間程前にその出場権をかけて開催される、日本人アーティストによる大会である。授与される賞は以下の通り。
国内大会のうち、新人アーティストのみの大会が別日程で開催されるようになり、「シルバーカナリー賞」という名称の最優秀新人賞が正式に設けられたのは、第3回以降である。新人大会は通常は「国内大会」の直前に開催され「東京音楽祭・シルバーカナリー賞」というタイトルでテレビ放送される場合もあった。授与される賞は以下の通り。
1987年第16回から19回までの4大会[注 1] が開催された。
開催の経緯は16回・17回のコンテスト形式ではない、フェスティバル方式(選択アーティスト披露形式)において分類された
の構成で、アジアデーだけがその後引き継がれた形になった。
世界大会における欧米勢とアジア選出歌手の認知度の差なども少なからず影響していることと、アジアの音楽を詳細に紹介したい意向が重なったため、この形式になった。従って、コンテスト形式でありながら実質アジア大会と言える20回大会以外は、賞による優劣を付けない配慮がなされた。
海外各国からのエントリー曲をテープ審査により選出。その外国アーティストと、ゴールデンカナリー賞並びにシルバーカナリー賞を受賞した日本人アーティストによる、当音楽祭の本選となる大会である。さらに世界的大物アーティストによるゲストショーがある。授与される賞は以下の通り。
(それぞれの賞は各回によって多少変動がある)
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