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長尾 当長[注 1](ながお まさなが)は、戦国時代の武将。足利長尾氏当主。永禄4年(1561年)12月以降、景長と名乗った[1]。
父・長尾憲長の跡を受け家督を継ぐ。はじめ、関東管領・上杉憲當(憲政)[注 2]から偏諱を受け當長(当長)と名乗った[1]。関東管領家の家宰として活躍して[要出典]足利藤氏の元服の際、但馬守となった[1]。だが、憲当が、後北条氏に圧迫されるように関東から撤退すると、関東管領家家宰職も事実上消滅し、当長も北条氏康に降る。
永禄3年(1560年)にいったん出家して「禅昌」と名乗るが、同年11月には再び還俗して「當長(当長)」に名を戻す。[要出典]。
同4年(1561年)3月、上杉憲政が家督や関東管領職等を長尾景虎(上杉謙信)に譲ると、景虎より偏諱を受けて、祖父・長尾景長と同じく「景長」を名乗ったと推測される[1]。やがて上杉政虎と改名した景虎が関東出兵に乗り出すと、同じ長尾氏としてこれを支援する。
永禄5年(1562年)2月、上杉(謙信)勢が赤井氏の館林城を落とすと、同月末、景長(当長)はこの城を預けられた[4]。また、赤井氏の支配領域であった上野国邑楽郡は、景長と小泉城城主・富岡重朝に二分された[5]。赤井氏の配下にあった土豪も長尾氏に吸収された[5]。
政虎が後北条氏を圧迫し、後に越相同盟まで結ぶようになると、上杉・北条両家の軍事的・外交的な折衝に当たった[要出典]。
永禄12年(1569年)7月15日、死去[6][7]。43歳[1]。法名は心通禅空大居士[2][1]。心通院(足利市)に宝篋印塔がある[8][6]。
景長の死後は婿養子・顕長が跡を継いだ[7]。館林城は同じく婿であった広田直繁に与えられたようである。また、男子に北条氏政から偏諱を受けたとされる長尾政長(読みは当長と同じ[要出典])がいたとされるが、顕長が跡を継いでいることから早世したものと考えられる。
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