但馬国
近国に属する令制国の一つ ウィキペディアから
「但馬」の名称
領域
明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。
当該地域の2010年国勢調査による人口は17万9530人(男8万5568人/女9万3962人)、世帯数は6万1880世帯、面積は2099.01km2、人口密度は85.5人/km2[1]。
沿革
要約
視点
のちに但馬国となる地域には以下の2つの国造が置かれていた。
- 但遅麻国造(たじまのくにのみやつこ、たじまこくぞう) ⋯⋯ のちの但馬国東部にあたる地域(のちの朝来郡・養父郡周辺にあたる[2])を支配した。氏族は但馬氏。『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば第13代成務天皇の代に竹野君同祖の彦坐王(第9代開化天皇皇子)の五世孫である船穂足尼を国造に定めたという。
- 二方国造(ふたかたのくにのみやつこ、ふたかたこくぞう) ⋯⋯ のちの但馬国西部にあたる地域を支配した。但馬国には二方郡の名が残り、明治29年(1896年)七美郡と二方郡の地域をもって発足した美方郡の現在の郡域(香美町・新温泉町)の周辺が二方国造の支配地域である[3]。『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば但遅麻国造と同じ成務天皇朝に出雲国造同祖の遷狛一奴命の孫である美尼布命を国造に定めたという。
こののち、のちの丹波国・丹後国・但馬国の3国にあたる地域は丹波国造の支配地域である丹波国となった。但馬国は7世紀後半に丹波国より8郡を分割して成立したとする説もあるが確証はない。『日本書紀』天武天皇4年(675年)条に国名がみえるので、この頃成立したと推定されている。
近世以降の沿革
国内の施設
要約
視点
国府
初期の国府の所在地には、豊岡市出石町の袴狭(はかざ)遺跡とする説、気多郡(現在の豊岡市日高町)内とする説があるが、明らかでない。『日本後紀』によると、延暦23年(804年)に気多郡高田郷に国府が移されたという[注釈 2]。豊岡市役所日高振興局(旧日高町役場)の付近で発掘された祢布ヶ森遺跡(豊岡市日高町祢布)がこれに比定される(北緯35度28分11.02秒 東経134度46分14.78秒)。
国分寺・国分尼寺

但馬国分寺跡 石碑
(兵庫県豊岡市)
(兵庫県豊岡市)
但馬国分尼寺跡 石碑
(兵庫県豊岡市)
(兵庫県豊岡市)
- 但馬国分寺跡(豊岡市日高町国分寺、北緯35度28分18.90秒 東経134度46分25.58秒)
- 国の史跡。寺域は1町半(約160メートル)四方。伽藍遺構として金堂・回廊・塔・中門、また寺域を示す築地の雨落溝の一部が確認され、その溝からは36点の木簡が出土している。跡地付近にある護国山国分寺(豊岡市日高町国分寺、北緯35度28分20.83秒 東経134度46分23.36秒)が法燈を伝承する。
- 但馬国分尼寺跡(豊岡市日高町水上・山本、北緯35度28分48.98秒 東経134度46分33.78秒)
- 国分寺跡から北方の豊岡市立日高東中学校付近。礎石が伝世され、尼寺の遺構とされる。北方の天台山法華寺(豊岡市日高町山本、北緯35度29分3.68秒 東経134度46分37.82秒)が後継を称する。
神社
- 朝来郡 粟鹿神社
- 比定社:粟鹿神社(朝来市山東町粟鹿)
- 養父郡 夜夫坐神社二座(五座のうち)
- 比定社:養父神社(養父市養父市場)
- 養父郡 水谷神社
- 比定社:水谷神社(養父市奥米地)
- 出石郡 伊豆志坐神社八座
- 比定社:出石神社(豊岡市出石町宮内)
- 出石郡 御出石神社
- 比定社:御出石神社(豊岡市出石町桐野、北緯35度26分55.88秒 東経134度53分49.67秒)
- 気多郡 山神社
- 比定社:山神社(豊岡市日高町山宮、北緯35度29分21.49秒 東経134度42分12.24秒)
- 気多郡 戸神社
- 比定社:戸神社(豊岡市日高町十戸、北緯35度28分38.59秒 東経134度42分36.62秒)
- 気多郡 雷神社
- 比定社:雷神社(豊岡市佐野、北緯35度30分45.16秒 東経134度48分33.11秒)
- 気多郡 㯮椒神社
- 比定社:㯮椒神社(豊岡市竹野町椒、北緯35度32分18.50秒 東経134度42分15.26秒)
- 城崎郡 海神社
- 比定社:海神社(豊岡市小島、北緯35度38分24.53秒 東経134度49分22.05秒)
出石神社(兵庫県豊岡市)
- 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[4]。
- 総社:気多神社(豊岡市日高町上郷、北緯35度28分41.38秒 東経134度47分35.68秒)
- 一宮:出石神社(豊岡市出石町宮内、北緯35度28分55.01秒 東経134度52分13.03秒)
- 二宮:粟鹿神社(朝来市山東町粟鹿、北緯35度18分2.66秒 東経134度54分17.40秒)
- 三宮:次の2説。
- 水谷神社(養父市奥米地、北緯35度23分37.68秒 東経134度50分30.08秒)
- 養父神社(養父市養父市場、北緯35度23分14.83秒 東経134度48分13.79秒)
地域
郡
- 朝来郡 - 朝来市
- 養父郡 - 養父市、朝来市(大蔵・糸井地区)、豊岡市(日高町赤崎・日高町朝倉地区)
- 出石郡 - 豊岡市(出石地域、但東地域、神美地区)
- 気多郡 - 豊岡市(日高地域、竹野町南地区)
- 城埼郡 - 豊岡市(城崎地域、豊岡・八条・三江・田鶴野・五荘・新田・奈佐・港地区)
- 美含郡 - 美方郡香美町(香住区)、豊岡市(竹野町竹野・竹野町中地区)
- 七美郡 - 美方郡香美町(村岡区、小代区)、養父市(熊次地区)
- 二方郡 - 美方郡新温泉町
※郡名は『延喜式』による。
江戸時代の藩
明治時代の藩
- 村岡藩:山名家(1万1千石)
人物
国司
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但馬守
- 山背王(藤原弟貞):天平宝字元年(757年)任官
- 高麗福信:天平宝字7年(763年)任官
- 藤原魚名:宝亀元年(770年)任官
- 藤原刷雄:775年頃
- 藤原内麻呂:延暦15年(796年)任官
- 良岑安世:弘仁4年(813年)任官
- 藤原長岡:天長8年(831年)任官
- 春澄善縄:仁寿2年(852年)任官
- 源経基:960年頃
- 源為親:寛和2年(986年)任官
- 源国盛:永延元年(987年)任官
- 源致遠:永祚元年(989年)任官
- 高階明順:正暦4年(993年)任官
- 平生昌:長徳4年(998年)任官
- 高階明順:長保元年(999年)任官
- 源則忠:寛弘3年(1006年)任官
- 藤原朝経:寛弘4年(1007年)任官
- 大江嘉言:寛弘6年(1009年)任官
- 源頼光:1010年頃
- 源国拳:寛弘8年(1011年)任官
- 橘為義:長和5年(1016年)任官
- 源則理:1035年頃
- 橘俊綱
- 藤原顕綱
- 平正盛:天仁元年(1108年)任官
- 平経正
- 藤原忠隆:元永元年(1118年)任官
- 平忠盛:天承元年1131年任官?(平家物語に記載有り)
- 藤原隆季:長承2年(1133年)任官
- 源家長:建保6年(1218年)任官
但馬介
守護
鎌倉幕府
室町幕府
国人
戦国大名
織豊大名
武家官位の但馬守
江戸時代以前
江戸時代
但馬国の合戦
現代的用法
但馬は、現代でも兵庫県北部を指す地域名として用いられ、但馬地域とは、具体的には豊岡市・養父市・朝来市・香美町・新温泉町の3市2町で構成される地域を表す意味で用いられるのが一般的である[5][6]。
また、そのうち北部を北但(ほくたん)、南部を南但(なんたん)として二分することがある。(北但を、北但東部〈豊岡市〉、北但西部〈香美町・新温泉町〉と二分して、但馬全体を三分することもある。)北但を兵庫県北部として、南但を播磨北西部・北播磨・丹波地域と合わせて「中部」に分類する考え方もある。
気象予報区域
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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