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アメリカ合衆国のロックバンド ウィキペディアから
モビー・グレープ(またはモビー・グレイプ、Moby Grape)は、1960年代後半に活動したアメリカ合衆国のバンド、サイケデリック・ロック・バンド。1966年、カリフォルニア州サンフランシスコにて結成。シングル「オマハ(Omaha)」が1967年の全米シングルチャート最高88位となり、のちに有名になる多くのミュージシャンに多大な影響を与えた。メンバーの一人、スキップ・スペンスは1999年に死去したが、他のメンバーは変遷を経て現在も活動を続けている。
モビー・グレープ Moby Grape | |
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出身地 |
アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンフランシスコ |
ジャンル |
サイケデリック・ロック ガレージロック ロックンロール カントリーロック フォークロック |
活動期間 | 1966年 - 1969年、1971年、1973年 - 1975年、1977年 - 1979年、1983年 - 1984年、1987年 - 1991年、1996年 - 2001年、2006年 - |
レーベル |
コロムビア・レコード リプリーズ・レコード ポリドール・レコード(ファイン・ワイン 名義) (サンフランシスコ・サウンド・レコード マシュー・カッツの再発) レガシー・レコーディングス ディグ・レコード |
公式サイト |
mobygrape |
メンバー |
ピーター・ルイス ボブ・モズレー |
旧メンバー |
スキップ・スペンス ドン・スティーヴンソン ジェリー・ミラー |
ギターのジェリー・ミラーは、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第73位にランクインしていたが、2011年の改訂版では削除された。
初期のジェファーソン・エアプレインでパーカッションを担当していたが立場の不満から1966年5月頃に退団したカナダ出身のアレックス・スキップ・スペンス(以下「スキップ・スペンス」と略)は再びソロ活動に入り気ままな放浪旅行も楽しんでいた。その後、ジェファーソン・エアプレインのマネージメント業務を務め同年8月頃に権利濫用、越権行為を繰り返して職務不履行を理由に解雇されるマシュー・カッツから勧誘され新たなバンドを結成するプランへの助言とその業務協力の申し出に応じることにした。スキップ・スペンスは、かつて渡り歩いた西海岸のフォーク・クラブで一緒になった仲間に呼びかけ、ジェリー・ミラー、ドン・スティーヴンソンとピーター・ルイス(ロレッタ・ヤングの子息)に、ルイスの友人ボブ・モズレーが集った。メンバー全員がフォーク畑出身で、歌うことができ、またソングライターであるという一致があった。
1966年11月4日、サンフランシスコのカリフォルニア・ホールでデビュー・ステージを踏む。5人が歌い、楽曲作者が次々とリード・ボーカルをとるブギやフォークロックのバラッドに、ギター・パートによってはツイン・リード・ギターを試行するアレンジなどが評判となっていった。大手レコード会社から引き合いが相次ぎ、コロムビア・レコードがアルバム4枚を制作発表する条件で契約を獲得。1967年3月に音楽プロデューサー、デヴィッド・ルビンソンのもとでスタジオ入り、6月7日にファースト・アルバム『モビー・グレープ』を発表。モントレー・ポップ・フェスティバル(6月17日夜の部)出演は聴衆に同業のミュージシャンを刺激し知名度は 拡大する。アルバム『モビー・グレープ』にはポスターが添付され、同時に5枚のシングル盤が発売された。発売を記念して、新人としては異例のプレスを招いたパーティを行ったが、それらの宣伝活動が災いし、セールスは振るわなかった[1]。反戦、反体制の時勢では大がかりな販売活動は大手企業の搾取感や反感を呼び、発売後に表ジャケットに写った「赤く染まる星条旗」や「ドン・スティーヴンソンの右手中指を立てる姿」が問題視されると未販売分は回収され、ジャケットを差し替えた再発売も販売不振に追い打ちをかけた。
同時代、イギリスのバンドであるザ・ムーブが楽曲「Hey Grandma」をカバー(レコードでは未発売)し、セミ・プロ時代のロバート・プラントやジョン・アンダーソン[要曖昧さ回避]がその他の楽曲を取り上げるなど、ミュージシャン達から注目されていた[2][3]。日本のバンド、はっぴいえんどはこのアルバムから影響を受けたことをメンバーが公言している[4]。
1968年4月3日、セカンド・アルバム『ワウ』発表。初版は『グレープ・ジャム』が付属する2枚組で、表アルバム・ジャケットにはメンバーの姿やバンド名の記載がない奇抜なデザイン(その後、ステッカー添付で表示)[5]、初回限定ボーナス・トラックスとしてセッション・アルバム『グレープ・ジャム』を同封するという先駆的なパッケージは画期的だった。しかし斬新なアートワークとは内容が不釣り合いな作品であった。元々、モビー・グレープはファースト・アルバム『モビー・グレープ』にみられるような[6]、当時流行していたサイケデリックなアレンジは最小限に留めて、きちんとまとまった一曲を作り上げることを特徴としており、幻覚追求で長尺曲の多かった他のバンドとは一線を画していた。しかし、前作のセールス失敗からレーベル側が楽曲制作へ大幅に介入して、時代掛かったサイケデリック風味の大袈裟なアレンジ曲を増やし、突然SPレコードの回転数でプレイを求めるアナウンス以後、再生方法を変えるまで空転するLPレコードという仕様にしてしまった。
楽曲は「グレープ・ジャム」を省けば前作同様に良作が揃っていたにもかかわらず、装飾過多、盛り過ぎは否めず、アレンジの錯誤から統一感を欠き、アルバム全体が歪められ、不本意な内容となった。後年(1993年発売)の編集盤CD『ヴィンテージ〜ベスト・オブ・モビー・グレープ』に収録された数曲の初期テイク(ほかに「The Place and the Time」の未発表バージョンなど )[3]や、ライナーノーツのボブ・モズレーによる証言から当時の状況が垣間見られる。「グレープ・ジャム」はスキップ・スペンスの提案だったカントリー・ミュージック中心に据えたものから転じブルースロックで統一された。この一環で招聘されたアル・クーパー、マイク・ブルームフィールドは後に『スーパー・セッション』で大成功を修め、アル・クーパーはこの「グレープ・ジャム」で発想を得たと後年語っている。
2作目のセールス不振が露見し始めた頃[7]、フィルモア・イーストで公演中滞在していたニューヨークのアルバート・ホテル[8]で、スキップ・スペンスが不在のドン・スティーヴンソンを探し、廊下にある消防救命用備品の突入用斧を振り回してドアを打ち破り徘徊する事件が発生した[9]。LSD乱用による統合失調症と診断され、麻薬法違反で起訴後、病院に収容されてしまった。
音楽方針の舵取役スキップ・スペンスが不在の4人のまま、4月から11月にかけて収録した『Moby Grape '69』を1969年1月30日に発表。現場をかき乱していたマシュー・カッツと、付きまとったレーベルの干渉を排除してバンドの素顔を取り戻した作品となった。
1969年2月のヨーロッパ公演を終え帰国すると任意で軍属志願したボブ・モズレーが脱退した。契約スケジュールで4作目の録音に入り、レーベルから低額な録音予算と期日を説明されナッシュビルに移動し、1969年5月27日から29日まで、ボブ・ジョンストンのプロデュースで、現地のセッション・ベーシスト、ボブ・ムーアを迎えて収録を完了させた。1969年7月30日に『Truly Fine Citizen』として発売された。ジャケットは録音スタジオに勤務するガードマンの写真を用い、マシュー・カッツと印税契約をめぐる訴訟問題からソングライター・クレジットは架空の「Tim Dell'Ara」名義という状態だった[10]。同年12月20日のサンフランシスコ、フィルモア・オーディトリアム公演を終えて、とうとうバンドは解散状態になり、ジェリー・ミラーとドン・スティーヴンソンはリズム・デュークスに参加した。
1971年、リプリーズ・レコードから突然『20グリニット・クリーク』が発表された。プライベートな仲介で実現した5人による再結成で、同時にフィルモア・イーストなどで数回公演を行い、また活動を休止した。
1972年、リプリーズ・レコードからボブ・モズレーがソロ・アルバムを発表。
現在(2013年)に至るまで様々なバンド名を用いて、顔ぶれは入れ変えつつも活動を続けている。アルバム発表は、1976年のボブ・モズレー、ジェリー・ミラー、マイケル・ビーン(Michael Been)、ジョン・クラヴィオット(John Craviotto)によるファイン・ワイン(Fine Wine)名義などがある。後述の訴訟問題から、1980年代以降、バンド名「Moby Grape」の使用制約がかかり、メモリアル・バンドと称したり、健康状態に問題があったアレックス・スキップ・スペンスとボブ・モズレーの休養脱退もあり、ジェリー・ミラーやボブ・モズレーのソロ活動の延長でかつての楽曲をサポート・ミュージシャンを得て公演するなどを繰り返している。
1967年、ジェファーソン・エアプレインのアルバム『シュールリアリスチック・ピロウズ ( Surrealistic Pillow)』には脱退したスキップ・スペンスの楽曲「My Best Friends」が収録されている。
混乱続きだった1969年まで活動期間以降も、法廷闘争の渦中に立たされ再発売はおろか、再評価される機会すら奪われた。マシュー・カッツのサンフランシスコ・サウンド・レーベルで権利の一部を持つ2枚をレコードやCDでそれぞれ数度、1972年にコロムビア・レコードから編集盤『Great Grape』、海外イギリスの再発専門レーベルのエドセル・レーベル(Edsel Records)による1986年の編集盤(『Murder in My Heart for the Judge』)に例外扱いでファースト・アルバム『モビー・グレープ』が曖昧な海外の配給販売権を借出して「版権調整中(Copyright Control)」と記入していた[11]。ロックのレコード再発ブームの中で粗悪な海賊コピー盤『ワウ』が出回る始末だった[12]。マシュー・カッツによる訴訟権濫用から名称「モビー・グレープ」の使用差し止め制限が2006年まで続き、和解したとみられた2007年以降も 再発専門レーベルサンデイズド・レコード (Sundazed Records)から発売されたファースト・アルバム『モビー・グレープ』のCDアートワークに対し権利侵害を申し立て翌年発売停止に追い込みアメリカ国内盤が途絶えるなど、モビー・グレープにまつわる混乱は収束していない。一方ではサンデイズド・レコードが行った努力から、海賊盤の権利侵害が続いた音源の1966年のウインターランド出演やヨーロッパ・ツアーにおけるオランダのR.A.I.公演といった音源が『Live』『The Great Lost Moby Grape Album』に収録され、正規音源として再発される進展が進んでいる。
コロムビア・レコードと契約したイッツ・ア・ビューティフル・デイ(It's a Beautiful Day)もブッキングの仲介が不透明でマシュー・カッツを解職したが契約上楽曲版権とアルバムに関する印税契約は継続しヒット曲「White Bird」の扱いからレーベルが仲裁に入った。皮肉にも「White Bird」はマシュー・カッツが押しつけた低賃金の演奏営業活動にバンド・リーダーのデイビット・ラフラム(David LaFlamme)が嘆いたことで生まれた楽曲だった。コロムビア・レコードは原契約条項にない点を突いて新たな契約を進め、マシュー・カッツは報復として国内で同じ作品を製造販売する権利を押さえ、ジャケット・アート・ワークの海外販売版権に制約を加えた。開店休業状態のサンフランシスコ・サウンド・レーベルからモビー・グレープとイッツ・ア・ビューティフル・デイのファースト・アルバムは1970年代後半以降、二、三度別企業の資金提供で製造と販売が行われた[13]。
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