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アメリカのロックバンド (1965-73, 89-90) ウィキペディアから
ジェファーソン・エアプレイン(Jefferson Airplane)は、アメリカ合衆国出身のロックバンド。60年代のアメリカンにおけるロック黄金時代から活動するバンドの一つで、サイケデリック文化を象徴する代表的グループ。一度解散後、ジェファーソン・スターシップ(Jefferson Starship)に改名して音楽活動を継続し、更にスターシップ(Starship)へと分離した。1996年「ロックの殿堂」入り。
1990年代以降は、ポール・カントナーが再興したジェファーソン・スターシップ(Jefferson Starship - The Next Generation)と、ミッキー・トーマスが主宰するスターシップ(Starship featuring Mickey Thomas)の2つの流れが共存している。
ジェファーソン・エアプレイン自体は1965年から1970年代前半まで活動したバンドだが、「ジェファーソン」と名乗るバンドの鍵を握るのは、創設メンバーであるマーティ・バリン(バーリン、ベイリン)、ポール・カントナーだった。エアプレインにとどまらず、ジェファーソン・スターシップ以降も記述する。
マーティ・バリン/ポール・カントナーの創始メンバーによる『ジェファーソン・エアプレイン』~『ジェファーソン・スターシップ』~『現在のジェファーソン・スターシップ』、『グレイス・スリック在籍の時期のスターシップ』~『スリック脱退後のスターシップ』、及び『ミッキー・トーマス率いる現在のスターシップ』は、それぞれ異なるファン層を持ち、「まったく別なバンド」と見るのが妥当である。
1960年代に吹き荒れたビートルズ旋風/ブリティッシュ・インヴェイジョン[注 1]、その刺激を受けて続々と誕生した新世代のUSバンドを代表するグループだった。反体制や薬物体験を歌った歌詞などにより、「60年代カウンターカルチャー」の申し子とも見られた。また、ドラッグカルチャーやライトショウを駆使したステージに象徴されるサイケデリアの時代に、バンドは最初のピークを迎えた[注 2]。そのイメージから、日本では「サイケデリック・ロック」の代表格として語られる事も多いのだが、実際にはそのサイケ時代は短く、より幅広い音楽的要素を持っているバンドである。
バンド創設者、マーティ・バリンは1962年にポップス/R&Rシンガーとしてシングル・デビューし、その後サンフランシスコに移りダンサーで活躍したり、フォーク・グループに参加していたが、バンド・スタイルで自分のグループ結成を目論む。一方、根っからのフォーキーであるポール・カントナーはフォーク・シンガーとしてサンフランシスコのコーヒーハウスなどで活動していた。この2人が出会い中心に、1965年にジェファーソン・エアプレインの母体が出来上がりライブ・デビュー。RCAとの契約はサンフランシスコ・エリアのロックバンドで初メジャー契約のバンドとして一躍注目を集めた。当初はバリンのボーカルを中心に、1966年のデビュー・アルバム「テイクス・オフ(Takes Off)」[8] では、サンフランシスコ・ローカルのトップ・グループ、ボーブラメルズ(Beau Brummels・英語版)の流れを汲む軽快な楽曲、フォーク・シーンでは堅実なブルース・ギターを得意にとしていたカウコネンらの演奏に、プロデュースと録音エンジニアを務めたデヴィッド・ハッシンジャー(:David Hassinger・英語版)のアレンジでフォーク/R&R/R&B/ブルースが混ざり合ったフォークロックだった。東海岸ニューヨークのラヴィン・スプーンフルやブルース・プロジェクトなど派生したグループと西海岸サンフランシスコでは音楽傾向が異なった。フォークロック先駆にあたるバーズは1966年にアルバム「霧の5次元(Fifth Dimension)」を発表、この新奇な(ロックミュージックの)実験音楽が流行し電気増幅された楽器と音響装置の改良進化を反映したものだった。演劇と実験音楽やオペラなどの体験から独自に特徴ある男女3人によるボーカルハーモニーで一般的認知のギター/ベース・サウンドが絡むスタイルはほぼ確立されていった。
1967年の『Surrealistic Pillow』制作前にはグレイス・スリックが加入してバンドに一大飛躍をもたらす[注 3]。そのカリスマ性を体現するかのような強力な歌声で、アルバムから「ホワイト・ラビット」[注 4] の中ヒット、「サムバディ・トゥ・ラブ:Somebody To Love」[9] の大ヒットが生まれた。また各メンバーも強烈に主張し始め、バリン作のメランコリックな曲、すでにホット・ツナを予感させるヨーマ・カウコネンの曲、3人のボーカルが絡み合う曲など、その後長らくバンドを彩る多様なスタイルがすでに現れていた。そして、モンタレー・ポップ・フェスティバルへの出演によりエアプレインの名前は全米に広まった。この頃よりライブ照明にリキッドライトを導入している。
当初はバリンがリーダーだったが、3rdアルバムを制作する頃からは、独創性を発揮し始めたカントナーのリーダーシップや他メンバーの主張も台頭し、バンド内の力関係も変化し始める。傍目には危ういとさえ感じられるこの個性のぶつかり合いこそが、バンドを時代の頂点に押し上げる原動力になった。ちなみに、バリンはポップ・ソングやR&R/R&B、カントナーはフォーク・ミュージック、ギターのカウコネンはトラディショナルなブルースの追求者、ベースのジャック・キャサディはR&B、ブルーズ、R&R、ジャズと幅広く好み、ドラムスのスペンサー・ドライデンはジャズ出身という多様性を持っていた。
当時の大掛かりなフェスティバルにも、くまなく参加し1967~1969年にかけて人気はピークに達した。ひたすら新しい音楽表現を追求したサイケデリアの時代が過ぎ、1969年のウッドストック[注 5] に出演する頃にはベトナム戦争が泥沼化、バンドは「反体制メッセージ」の代弁者としての存在感が増して行く。その中心は、政治的メッセージを発するカントナーと、カリスマ性が頂点に達したスリックに移っていた。また、演奏スタイルも1970年代に入る頃にはストレートで、ややハードなものに変化していった。
一方、余りにも過酷になった活動の中で、よりパーソナルな音楽活動を望むカウコネンとキャサディは1969年ごろからブルーズ・デュオ:ホット・ツナ・Hot Tunaの原型をスタート。西海岸のミュージシャンとPlanet Earth Rock and Roll Orchestraと呼ぶセッションを活発に行なっていたカントナーは、1970年に自己のプロジェクトユニット、Paul Kantner Jefferson Starship名義でのアルバムを発表した(ここでスターシップという次のコンセプトが生まれた。理屈の通らない権力者などは相手にせず理想を追求する人達で宇宙に脱出しようというストーリーは、1969年発表の曲「Wooden Ships」が原点。)。さらに、1969年12月6日オルタモント・フリーコンサートの出演では、観客の喧嘩に直接仲裁へステージから飛び降りたバリンに暴徒の一人が殴りかかり、その場で卒倒失神する傷害事件発生やジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンの死を契機に、バリンは音楽活動自体を見直したいと考えるようになり、自分が作ったバンドから1971年に脱退。
RCAとの契約期間が終了したバンドは、このような状況においても1971年に自分達のインディペンデント・レーベル「GRUNT(グラント)」を設立し、同年、エアプレインとしてミリオンセラーのスタジオ作『Bark(バーク)』を制作。他のアーティストとも契約して作品をリリースするなど、チャレンジは続けた。しかしこの時期、L.A.勢力の台頭など音楽シーンの新旧交代も影響してエアプレインとしての活動は停滞。カントナーはスリックのソロを含むプロジェクト作品を1973年までに更に3枚制作してスターシップのコンセプトを発展、ホット・ツナもアルバム制作を続けるなど、各々のソロ活動が本格的になり、外に向かって行った。
1972年に最後のツアーが行なわれた後、翌1973年にはそのライブ盤がリリースされた。しかし、Hot Tuna組の2人は完全にバンドを離れてしまい、ジェファーソン・エアプレインは正式に解散した。
エアプレイン解散の翌1974年、カントナー・プロジェクト(1970-1973)のメンバーをベースにグレイス・スリックの1stソロをプロモートするツアーを行なう事になり、バンド名をパーマネントバンドとしてのジェファーソン・スターシップに決定。メンバーは、ポール・カントナー、グレイス・スリック、ディヴィッド・フライバーグ、パパ・ジョン・クリーチ、ジョン・バーベイタのエアプレイン最終組に、ギタリストのクレイグ・チャキーソ、ベーシスト/ギタリストにピーター・カウコネン(ヨーマの実弟)を加えたもの。この公演の後、ピーター・カウコネンがピート・シアーズに交代して1stアルバム『Dragon Fly』 が制作された。
このように、ある時期を境にエアプレインからスターシップに単に改名されたのではなく、「エアプレイン」と「カントナーのスターシップ」が平行して活動し、エアプレインが解散した後でスターシップが改めてデビューしたのが経緯だった。1stアルバムとライブにはマーティ・バリンが早くもゲスト参加し、その曲「Caroline」はFMステーションでヘビーローテーションになる。2ndアルバム『Red Octopus』(エアプレイン以来初の全米最高1位獲得)からはバリンがフルタイムで復帰し、彼の作品「ミラクルズ:Miracles」[10](シングルチャート最高3位)が大ヒット。同年の「ランナウェイ」も好評だった。さらに78年には、「カウント・オン・ミー」もヒットした。復活したバリン/スリック/カントナーのコーラスワークを新しいバンド・アンサンブルに載せて、一気に人気グループの座を奪還した。エアプレインとは大幅に異なる音楽を取り入れて1970年代ロックシーンのメインストリームに登場した形だが、この時はメンバー自身が主導して掴んだ成功であり、1980年代に起きた変化(後述)とは異なっていたと言える。1970年代のロックシーンで通用する音楽作りという面では、作曲・編曲で大活躍を見せたピート・シアーズの手腕が大きく貢献した。また、カウコネンとは全く違ったコンテンポラリーなスタイルを持つクレイグ・チャキーソも演奏・作曲で活躍した。
4年余り続いたこのジェファーソン・スターシップの全盛期には、音楽的にバリンの存在感が大きくなり、エアプレイン結成以来ようやく彼の理想的なバンドが実現した時代でもあった。そして彼だけでなく、グレイス・スリックの歌唱力を生かした曲や、エアプレイン以来のボーカル・ワークを生かした曲も数多く生まれ、4枚のアルバムが成功を収める。バンドとしての調和もとれた時期だった。しかし、長らくバンドのシンボルであり続けたスリックが、精神的不安定から深刻なドラッグ中毒のトラブルを抱え一時脱退を余儀なくされる(1978年-1981年)。リードシンガーはマーティ・バリン一人という体制でツアーも続け、1978年にはこの編成での最終シングル「Light The Sky on Fire」を発表。これは、アメリカのTV版『Star Wars Holiday Special』のテーマ曲になり、バンドも演奏シーンで出演した。この後、ドラマーのジョン・バーベイタが自動車事故で活動できなくなり、エインズレー・ダンバーが参加する。
バンドは、ラブ・バラード等を極力減らしてより強力な音楽でイメージチェンジを図ることを決め、新作のためのリハーサル/レコーディングに入る。しかし、再びバリンがバンドを離れる事態になり、後任として南部出身のミッキー・トーマスを起用[注 6]。完成された1979年の『Freedom At Point Zero』は、トーマスの声質を生かしたハードロック路線だった。TOTO風ハード・ロックのシングル盤「ジェーン」はまずまずの成功を収めたが、60年代以来のファンからは産業ロック志向であるとの否定的な評価を受けた。その延長線上で創られた1981年の『Modern Times』にはグレイス・スリックがゲストとして参加、さらに1982年の『Winds Of Change』では正式復帰した。バンドは万全の体制に回復したかに見えたのだが、1980年代初頭から方向性の模索を続けなければならない状況に陥っていた。レコード会社は、当時のメインストリームになったジャーニー/ボストン/ヴァン・ヘイレン/カンサス/スティクス/ナイト・レンジャー/TOTO、REOスピードワゴン、フォリナーといった産業ロック/スタジアム・ロック・スタイルのヒット曲を要求。そして、さらに急速に変化する音楽シーンはMTV全盛期に突入し、音楽ビジネスの先端は、ビジュアル戦略にも重きを置いたマドンナ、マイケル・ジャクソンなどのポップ・ソングに移って行った。
会社は1960年代以来のベテラン・アーティストに厳しい対処をするようになり、ジェファーソンらしい音楽は急激に失なわれ、メンバー間の対立も深刻になった。それは一般的に伝えられたような、カントナーひとりが浮いてしまったという単純なものではなかった。より若いターゲットに向けてコンテンポラリーなMTV路線を志向するようになったミッキー・トーマス/クレイグ・チャキーソ/ドニー・ボールドウィン、それに対して、シンセサイザー/コンピューターを多用しながらも従来通りのコアなロック・ファンにアピールしたいと考えるポール・カントナー/ピート・シアーズ/ディヴィッド・フライバーグの2派に別れ、最後の切り札を握るのがグレイス・スリックという構図だったと伝えられる。
この間、マーティー・バリンは81年に「ハーツ(ハート悲しく)」のヒットを放った[注 7]。この勢いで82年1月にソロバンドで来日を果たしている。カントナーは13年ぶりにソロ・プロジェクトでの制作を復活、「Planet Earth Rock And Roll Orchestra」名義でのソロ・アルバム『Planet Earth Rock And Roll Orchestra』を発表、こちらの方が、本来のジェファーソンサウンドが展開されている作品だった。続くジェファーソン・スターシップの『Nuclear Furniture』では、当時最新のエレクトロ・ポップを大幅に導入。ここで本来のコンセプト・メーカーであったカントナーが突出してバンドと対立するようになる。
この時期はレコードセールスの要因もあって、特に日本では「スターシップ」についての情報しか入らず、長いジェファーソンの歴史で単に最後のバンドがスターシップだった、という認識が強い。しかし、1985年以降の数年間は、スリックやトーマスを看板とするスターシップと、カントナーを中心としたKBC/再結成エアプレインに分裂していた。
やがて、レコード会社やプロデューサーが求めるような、MTV時代に生き残るためのスタイルを受け入れようと考えたスリック/トーマスがバンドの方向性を握るようになる。バンドの変容は進み、あるライブでは女性バック・コーラスを配置する案まで出て、これにカントナーは激怒。また、当時勢いに乗っていたロックバンド「ジャーニー」の前座を務めるという提案もあったが、かつて一緒にツアーをした時に比べ「極度に安い報酬を提案された」ために拒否、という話も残っている。このような経緯から、もはや主導権が取れなくなったカントナーは、もう1枚アルバムを制作した後に解散するという意思を表明するが、他メンバーは存続を要求。1984年、結局カントナーが単独で脱退し、残ったメンバー達にバンド名「ジェファーソン・スターシップ」を使わないように訴訟を起こす。(公判中、一時スターシップ・ジェファーソンと名乗って公演を続けたといい、事態の混乱を物語っている)1985年の判決の結果、両者とも使えないことになり、折衷案として「ジェファーソン」をはずして「スターシップ」となり、新たにRCAと4枚のアルバム制作の契約を結んで再出発した。
バンドは当時先端のサウンドを全面的に取り入れ、マーティン・ペイジによるシングル「シスコはロックシティ(We Built This City)」(これは邦題だけで実際は特定の街を歌ったものではない。)は、エアプレイン時代から通算してもシングル初となる全米1位(1985年11月16日付 - 23日付)を獲得。エアプレイン以来果たせなかった日本公演も実現している。
外部ライターの楽曲を中心に、完全にマーケティング主導型の制作をする「コーポレート・ロック体制」に変更。ファン層は入れ替わった。「Sara」(1986年3月15日付)、「Nothing's Gonna Stop Us Now(愛はとまらない)」(1987年4月4日付-11日付)の2曲はNo.1ヒットになったが、熱心なロック・ファンからは見放されてしまった。1988年に年齢と音楽性の不一致を理由に、ジェファーソン・エアプレイン時代から在籍した最後のメンバーである、グレイス・スリックがライブ活動からの引退を表明、そのまま脱退してしまう。中心メンバーがミッキー・トーマスとクレイグ・チャキーソだけになったバンドは、メンバーを補充しながら活動を継続し、もう1枚のアルバム『Love Among The Cannibals』(最高64位)は低迷し、シングル「It's Not Enough」(最高12位)、「I Didn't Mean to Stay All Night」(最高75位)と思うようなヒットは出せなかった。そして、1990年に解散を決めた。トーマス以外は全てスタジオミュージシャンを起用する事を要求する程に、レコード会社のコントロールは熾烈になり、大企業により『バンドの音楽性もミュージシャンのパーソナリティも破壊されてしまった』と、1974年のジェファーソン・スターシップデビューから在籍し続けた最後の一人であったチャキーソが後に語っている。
一方、カントナーは本来自分が目指してきた音楽をやる為に動き始めた。ソロ活動をしていたマーティ・バリンのライブで1984年中には早くも共演し、SVT(Hot Tuna解散後ジャック・キャサディが結成)が解散していたジャック・キャサディも加わって1985年にKBC(カントナー・バリン・キャサディ)BANDを結成。1986年にアリスタからアルバム『KBC BAND』(全米最高75位)を発表した。シングル「It's Not You, It's Not Me」が辛うじて最高89位などレコードセールス的には振るわなかったが、アルバム中数曲で8年ぶりにカントナー/バリンの共作も復活してジェファーソンの正統な流れを汲む演奏を聴かせ、事実上のファミリー再結集としてライブで人気を博した。当時、アメリカの抱える諸問題をストレートに取り上げたブルース・スプリングスティーンの「Born In The USA」やジャクソン・ブラウンの「For America」などがヒットしていた。KBC BANDでは1969年当時のエアプレインを思わせるような、カントナー/バリン共作のシングル「America(Arista AS1 9572)」を発表(12inchシングルやプロモーションビデオも作られたがチャートインはならず)。これは、「ベトナム戦争後の問題や権力への批判」を織り込みながらも未来を肯定するという内容で、商業成績という重石が取れ、晴れて軽やかに世の中に目を向けて歌えるようになった久々のカントナーらしいメッセージの曲だった。
1987年、カントナーはアルバムに収録されていた曲「Mariel」がきっかけで、シンガーソングライターのクリス・クリストファーソンと共にニカラグアに長期滞在し、帰国後、ペーパーバック『Paul Kantner's Nicaragua Diary』を出版した。バンドは活発なライブ活動を続け、2ndアルバムにとりかかったがレコード会社のサポートは得られず解散した。短期間の活動に終わったが、この時のメンバーが、現ジェファーソン・スターシップ(JEFFERSON STARSHIP -The Next Generation)再結成の基盤にもなった。
カントナーはKBC解散後、ヨーマ・カウコネン、ジャックキャサディと共に「Hot Tuna with Paul Kantner」としてツアーを行い、これが次の再編劇の幕開けとなる。1988年、ここに引退したはずのグレイス・スリックも加わり、エアプレインの4人が16年ぶりに顔を合わせた。そして1989年にはマーティ・バリンも参加を承諾し、かつてのドラマーだったスペンサー・ドライデンを除く全盛期の5人でジェファーソン・エアプレイン再結成が実現した。これは、スリックを含むメンバーでバンドにもうひと華咲かせようと望んだカントナーが奔走して実現したリユニオンであり、決してレコード会社主導のイベントではなかった。アルバム『Jefferson Airplane』は最高85位、シングル「Planes」「Summer Of Love」はチャートインを果たせなかったが、全米ツアーは成功を収める。東海岸でも数度のアリーナ公演をソールドアウト、地元ゴールデンゲイト・パークでは65,000人を動員するが、その直後にまた活動停止した。ホット・ツナ再始動に向けて動き始めたヨーマ・カウコネンとジャック・キャサディの再びの脱退が直接の原因になったとされる。ちなみに、カントナーの初来日となるはずだった「日本公演は中止」になっている。
このように1985年から1989年にかけては、かつての仲間同士が裁判沙汰になったり、再び手を組んだりという離合集散の動きが激しく、これに対して産業ロックのスターシップに残ったメンバーは激怒したといわれる。1989年のスターシップのアルバム『Love Among The Cannibals』は彼等を皮肉ったタイトルであるとトーマスはインタビューで語っていた。1989年、「スターシップ」「再結成ジェファーソン・エアプレイン」2グループが併存する形になった。
1990~1991年にかけては、カントナーはKBC BANDのキーボーディスト、ティム・ゴーマンと、ギタリスト、スリック・アギラーらとソロ・アコースティックユニットPaul Kantner's Woodenshipを組み全米でライブ活動を行なった。この当時のライブは日本向けに収録され、NHK-BSで放映されたことがある。
また、Paul Kantner&Female Singers Projectを立ち上げてデモ音源まで制作したが正式には発表されないままになっている。但しここには、Jefferson Starship-The Next Generationに参加する女性シンガー、ダービー・グールドも参加し、この時の楽曲は後のスタジオ作でも取り上げられている。
1992年、Paul Kantner's Woodenshipの3人に、ベースのジャック・キャサディ、フィドルのパパ・ジョン・クリーチ、新女性シンガーに地元シスコで活動していたダービー・グールドを加え、ジェファーソン・スターシップ(Jefferson Starship-The Next Generation)が結成された。翌1993年にはバリンも再合流し、1994年にはようやくの初来日(福岡・大阪・東京)を果たしている。権利関係の問題でエアプレインを名乗る事はできないが、ライブでは1965年デビュー以来の各ソロ作品も含めた膨大な楽曲を網羅し、1992-2007年までに21か国で計900回近くが行なわれている。またフル編成のJefferson Starship-The Next Generation、マーティとドラムスが外れたカントナーのソロステージに近いJefferson Starship-Acoustic Explorerの2種類があり、セットリストが大幅に異なる。
1995年、新曲を含むライブCD(グレイス・スリックもゲスト参加)を発表。一部収録曲・ミックスの異なるスタジオ作品(グレイス・スリックもゲスト参加)を1998年(ドイツ盤)、1999年(アメリカ・日本盤)に発表。1999年には2度目の東京公演も行なった。
2000年以降には、ライブCDやDVDをマイナーレーベルや公式サイトから数多く作品をリリース。2005年から、親交のあるロックバンド「ファミリー」のデビュー40周年記念ツアーに同行。
2007年の時点では、マーティ・バリン、ポール・カントナー、ディヴィッド・フライバーグ(2005年正式復帰)、ダイアナ・マンガーノ、スリック・アギラー、プレイリー・プリンス、クリス・スミス。ツアーによって、ダービー・グールド、トム・コンスタンテン、リンダ・インペリアル(クイックシルバー・ファミリーで、フライバークの夫人)、ピート・シアーズ、ピーター・カウコネン、ボビー・ヴェガ(ベーシスト)などがゲスト参加している。
2008年、ダイアナ・マンガーノに代わり、歴代5人目になる女性ボーカル、キャシー・リチャードソンが新加入。同年9月、10年ぶりのアルバム『Jefferson Tree Of Liberty』をリリース。
2012年、再始動から長年在籍しているギタリスト スリック・アギラーが病により降板。代役にジュード・ゴールドが加入。2016年1月28日の同日、創設メンバーのポール・カントナーと[11]、初代女性ボーカルのシグニー・トリー・アンダーソンが死去[12]。
※スターシップに在籍したメンバーは、スターシップ (バンド)を参照。
(シングルはUS初回リリース通常盤のみ)
(以下は限定発売・CD-R仕様)
Take Me to a Circus Tent: The Jefferson Airplane Flight Manual / Craig Fenton著 (Infinity Pub, USA 2006)
Got A Revolution! The Turbulent Flight of Jefferson Airplane / Jeff Tamarkin著 (ATRIA BOOKS, USA 2003)
We All Are One / Gianluigi Blasi 著 (Sonic Book - Stampa Alternativa, Italy 1996)
ストレンジ・デイズ 2008年3月号 / ジェファーソン・スターシップ記事 (ストレンジデイズ刊, 2008)
ストレンジ・デイズ 2005年9月号 / ジェファーソン・エアプレイン特集 (ストレンジデイズ刊, 2005)
レコード・コレクターズ 1987年8月号 / サンフランシスコ・サウンド(1) ジェファスン・エアプレイン (ミュージック・マガジン刊, 1987)
レコード・コレクターズ増刊 / アメリカン・ロック Vol.1 (ミュージック・マガジン刊, 1992)
POP-SICLE (ポップシクル) Vol.4 No.10, December 1979 (ポップシクル 木崎義二 刊, 1979)
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