国王 (こくおう、英語 : king , フランス語 : roi , ドイツ語 : König , ノルド語 : kong, ラテン語 : rex )は、国 の君主 (王 )を指し、その称号 (君主号 )でもある。特に男性である場合(男王)を指す。
フランス 国王(当時)ルイ14世
元来、漢字の「王 」は、殷 ・周 王朝の君主の称号として使われた。周王は天下(世界)を治め、諸侯は周の封建制 の下で国(領地)を治め「公」を称した。春秋時代 に周 が衰微し、有力諸侯の群雄割拠の時代になっても周王のみが王を名乗った[注 1] 。
戦国時代 になると、各国の君主が「王」を名乗った。以降は、「王」はもはや天下ではなく、領地(国)を治める領主 と認識されるようになった。そのため、中華世界を統一した秦 王の政は「王」号を廃し「皇帝 」号を作り自ら称することになった(始皇帝 )。それに続く漢 も「皇帝」を君主号として使用した。三国時代 や東晋十六国時代 、五代十国時代 など皇帝が乱立する時代はあったものの、最後の王朝清 まで、中国では「皇帝」が至上の君主号であった。
日本 では、古来から君主をさすものとして「キミ 」が用いられ、ヤマト王権 の君主にはオオキミ の称号が用いられており、これは「大王」と漢字が当てられている。また対外的には漢委奴国王 や倭国王として封じられた倭の五王 のように、中華政権から国王として冊封 されたものもいる。天武天皇 期より君主には天皇 の称号を「皇帝」に相当する称号として使用してきた。また「王」の称号は、皇族が称する称号として残った。一方で、中華政権から冊封を受け、南朝 の懐良親王 や征夷大将軍 の足利義満 が「日本国王 」を称した事例があるが、これは外交上の称号に過ぎず、国内で公式に用いられることはなかった。江戸時代においては中華政権との正式な国交はなく、江戸幕府将軍 は朝鮮との外交上では「日本国大君 」の称号を用いた。ただし正徳 期に新井白石 の提案で一時的に「日本国王」の号を用いている。
君主が国内向けには「国王」と自称していない場合も、中国の皇帝との関係上、対外的に称する外交称号として用いられた事例がある(日本の征夷大将軍、ベトナム の太上皇 など)。琉球 以外の日本では制度上国王という位が設けられたことはないが、天皇を指して国王、王と呼ぶ例は軍記物語 などの文献に広く見られる。これは、「国王」ないし「王」が、元来は一般に君主を意味することによるものである。
中国の爵位「国王」
前漢 以降の中国では、「王」は皇帝に服する称号で、爵位 の一つ(諸侯王 )となった。爵位としての「王」は皇帝に次ぐものとされ、皇帝の一族や功臣が各郡などに封じられるときに与えられた。また、皇帝の支配の及ばない外国の君主にも「王」を与えることで、「世界を支配している」という事実を作ろうとした(冊封体制 )。そのため、中華文化圏では「王」は中国皇帝から賜る称号の一つであり、中国皇帝に臣従した証しとなった。隋 代には「国王」「郡王」の爵位が用いられ、「国王」は「郡王」などより格上の爵位ではあったが、国家の君主である国王の意味は持たなかった。そのため実際には国王であっても、あまり重要視しない国王の場合は、「郡王」などの格下の称号が与えられる場合があった。「王」の字を用いた爵位としては他に「親王 」「嗣王」「藩王 」が知られる。
ヨーロッパ には元々は各地域ごとに君主の名称があった。初期の神聖ローマ帝国 においては、君主には国王 、皇帝 、大公/公(プリンス )の3つの概念があり、国王のうち教皇 から皇帝として承認を受けた者のみが皇帝であり、国王とするほどではない小君主が総称的にプリンスと呼ばれた。
ヨーロッパの多くの皇帝がローマ帝国 を起源としているのに対し、英語の king のようなゲルマン系 の王の名称は血統を意味する kin から派生しているため、より血統が重視された。皇帝は実力のある者が推戴されることが建前であり、このためローマ帝国、東ローマ帝国 ではしばしば実力者が武力闘争やクーデター によって皇帝となり、神聖ローマ帝国では選挙制 が維持された。コルシカ島 生まれの軍人に過ぎないナポレオン・ボナパルト が皇帝に即位したのは、王に即位すれば反革命とみなされかねないという事情もあるが、皇帝が国民から推戴される存在という意識があったことも背景にある。
ゲルマン系 の王は元々は戦争時に臨時に選ばれるもので、これがゲルマン、スラヴ系 の選挙王制 につながり、前述の神聖ローマ帝国の帝位の選挙制もこれに由来するという事情もあるが、この場合でも王位については、その血統を引くことが選出の条件となった。またケルト系 のタニストリー 制でも王の血統を持つ者から選ばれる。近代に入って新たに独立した国々が王制を採用した場合、多くの国では最初から王が存在しないか、既に王家の血統が絶えていることが多かったが、その場合でも自国の貴族から選ぶより、他国から君主の一族を招いて王とすることがしばしばあったのも、王となるのは王の血統を引いた者といった概念があったからである。また、ゲルマン諸族において別の部族の有力者を王に推戴した前例があったことから、血統を最優先し他国の者であっても王として迎え入れることを厭わない傾向に拍車をかけることとなった。ヨーロッパではほとんどの場合、王朝交代があっても傍系か女系 の血統を引いている。
他国から王を迎え入れる場合、ドイツ系が非常に多かったが、これは神聖ローマ帝国が統一されず、国内に王号やそれに準ずる爵位を保持する領邦 君主が多数存在し、ひいては王位を継ぐにふさわしい家系が多数存在したからである。なおかつ神聖ローマ帝国内の小国であるので、そこから王を迎え入れても自国への干渉や支配を排除できたからである。皇帝が実力制・選挙制であるため、過去に神聖ローマ皇帝を輩出した家系が多数存在し、逆説的にそういった家系が王家にふさわしい血統と認識されたという事情もある。
王位継承法 により女性の王位継承を認める場合とそうでない場合がある。フランス やドイツ などサリカ法 を採る地域では女性の王位継承を認めない例が多い。近代 では女性の王位を認める国が増えている。女性の場合女王 という。
近代では立憲君主制 を採用する国が多く、そのような国では国王の役割は儀礼的なものとなってきているが、外交や公式・非公式な場での発言などによる政治的な影響力は大きい。
この一覧は、国際連合加盟国 の国王または各国それぞれの称号を持つ君主の一覧であり、イスラム諸国 におけるマリク 、スルターン などを含む。君主であってもエンペラーと訳される天皇 や、首長と訳されるアミール 、また大公 や公 は記載せず、イギリスの君主 が兼ねる、イギリス連邦 諸国に関しては、イギリス をのぞいて記載しない。また、国家内の自治領・州等に存在する国王は含めない。順序は地域別の在位年数による。
アルフレッド大王
イングランド七王国 のウェセックス 王 在位:871年 - 899年
ウェセックス王 エゼルウルフ の子
アングロ・サクソン 時代最大の王。英国海軍 の父と称される。
エリザベス1世
テューダー朝 第5代イングランド とアイルランド の女王(在位:1558年 - 1603年 )
国王ヘンリー8世 の次女。ジェームズ1世(6世) の母。
1588年 、スペイン無敵艦隊 に対して勝利した。治世中は、ウィリアム・シェイクスピア やクリストファー・マーロウ といった劇作家によるイギリス・ルネサンス演劇 や、フランシス・ドレーク やジョン・ホーキンス など航海士 たちが活躍したエリザベス時代 として知られる。
メアリー・スチュアート
スコットランド 女王 在位:1542年 12月14日 - 1567年 7月24日 フランス王妃
スコットランド王ジェームズ5世 の長女。
反ボスウェル派の貴族たちが軍に投降し廃位された。バビントン事件の裁判ではメアリーが関与した証拠が提示され、有罪・死刑となり処刑された。しかし彼女の子ジェームズ はスコットランド王・イングランド王となり以後の両国王、グレートブリテン 王、連合王国 の王は、すべてメアリーの直系子孫となった。
ジェームズ1世(6世 )
スコットランド 、イングランド 、アイルランド の王。在位:1567年 7月29日 - 1625年 3月27日
スコットランド女王メアリー の子。曽祖叔父 にイングランド王ヘンリー8世 。チャールズ1世 の父。ハノーヴァー朝 の祖ジョージ1世 の曽祖父。
1歳1ヶ月でスコットランド王位に就く。『自由なる君主国の真の法』(1598年)という論文を書いて王権神授説 を唱えた。1603年 には同君連合 でイングランド王になり以後イングランドとスコットランドは、1707年に合同してグレートブリテン王国 となるまで、共通の王と異なる政府・議会を持つ同君連合 体制をとることとなる。イングランド国教会 以外のカトリック と清教徒 の両極を排除する宗教弾圧 を行った。「グレートブリテン王」(King of Great Britain)と自称し、新しい硬貨「ユナイト」(the Unite)を発行してイングランドとスコットランドの両国に通用させた。イングランドのセント・ジョージ・クロス とスコットランドのセント・アンドリュー・クロス を重ね合せたユニオン・フラッグ を1606年4月12日に制定した。
チャールズ1世
イングランド 、スコットランド 、アイルランド の王(在位:1625年 - 1649年 )
ジェームズ6世 の次男。チャールズ2世 ・ジェームズ2世 の父。
父同様に王権神授説 を信奉し、「権利の請願 」に一旦は請願受託の署名を行うが、翌年議会を解散、議会の指導者を投獄し、専制政治を行った。国教 統一に乗り出し、ピューリタン を弾圧 した。スコットランドにも国教を強制するにおよんで、各地に反乱が起きた。特にカルヴァン派 の民衆が反乱に立ち上がった。反乱鎮圧のための戦費を得る目的で11年ぶりに議会を招集し、船舶税で賄おうとした(短期議会 ・長期議会 )。反国王派の議員を逮捕 に踏み切ったことで議会派と王党派の内戦が勃発した(イングランド内戦 )。オリヴァー・クロムウェル 率いる鉄騎隊 の活躍により、王党派が各地で打ち破られピューリタン革命 が起こった。チャールズ1世は処刑されイングランド共和国 (共和制 )が樹立された。
チャールズ2世
王政復古 期ステュアート朝 のイングランド 、スコットランド 、アイルランド の王(在位:1660年 5月29日 - 1685年2月6日)
チャールズ1世 の子。ダイアナ妃 の祖先。
ピューリタン革命 のためフランスに亡命。クロムウェル の死後、共和国は混乱し1660年3月16日 にイングランド議会 を解散、チャールズら王党派 と連絡を取り復帰を要請。王政復古 となりイングランド王となった。
ジェームズ2世(7世)
イングランド ・スコットランド ・アイルランド の王 在位:1685年 2月6日 - 1688年
チャールズ1世 の子。フランス 王アンリ4世 の孫。メアリー2世 ・アン女王 ・老僭王ジェームズ の父。ダイアナ妃 の祖先。
イングランド人が好んでいなかったカトリック を信仰し宗教弾圧も決行、長老派教会 のカヴェナンター を弾圧している(殺戮時代 )。カトリック信徒が高位公職につくことを許し、反カトリックの急先鋒の一人ヘンリー・コンプトン をはじめ、要職にあった国教会信仰の者を免職しはじめた。に信仰自由宣言を発し、カトリック及び非国教会プロテスタント への制限・処罰を停止した。更にオックスフォード大学 クライストチャーチ およびユニバーシティ・カレッジでも国教会信徒からカトリックへ要職・研究者職のすげ替えを行った。この頃イギリスに誕生したトーリー党 とホイッグ党 は猛反対し、1688年廃位された(名誉革命 )。
ヴィクトリア
ハノーヴァー朝 の第6代女王 (在位:1837年 6月20日 - 1901年 1月22日 )
3代国王ジョージ3世 の孫。エドワード7世 、ドイツ皇后 ヴィクトリア 、 ヘッセン大公 妃アリス の母。女王エリザベス2世 の高祖母 。
世界各地を植民地 化し大英帝国 の黄金時代を現出した。その治世はヴィクトリア時代 と呼ばれる。
カール大帝
在位:768年 - 814年
カロリング朝 を起こしたピピン3世 の子。フランク王カール ・イタリア王 ピピン ・アキタニア王 ルイ の父。
西ヨーロッパ の主要部分を統一しフランク王国 を最盛期にした。800年 には西ローマ皇帝(フランク・ローマ皇帝 )にも列聖 。古典ローマ 、キリスト教 、ゲルマン文化 の融合を体現し「ヨーロッパの父」とも呼ばれる。彼の死後3人の孫により国は分裂した。
シャルル7世
ヴァロワ朝 の第5代国王 (在位:1422年 - 1461年)
第4代国王シャルル6世 の五男。ルイ11世 の父。
イングランドの否認により王位に就けずにいたが、ジャンヌ・ダルク の活躍により連勝しフランス王となり百年戦争 に終止符を打った。
アンリ4世(エンリケ3世 )
ブルボン朝 初代国王 (在位:1589年 8月2日 - 1610年 5月14日 )ナバラ 国王 。
ブルボン家 出身。母はナバラ女王 ジャンヌ・ダルブレ 。ルイ13世 ・スペイン王 妃エリザベート ・イングランド王 妃アンリエット・マリー の父。ルイ14世 ・イングランド王チャールズ2世 とジェームズ2世 の祖父。
カトリックとユグノー の争い(ユグノー戦争 )がおこる中即位。カトリックをフランスの国家的宗教であると宣言しつつ、プロテスタントに多くの制約はあるものの信仰の自由を認め、フランスにおける宗教戦争の終息を図るナントの勅令 を発した。しかし狂信的なカトリック教徒に刺殺された。
ルイ13世(ルイス2世 )
ブルボン朝 第2代国王 (在位:1610年 5月14日 - 1643年 5月14日 )。ナバラ 国王 。
アンリ4世 の子。母はメディチ家 出身。曽祖父に神聖ローマ皇帝 フェルディナント1世 。ルイ14世 ・オルレアン家 初代当主フィリップ の父。
父が暗殺 されたことにより8歳半で即位。宰相 リシュリュー のもと貴族を抑え国王集権を強化した。
ルイ14世
ブルボン朝 第3代国王 (在位:1643年 5月14日 - 1715年 9月1日 )ナバラ王国国王。
ルイ13世 の子。スペイン 王フェリペ3世 の孫。スペイン王フェリペ5世 の祖父、ルイ15世 の曽祖父。
父ルイ13世が41歳で亡くなったため4歳で即位。宰相マザラン のもと三十年戦争の戦後 処理交渉などを行ったが、貴族抑圧政策に怒った貴族 や司法官と重税に抗議するパリ 市民が大反乱を起こした(フロンドの乱 )。一時パリに脱出し反乱が静まると反乱貴族の土地を没収した。
その後スペイン王女マリー・テレーズ と結婚。マゼラン死去後宰相を廃止し絶対君主となる。財務総監コルベール による重商主義 によりマニュファクチュア を育成し保護貿易主義 と植民地政策 により国家財政を莫大にすることに成功。ベルサイユ宮殿 の建設を開始する。
自然国境説 によりライン川 方面に進みネーデルラント に侵入。ついで英蘭戦争に乗じて領土を獲得。ファルツ継承戦争 も行う。スペイン継承戦争 で劣勢に立たされ生涯を終える。
ルイ16世
ブルボン朝 第5代のフランス 国王 (在位:1774年 5月10日 - 1792年 8月10日 )。ナバラ 国王 。
ルイ15世 の孫。妃はマリー・アントワネット 。ルイ17世 の父。
財政問題に悩まされ三部会招集。政治的に無策でバスティーユ襲撃 に始まるフランス革命 を呼び起こした。1793年 、ギロチン で斬首刑 にされた。
ナポレオン・ボナパルト
フランス の軍人 ・政治家 。フランス帝国 の皇帝 在位:1804年 - 1814年 、1815年
コルシカ島 の血統貴族 出身。ナポレオン2世 の父。
フランス革命中にジャコバン派を支持。フランス地中海艦隊の母港トゥーロン を奪回して功績を上げる。1795年 、王党派 の蜂起ヴァンデミエールの反乱 を鎮圧。1796年 、イタリア方面軍司令官に抜擢されオーストリアに連戦連勝。1798年 、エジプト に上陸し、ピラミッドの戦い で勝利。しかし12月第二次対仏大同盟 が結成されフランスが危機に陥ると、1799年 、ブリュメールのクーデター を起こし、統領政府 を樹立し自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握った。1800年にはフランス銀行 を設立。1804年 には初の本格的な民法「フランス民法典(ナポレオン法典 )」を公布。1801年 に教皇 ピウス7世 との間で政教条約 を結び、国内の宗教対立を緩和。1802年 に自らを終身統領(終身執政)と規定。
1804年5月国会の議決と国民投票 を経て皇帝の地位に就いた。1805年10月、ネルソン 率いるイギリス海軍の前にトラファルガーの海戦 にて完敗。対英上陸作戦を断念し大陸制覇に方針を変える。アウステルリッツの戦い でオーストリア帝国 とロシア帝国 に完勝。10月のイエナの戦い ・アウエルシュタットの戦い でプロイセン軍に大勝してベルリン を占領。ヨーロッパ中央をほぼ制圧する。1806年大陸封鎖令 を出しイギリスとの貿易を禁止させる。ティルジット条約 においてプロイセンは49%の領土を削り、さらに多額の賠償金をフランスに支払わせた。フランス はイギリス ・スウェーデン を除くヨーロッパ全土を制圧し、イタリア ・ドイツ 西南部諸国・ポーランド はフランス帝国の属国に、ドイツ 系の残る二大国、オーストリア ・プロイセンも従属的な同盟国となった(ナポレオン戦争 )。
しかしその後ロシア遠征 に失敗、ライプツィヒの戦い で大敗し1814年 首都パリが陥落。将軍連の反乱により退位させられ、エルバ島 に追放された(解放戦争 )。
1815年 、戦後処理のウィーン会議 の混乱とフランス王に即位したルイ18世 の政治が民衆の不満を買っているのをみて、ナポレオンはエルバ島を脱出し、パリに戻って復位する。しかし連合国に講和を提案したが拒否され、イギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦い で完敗して再び退位に追い込まれる(百日天下 )。南大西洋 の孤島セントヘレナ島 に幽閉され死去した。
ナポレオン3世 (ルイ・ナポレオン)
フランス第二共和政 の大統領 、のちフランス第二帝政 の皇帝 (在位:1852年 - 1870年 )
ナポレオン・ボナパルト の甥(弟のホラント王 ルイ の子)。ナポレオン・ウジェーヌ の父。
1851年12月2日のクーデター により王党派を一掃。国民投票にかけて92%の賛成票を得たうえで、1852年1月14日に新憲法 として公布。11月には国民投票により大統領に代わって世襲制の皇帝制が導入され皇帝に即位した(フランス第二帝政)。数々の国内政策・対外進出を続けたが普仏戦争 で捕虜になり廃位にされた。
イヴァン3世
モスクワ大公 (在位1462年 - 1505年 )
ヴァシーリー2世 の子。ヴァシーリー3世 ・ポーランド王 妃エレナ の父。
ルーシ 北東部を「タタールのくびき (モンゴル)」から解放し、モスクワ大公国 の支配領域を東西に大きく広げた
イヴァン4世
モスクワ 大公 (在位1533年 - 1547年 )、モスクワ・ロシア の初代ツァーリ 。
ヴァシーリー3世 の子。フョードル1世 の父。
東方への領土拡大が進められ、アストラハン・ハン国 とカザン・ハン国 をモスクワ国家に組み入れ絶対君主制 を発展させた。
ミハイル・ロマノフ
モスクワ・ロシア のツァーリ 、ロマノフ朝 最初の君主。在位:1613年 - 1645年
フョードル1世 の母アナスタシア を大伯母に持つリューリク朝 の姻戚。アレクセイ の父。
ツァーリ不在の動乱時代 中に即位。ロマノフ朝 を興した。
ピョートル1世
モスクワ・ロシア のツァーリ (在位:1682年 - 1725年)、初代ロシア 皇帝 。
モスクワ大公アレクセイ の子。ロシア女帝エリザヴェータ の父。
ロシアの工業化を推し進め、スウェーデン からバルト海 海域世界の覇権を奪取。新たな首都サンクトペテルブルク を建設した。
ピョートル3世
ロマノフ朝 第7代ロシア 皇帝 (在位:1762年 1月5日 - 1762年 7月9日 )シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ 公
ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒ の子。ピョートル1世 の孫。
プロイセン王フリードリヒ2世 の熱烈な崇拝者であった。七年戦争 の最中にプロイセンと即時講和(サンクトペテルブルク条約 )。対プロイセン休戦条約では占領地域を全て返還し、賠償金も要求しなかったため、ロシア国内及びにロシア軍内から不満の声が上がった。1762年6月28日、皇后エカチェリーナを支持する近衛部隊がクーデターを起こし、逮捕された。
エカチェリーナ2世
ロマノフ朝 第8代ロシア 女帝 (在位:1762年 7月9日 - 1796年 11月17日 )。ピョートル3世 皇后。
パーヴェル1世 の母。
クーデターにより即位。オスマン帝国 との戦争 で黒海沿岸とクリミア半島を獲得。第1次 、第2次 、第3次 のポーランド分割 を主導した。東方ではアラスカを占領。農奴制 を強化し南下政策 を続け自由主義 思想を厳しくとりしまった。
ニコライ1世
ロマノフ朝 第11代ロシア 皇帝 (在位:1825年 12月1日 - 1855年 3月2日 )、第2代ポーランド立憲王国 国王
パーヴェル1世 の子。父はアレクサンドル2世 。
デカブリストの乱 を鎮圧し専制政治を行う。ギリシャ やセルビア の独立運動を支援。ポーランド立憲王国 の自治権拡大運動を抑制。オスマン帝国との間にクリミア戦争 を起こすも戦争中に死去。
アレクサンドル2世
第12代ロシア 皇帝 (在位:1855年 3月2日 - 1881年 3月13日 )
ニコライ1世 の子、プロイセン王 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 の孫。アレクサンドル3世 の父。
クリミア戦争 の敗北後、農奴解放令 などの自由主義 的な社会改革を進めた。しかしナロードニキ の革命派のテロで暗殺された。
ニコライ2世
ロマノフ朝 第14代にして最後のロシア 皇帝 (在位1894年 11月1日 - 1917年 3月15日 )
アレクサンドル3世 の子。
日露戦争 中にロシア第一革命 にあい国会を開設。第一次世界大戦 に参戦するも二月革命 により退位させられその後処刑された。
紂王(帝辛)
殷 朝最後の第30代王 。
帝乙 の末子。武庚禄父 の父。
肉を天井から吊るし林に見立て、酒を溜めて池に見立て飲み食いしたことから「酒池肉林 」の語の由来となる。周の武王 に滅ぼされた。
武王
周朝 の創始者。
文王 の次子。成王 の父。
太公望 の補佐を受け、殷 を滅ぼした。
始皇帝
秦 の初代皇帝 在位:紀元前246年 - 紀元前221年
荘襄王 と趙姫 の間の子。
春秋戦国時代 を制し史上初の中国統一を達成。郡県制 で中央集権を行い、国家単位での貨幣や計量単位 の統一、阿房宮 、万里の長城 、兵馬俑 の秦始皇帝陵 の建設を行った。また旧習を否定する思想に染まり、儒学者 への不信感から「焚書坑儒 」を行った。
劉邦(高祖)
前漢 の初代皇帝 在位:前202年 2月28日 - 前195年 6月1日
陳勝・呉広の乱 などの全国的な騒乱状態、項羽 との戦い(楚漢戦争 )を制し中国全土を統一した。垓下の戦い からは『四面楚歌 』の語も生まれた。
農民から皇帝に上り詰めたことから、日本では豊臣秀吉 がよく引き合いに出される。
武帝
前漢第7代皇帝 在位:前141年 3月9日 - 前87年 3月29日
6代皇帝景帝 の子。8代皇帝昭帝 ・燕 王劉旦 の父。
匈奴 を打ち破り、西域 を影響下に入れ大宛 征服し、汗血馬 を獲得。また南越国 に遠征し、郡県に組み入れ、衛氏朝鮮 を滅ぼして楽浪郡 を初めとする漢四郡 を朝鮮 に置くなどし、前漢の最大版図を築き、前漢の全盛期となった。
光武帝
後漢 の初代皇帝 在位:25年 8月5日 - 57年 3月29日
6代皇帝景帝 の末裔。2代皇帝明帝 ・楚王劉英 ・東平王劉蒼 の父。
王莽 の帝位簒奪 で一度滅亡した漢の復興をさせ天下統一に成功した。また日本に漢委奴国王印 を贈った。
曹丕(文帝)
魏 の初代皇帝 在位:220年 11月25日 - 226年 6月29日
三国時代 の魏王曹操 の子。2代皇帝曹叡 の父。曹叡は日本の邪馬台国 の使者と会見し、卑弥呼 に王位を授けた。
劉備
三国時代の武将、蜀漢 の初代皇帝 在位:221年 - 223年 6月10日
2代皇帝劉禅 の父。
黄巾の乱 を鎮圧、諸葛亮(孔明) の天下三分の計 に基づいて益州 の地を得るなどし領土を広げた。「三顧の礼 」「水魚の交わり 」の語の元にもなった。劉禅の代で魏に敗北し滅亡 。
孫権
呉 の初代皇帝 在位:229年 5月23日 - 252年 5月21日
2代皇帝孫亮 ・3代皇帝孫休 の父。建業 を首都に定めたのは孫権が初。
司馬炎
西晋 の初代皇帝 在位:266年 2月4日 - 290年 5月16日
魏 の武将・政治家司馬昭 の子、2代皇帝恵帝(司馬衷) ・3代皇帝懐帝(司馬熾) の父。
魏から禅譲 を受けて晋 を建て、さらに呉 を滅ぼして 、分裂状態が続いていた中国をおよそ100年ぶりに統一した。
文帝(楊堅)
隋 の初代皇帝 在位:581年 3月4日 - 604年 8月13日
北周 の大将軍 の楊忠 の子。2代皇帝煬帝 の父。
587年 には南朝後梁 を、589年 には南朝陳 を滅ぼして、西晋 滅亡以来約300年にわたり乱れ続けてきた中国全土を統一した。
煬帝
隋の第2代皇帝 在位:604年 8月21日 - 618年 4月11日
楊堅 の次子。
洛陽 を東都に定め国都大興城(長安 )の建設を推進、黄河 と揚子江 を結ぶ大運河 を建設、万里の長城 の修復をした。高句麗遠征 を3度実施したが失敗した。日本からは第2回遣隋使 (607年)で小野妹子 との会見に渡された「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」の国書は著名。
李淵
唐 の初代皇帝 在位:618年 6月18日 - 626年 9月4日
西魏 の八柱国 のひとりの李虎 の孫、2代皇帝李世民 の父。
煬帝の治世時に反乱を起こし、唐を建国した。
李世民
唐の第2代皇帝 在位:626年 9月4日 - 649年 7月10日
初代皇帝李淵 の次男。3代皇帝李治 の父。
玄武門の変 にて皇太子の李建成 を打倒して皇帝に即位。賦役・刑罰の軽減、三省六部 制の整備などを行い、軍事面においても成績優秀者には褒賞を与え軍事力は強力し、唐の国勢は急速に高めた。また『晋書 』『梁書 』『陳書 』『周書 』『隋書 』の正史 を編纂をさせた。これらの充実した政策により、太宗の治世は貞観の治 と称される。この時代には李白 ・杜甫 ・白居易 などの詩人が登場し、日本の遣唐使 を受け入れている。
玄宗
唐の第9代皇帝 在位:712年 9月8日 - 756年 8月12日
5代・8代皇帝睿宗 の第3子。10代皇帝粛宗 の父。
「武 韋 の禍」と呼ばれる臣下の専横を鎮圧。仏教僧達の度牒 の見直し、税制改革、節度使 制の導入などをし開元の治 と呼ばれる善政で唐の中興期を迎え、日本の阿倍仲麻呂 を臣下に登用。しかし後年楊貴妃 を寵愛し政務を怠り、節度使 の安禄山 に反乱を起こされた(安史の乱 )。
朱元璋(洪武帝)
明 の初代皇帝 在位:1368年 1月23日 - 1398年 6月24日
永楽帝 の父。建文帝 の祖父。
貧農の家の末子。紅巾の乱 で実績を上げ元朝 を打破。劉基 ・宋濂 らを側近に置き、淮南・江南・大都 を占領。四川 の大夏国 、段氏の雲南 を平定し北元 をほぼ壊滅させ中国を統一した。
一世一元の制 を導入。重農政策 を打ち出し全国一斉に土地台帳、戸籍台帳を作り、里甲制 ・衛所制 を実施し、明の基礎を固めた。しかし胡藍の獄 と呼ばれる大粛清を行った。
建文帝
明の第2代皇帝 在位:1398年 6月30日 - 1402年 7月13日
洪武帝の孫。
即位後自分の叔父たちである周王朱橚 ・斉王朱榑 ・代王朱桂 をそれぞれ庶民に落とし、湘王朱柏 を焼身自殺させ、岷王朱楩 を漳州 に流した。
しかし燕王朱棣 に軍を起こされ(靖難の変 )失踪した。
燕王(永楽帝)
明の第3代皇帝 在位:1402年 7月17日 - 1424年 8月12日
洪武帝の四男。4代皇帝洪熙帝 の父。
靖難の変で南京 を陥落させ即位。都を北京 に遷都する。紫禁城 を造営。宦官 鄭和 に命じ大船団を南海に派遣した。1404年 に足利義満 に、「日本国王 」に冊封 して朝貢 貿易も許した(勘合貿易 )。
万暦帝
明の第14代皇帝 在位:1572年 7月19日 - 1620年 8月18日
13代皇帝隆慶帝 の第3子。泰昌帝 (朱常洛)の父。
主席大学士 (宰相 )張居正 により、一条鞭法 の導入・無用な公共事業の廃止などにより財政は好転。しかし張居正が死ぬと贅沢三昧の日々を送るようになる。万暦の三征 (朝鮮の役 ・哱拝の乱 ・楊応龍の乱 )の対応もあり、財政は再び悪化した。
太祖(ヌルハチ)
後金 の創始者・初代皇帝 在位:1616年 2月17日 - 1626年 9月30日
ホンタイジ の父。
イェへ以外の海西女真族 を全て支配下に入れる。1616年 、ハン の地位に即き、国号を後金 とする。明へ奇襲をかけ大勝し、イェへを統合し、悲願であった全女真族の統一に成功した。
太宗(ホンタイジ)
後金の第2代皇帝 在位:1626年 10月20日 - 1643年 9月21日
ヌルハチの五男
農業生産や経済力を身に付け、明との決戦に備えた。
道光帝
清 の第8代皇帝 在位:1820年 10月3日 - 1850年 2月25日
嘉慶帝 の子。
国内では反乱が続発しイギリスとのアヘン戦争 に敗れ開国を強いられた。
溥儀
大清国 第12代にして最後の皇帝 在位:1908年 12月2日 - 1912年 2月12日 。大満州帝国 皇帝 。
光緒帝 の甥。
辛亥革命 により退位。日本の保護の下で満洲国皇帝(康徳帝)に即位するも、満洲国の崩壊に伴いソ連軍 の捕虜 になる。
注釈
楚 が「王」を名乗ることがあったが、文明外の蛮族を称するようなものと見なされた。
ブータンは国王の称号を「ドゥルック・ギャルポ(雷竜王)」と称する。
マレーシア国王は国内九州のスルターンによる互選制であり、称号はアゴン
「マンガ 世界の歴史が分かる本」綿引弘 小杉あきら/ほしのちあき 2016年 三笠書房
「世界史B用語集」全国歴史教育研究協議会編 2006年 山川出版社