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イギリス植民地時代のインド生まれのイギリスの作家 (1903-1950) ウィキペディアから
ジョージ・オーウェル(英: George Orwell、1903年6月25日[3] - 1950年1月21日[4])こと本名エリック・アーサー・ブレア(英: Eric Arthur Blair)は、イギリス植民地時代のインド生まれのイギリスの作家、ジャーナリスト、民主社会主義者。ミドルネームを排してエリック・ブレアとも表記される[5][6][7]。
社会主義者時代の1936年12月にスペイン内戦で無政府主義者らに感化されて、翌1937年初頭に民兵組織POUM(マルクス主義統一労働者党)という共和派の義勇兵に加わったものの、「トロツキー主義者」とレッテルを貼られたPOUMに対するスターリン指導下の共産党による粛清開始で危機一髪のところでフランスに脱出(『カタロニア讃歌』)。共通の敵だと思っていたファシスト(フランコ政権側)より味方であるはずのソ連・スターリニストの方が悪辣だったことを体感して、ソ連の「粛清」を嫌悪する民主社会主義者となっている[8][7]。
これらの経験から反スターリニズム(反共産主義)・反ファシズムという反全体主義思想となった。1945年の戦時中に「報道の自由[注釈 1]」とロシアのスターリン主義と共産主義への痛烈な批判である、人間の農場主へ革命を起こした動物たちが二人の指導者の片方により苛烈な支配をされる過程を描いた風刺小説『動物農場[注釈 2]』を執筆し、この『動物農場』でベストセラー作家となる[5][10][11]。
全体主義国家の本質や残酷さを細かく描いた近代文学の傑作『1984年』の作者である。『1984年』で描かれたような監視管理社会を「オーウェリアン」 (Orwellian) と呼ぶ。『1984年』は、1998年にランダム・ハウス、モダン・ライブラリーが選んだ「英語で書かれた20世紀の小説ベスト100」、1999年に「ル・モンド20世紀の100冊」、2002年にノルウェー・ブック・クラブ発表の「史上最高の文学100」[12]に選ばれ、オーウェルは20世紀のイギリス文化における最高の記録保持者とみなされている[13]。
1903年、イギリスの植民地時代のインド・ベンガルのビハール州モチハリにて、エリック・アーサー・ブレアとして生まれる[14]。エリックの曽祖父チャールズは、ジャマイカの農場での収入による不在地主として、ドーセットの田舎の裕福な資産家であった[15]。祖父のトーマス・リチャード・アーサー・ブレアは聖職者[16] だった。上流階級への所属は次代へと受け継がれたが、裕福さは世襲されなかった。エリックは、のちに自らの出身階級を"lower-upper-middle class"(「中の上」のうちの「下」寄りの階級)と表現している[17]。
父のリチャードはインド高等文官であり、アヘンの栽培と販売をしていた。母のアイダはビルマで育ち、エリックが1歳の時にイギリスに帰国し、1907年になるまでリチャードを見ることはなかった。リチャードは3か月滞在してから1912年まで再び帰国することはなく、姉のマージョリー (Marjorie) と妹のアヴリル (Avril) と、単身赴任中の父が不在の母子家庭で育った。
エリックが5歳の時に、姉も通ったヘンリー (Henley) にある小さな聖公会の学校に通うことになる。エリック自身はこの学校について特に何も書き残さなかったが、教師からは高い評価を得たことは間違いなく、2年後に校長からイングランド・サセックス郡イーストボーン (Eastbourne) にある当時有名な進学校、聖シプリアン校に校長からの推薦と学費の半額に当たる奨学金を得て進学している。進学校での生活は辛いものであったようで、皮肉を込めて『あの楽しかりし日々』という表題のエッセイに当時の様子を記している。しかし、学業は成功を収めており、イートン・カレッジとウェリントン・カレッジの両学校への推薦と奨学金を得ている。
奨学金つきで1917年から1921年の4年間をウェリントンとイートン校で過ごす。ウェリントンでは1917年1月からの1学期を過ごし、1917年5月にイートンに国王奨学生として転校した。幾人かの教授から反抗的な態度をとっていると評され、厳しい成績をつけられたものの、イートンの自由な校風はオーウェルに良く合ったようで、後に有名になるイギリスを代表する知識人たちと知り合いになったのはこの頃である。しかし、その自由さに毒されたのか、真剣に研究に打ち込むことはなかった。
1922年にイギリスを離れ、マンダレーでインド警察の訓練所に入所し、その後5年間各地で勤務することになるが、帝国主義の片棒を担ぐ警官の仕事を激しく嫌うようになっていたオーウェルは、1927年に休暇をもらった折にイギリスに帰り辞表を出すと、2度とビルマには戻らなかった。ビルマ時代の体験を基にして1934年に出版した『ビルマの日々』では、現地人を見下すイギリス人の姿が登場人物のレイシスト、エリスを通じて端的に描かれている。また半自伝的短編である『象を撃つ』『絞首刑』では大英帝国の官吏としての目線からイギリスによる植民地支配の虚しさ、非人間性を批判的に描いた。
最底辺生活者の生活のルポ作品を描こうと考えたオーウェルは、1928年から1929年、文章を書きながら、のちには皿洗いとして働きながらパリで暮らす。1930年から1931年はロンドンとロンドン周辺を、浮浪者にまじって放浪する。その経験をもとに、1933年に最初の著作『パリ・ロンドン放浪記』を刊行した。
なおオーウェルは実生活では、煤けたロンドンを嫌っており、1935年にはエセックス州で養鶏業を営んでいる。
1936年、小説『葉蘭をそよがせよ』の執筆後、同書の出版を行うゴランツ社からの依頼でイングランド北西部グレーター・マンチェスター周辺の工業地帯を取材する[18]。同年6月にアイリーン・モード・オショーネシーと結婚[19]。
1937年、前年の取材を元にしたルポルタージュ『ウィガン波止場への道』を刊行。
スペインでは王政が倒れ、内戦が起きていた。彼は1936年に「新聞記事を書くつもり」でスペインを訪れたがバルセロナでの「圧倒的な革命的な状況」に感動して、1937年1月、フランコのファシズム軍に対抗する一兵士としてトロツキズムの流れをくむマルクス主義統一労働者党(POUM)アラゴン戦線分遣隊に参加し、伍長として戦線へ赴いた。そこでオーウェルは、人民戦線の兵士たちの勇敢さに感銘を受ける。また、ソ連からの援助を受けた共産党軍のスターリニストの
5月に前線で咽喉部に貫通銃創を受け、まさに紙一重で致命傷を免れる。傷が癒えてバルセロナに帰還するとスターリン主義者によるPOUMへの弾圧が始まっており、追われるようにして同年6月にフランスに帰還する。
1938年4月、スペイン内戦体験を描いた『カタロニア讃歌』を刊行する。彼の存命中には初版1500部のうち900部が売れたという。
1938年9月から療養を兼ねてモロッコへ渡り小説『空気を求めて』を執筆。モロッコではマラケシュに滞在し、7か月後にイギリスに帰国[20]した。当時のモロッコはフランス、スペインの両国の保護領であり、マラケシュ滞在時に現地人の絶対的貧困を目にしたオーウェルはヨーロッパ諸国の植民地支配の不当性をエッセイ『マラケシュ』で論じた。
1939年9月に第二次世界大戦が始まると、イギリス陸軍に志願するも断られ、ホーム・ガードに加わり軍曹として勤務する。
1941年にBBCに入局。東洋部インド課で、東南アジア向け宣伝番組の制作に従事する(『戦争とラジオ―BBC時代』を参照) 。主に文芸作品を紹介する内容の番組を制作し、当時の様子について後年、エッセイ『詩とマイクロフォン』で描いている。
1943年11月にBBCを退職後は、週刊新聞『トリビューン』の文芸担当編集長に就任し、『気の向くままに』と題したコラムの連載を始める[21]。このコラムは途中に休止をはさみながら1947年4月まで80回にわたって続いた。
1944年にはオーウェルの強い希望で、生後10か月の男の子を養子として引き取り、リチャード・ホレイショ・ブレアと名付ける[22]。
1945年2月には『トリビューン』紙での職を辞し、『オブザーバー』紙・『マンチェスター・イブニング・ニュース』紙の戦場特派員としてドイツを取材。同年3月、妻のアイリーンが手術中の事故で急死し、その報せを受けてイギリスへ戻る[23]。取材時の様子については同年、エッセイ『荒廃したドイツの未来』『復讐の味は苦い』として発表されている。
1947年に結核にかかり、療養と『1984年』の執筆をかねて父祖の地スコットランドの孤島ジュラの荒れた農場に引きこもったが、同地は湿気が強く結核治療には適した地ではなく、本土の病院に9か月の入院生活を経て、再びジュラに帰るも積極的な治療は拒否し、1949年に『1984年』を書き終える。その後は南部のグロスターシャ州のサナトリウムに移住した。
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