アース・ウィンド・アンド・ファイアー
アメリカのバンド ウィキペディアから
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アース・ウィンド・アンド・ファイアー(Earth, Wind & Fire)は、アフリカ系アメリカ人によるファンクミュージック・バンドである。R&B、ファンク、ソウル、ジャズなどのジャンルを融合させ、新たなポップミュージックの世界を開拓した[3]。ファンクやディスコが全盛だった1970年代を象徴するバンドとして知られる[4]。略称はEWF、EW&F。
アース・ウィンド・アンド・ファイアー | |
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ライヴで演奏するアース・ウィンド・アンド・ファイアー(2009年) | |
基本情報 | |
出身地 | アメリカ合衆国 イリノイ州シカゴ |
ジャンル | |
活動期間 | |
レーベル | |
公式サイト | EarthWindandFire.com |
メンバー |
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旧メンバー |
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1970年代半ば以降の全盛期は、ファンキーなサウンドとモーリス・ホワイトとフィリップ・ベイリーのツインヴォーカル、重厚なホーンセクションが特徴であった[4]。1980年代前半には、コンピューターを利用した電子音を採り入れたが、人気を復活させるのは困難だった。アメリカ合衆国国内だけでなく日本をはじめ世界的な人気も高く、1970年代から何度か活動停止と再開を繰り返しつつも定期的にヒット曲を放ち、世界でのCD・レコード総売上は9000万枚以上[4]。グラミー賞を6回受賞し、2000年にロックの殿堂入りを果たしている[4]。
モーリス・ホワイトは、初期はジャズ・ドラマーとしてラムゼイ・ルイスのバンドに参加していた。彼のバンドを離れた後、1969年にシカゴにて、ソルティ・ペパーズを結成、キャピトルからシングル"La La Time"を残す[5]。
1970年には、活動拠点をロサンゼルスに変え、バンド名もアース・ウィンド・アンド・ファイアーと改名。占星術によると、モーリスの占星図にはEarth, Air & Fire(土と空気と火)の3つの要素があることから、Earth, Wind & Fire(土と風と火)と名づけた[6][7](当時の人気バンド、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズの模倣という説もある[8])。ワーナーと契約、モーリスの弟のヴァーダイン・ホワイト(後にフレッド・ホワイトも加入)を含めた10人の大所帯バンドとなる。2作リリースするがヒットはせず、バンドは一度解散する。
1972年にコロムビア・レコードに移籍、フィリップ・ベイリーとラルフ・ジョンソンやラリー・ダンが加入。コロムビアには、以後1990年まで在籍する。1973年に、Head To The Sky(『ヘッド・トゥ・ザ・スカイ』)をリリースし、ゴールド・ディスクを獲得する。1975年には、That's the Way of the World(『暗黒への挑戦』)を、同名の映画のサウンドトラックとしてリリースし全米アルバム・チャート第1位を獲得[7]。この映画にはモーリスも出演しており、彼らの貴重なライヴ映像も観ることができる。75年に「シャイニング・スター」[9]がポップ・チャートでもクロスオーバー・ヒットした頃から、アースの人気が急上昇した。76年には「ゲッタウェイ」を発表し、同曲もヒットした。この2曲はファンクの傑作曲とされている。77年から79年には「太陽の戦士」「宇宙のファンタジー」「セプテンバー」「ガット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ」などがヒットしたが、ファンク度は後退し、ポップ・ソウル色が濃くなっていった。79年にはディスコ「ブギー・ワンダーランド」やバラード曲がヒットしたが、ファンクのアースがディスコやAORをやるなんて、という失望や批判の声も少なからず聞かれた。
1976年に、モーリスは自己プロダクション、カリンバ・エンタテインメントを設立。モーリスは、"Boogie Wonderland"に参加している「エモーションズ」などをプロデュースしている。1978年には、CBS/コロムビアの元、ARCレコードを設立。レーベルの第一弾としてベスト盤『The Best of Earth, Wind & Fire Vol.1』をリリース。ヒット曲"September"の初収録アルバムがこれになる。
1980年に、2枚組の大作Faces(『フェイセス』)を発表。しかし、このアルバムは不評で、これといったヒットも出なかった。挽回を目指し81年に発表したのがアルバムRaise!(『天空の女神』)である。このアルバムからは「レッツ・グルーブ」などのヒット曲が生まれ、アース健在を印象づけた。
1983年に発表した『エレクトリック・ユニヴァース』ではトレードマークであったホーンセクションの使用を中止し、電子楽器中心のサウンドを展開させるが、活動を一時停止、各メンバーはそれぞれソロ活動に移る。この間、フィリップ・ベイリーは1984年にフィル・コリンズのプロデュースでChinese Wallをリリースし、"Easy Lover"をヒットさせる。彼は以後も不定期ながらソロ活動をしている。モーリスも1985年に唯一のソロ・アルバムとなるMaurice Whiteをリリースし、"I Need You"をヒットさせる。
1987年に『タッチ・ザ・ワールド』をリリースし、活動を再開。1990年発売の『ヘリテッジ』を最後にコロムビアより離れ、ワーナーへと戻り、1993年に『千年伝説』をリリース。その頃よりモーリスはプロデューサー業を強化するようになり、1994年の全米ツアーには参加せず。モーリスは1995年のライヴ活動もリタイア。1996年に自主レーベル、カリンバ・レコードよりアルバムが制作され、avex traxより『アヴェタ』のタイトルで日本先行発売された。海外版としては、このアルバムは翌年にIn the Name of Loveとリタイトルと再構成され、ライノより翌年にリリースされる。モーリスはこのアルバムを最後にプロデューサー業に専念するようになり、以後の活動はフィリップが中心となっている。
1997年にモーリスは神経性障害と診断される。「パーキンソン病ではなく、元々神経質であることと、度重なるストレスから、震えが伴うことがある」とモーリスは発言していたが[10]、2000年ロックの殿堂入りの際、式典前にパーキンソン病と診断されたことを明らかにし、ステージ活動から退いた[7]。2004年の来日公演には同行する。2007年にはスタックス・レコード(コンコード・レコードにより復活)より、EWFのトリビュート・アルバムInterpetationsをリリース。モーリスは、エグゼクティヴ・プロデューサーとしてこのプロジェクトに参加。
2009年12月、4年ぶりの来日公演が東京と大阪、札幌で行われた。この時、翌2010年は結成40周年目の記念としてモーリスを加えての記念ライヴが行われるとアナウンスされたが、バンドでのライヴは叶わず、日本ではフィリップ・ベイリーのソロライヴのみが行われた。
2013年には22年ぶりにソニー・ミュージック(コロムビア)に戻り、9月にフォーエバー(Now, Then & Forever)をリリース。ラリー・ダンが復帰し、原点回帰をテーマにしたサウンドとなる。限定版にはボーナスCDが付録する[11]。
2016年2月3日、モーリス・ホワイトが死去[7]。同年、第58回グラミー賞特別功労賞生涯業績賞を受賞[6]。
2019年12月11日、日本の女性ボーカルグループLittle Glee MonsterとコラボレーションしたEP「I Feel The Light」をリリースした。
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2003年
2005年
日本での人気は非常に高く、 幾度となく来日公演を行っている。また、DREAMS COME TRUE(特にベーシストの中村正人)が強く影響を受けており[12]、『WHEREVER YOU ARE』ではモーリス・ホワイトがバックボーカルに参加している。
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