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アメリカのターボプロップ哨戒機 ウィキペディアから
ロッキード P-3は、アメリカ合衆国の航空機メーカー、ロッキード社(現・ロッキード・マーティン社)が、自社のターボプロップ式旅客機「L-188 エレクトラ」を原型機として開発したターボプロップ式哨戒機。
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P3V / P-3 オライオン
愛称は「Orion」。日本ではその英語読みから「オライオン」とするものが多い[1][2]。Orionとはギリシア神話に登場するオリオン座となった狩人の名にちなむ。
初飛行から60年以上が経過しているものの、アップデートを重ねつつ、アメリカ海軍や海上自衛隊など各国軍の航空隊、アメリカ沿岸警備隊など国境警備隊の他、気象観測や消防機など非軍事用などにも転用され20以上の国で運用されているベストセラー機である。
アメリカ海軍は、ロッキード P2V ネプチューン(後に命名規則改正で「P-2」となる)を1947年から主力の対潜哨戒機とし、エンジンの換装などによりアップデートを行っていたが、1950年代には積載量が限界に近くなり探知機材や武装の追加が難しくなっていた。また機内は大型の探知機材に圧迫され探知機材の発する熱に空調が追いつかず居住性が悪化するなど、長時間の任務飛行において多数の問題点が指摘されていた。このため将来の機材更新も見越した後継機が要求された。
アメリカ海軍が1957年8月に提示した次期主力対潜哨戒機は、SOSUSにより探知された敵潜水艦と思しき音響信号へ急行してソノブイ、磁気探知機による識別を行い、魚雷や爆雷を使用して、潜在海域から殲滅することを主眼としていた。そのため、
が求められた。
なお後継機の登場までのつなぎとしてP-2の導入国では改修機がテストされていたが、多くの国では試験機としての運用にとどまった。例外的に日本では後継機選定が遅れたため、機体の拡大やターボプロップエンジンへの換装を行ったP-2JをP-3C導入まで主力として運用していた。
海軍の要求に応じ、ロッキード社は1957年4月に初飛行したばかりのターボプロップエンジン4発搭載の旅客機、L-188 エレクトラの改造型を提案し、1958年4月にP2Vに続く採用が決定した。L-188を改造した原型機のYP3V-1(命名規則変更によりYP-3Aと改名)は1958年8月19日に進空したものの、原型機L-188の構造的欠陥に起因する連続事故で計画は大幅に遅延し、1962年8月より P-3A としてアメリカ海軍への配備がようやく開始された。
P-3Aは対潜水艦戦用の機材は前作のP-2対潜哨戒機とほぼ同様だったが、機内容積と速度距離が向上したために、実質的な対潜水艦能力は向上している。また、エンジンを強化したP-3Bの配備が1965年より開始された。
続く性能向上型のP-3Cは、1968年に原型機YP-3Cが初飛行し、1969年より部隊配備された。向上点は主に、潜水艦探知用のソノブイ・システム、センサー、レーダー、データ処理用のコンピュータの能力向上型への換装である。これによりP-3は開発の主目的であった地上設備とリンクされた高度な潜水艦の捜索・評定能力を持つことになった。この潜水艦探知用システムは順次近代化されており、改修世代によりアップデートI〜IVに区別される。最新のアップデートでは、水上監視能力の向上が図られ、洋上監視機器の換装のほか、マーベリックミサイルの運用が可能となっている。また導入国により独自のアップデートを施すこともあり多数のバリエーションが発生した。
1980年代後半には、P-3の更なる改良型として、アメリカでP-7が計画されたが、これはキャンセルされた。1991年に一度生産が終了したが間もなく韓国向けに新たな生産ラインが設けられ、1995年に同国への引き渡しを持って生産終了。アメリカ海軍の後継機にはボーイングP-8A ポセイドンが開発され、正式採用された。
P-3は扱いやすい飛行特性に加え、STOL性や長時間滞空性能など任務に必要な性能を確保した。また、P-2より大型かつ出自が旅客機であることから屈まずに機内を移動できるなど居住性が向上、複雑化した近代的な探知機材を追加積載できる余裕も生まれた。このため輸送機として活用する国もある。また完全な与圧構造[3]と、メインの操縦系統が油圧化されたことで乗員の負担が大幅に軽減された。しかし動翼が大型化したことで予備系の操縦索は非常に重くなったという[3]。また航空士の多くは外が見えず横向きに座るため乗り物酔いになりやすいという[4]。
旅客機ベースの機体に多数の探知機材と武装を搭載しているが、エンジンを母機L-188のアリソン501-D13(3750馬力)からT56-A-14(4600馬力)へ換装したことで最高速と加速力が向上しており、P-3を操縦した印象を『戦車[5]』や『アメ車[4]』と評するパイロットもいる。機動性も高く、鹿屋航空基地で開催される『エアーメモリアルinかのや』では低空での急旋回を披露するのが恒例となっている。
機体の強度や耐久性も高く、電子偵察型のEP-3EとJ-8II戦闘機(重量約9トン)が空中衝突した際には、J-8IIは墜落したもののEP-3Eは至近の飛行場に着陸(海南島事件)、気象観測型のWP-3Dはハリケーン観測中にトラブルで3番エンジンが故障しながら観測を続行、観測終了後にハリケーンから脱出し無事に帰還したこともある(1989年アメリカ海洋大気庁P-3エンジン喪失事故)[5]。
長時間滞空する際はエンジンの出力を絞り、残りの燃料が一定値まで減る度にエンジンを1番(左外側)→4番(右外側)の順に停止、プロペラ角をフルフェザー(ブレード面の迎え角がゼロ揚力角)にしてロイター飛行を行う。理論上はエンジン1基でも飛行が可能だが、海上自衛隊を始め多くの国では安全のため停止は1番と4番のみとしている[6]。また1番と4番を停止した双発状態では安定性が低下し機体後部が揺れやすくなるという[4]。
P2V-7はレシプロエンジンであるため燃料の混合気の空燃比を手動で調整するなどのテクニックを駆使すれば20時間以上の滞空が可能とされるが[6]、P-3は混合比を大きく変更できないターボプロップエンジンであるため、搭乗員の経験や勘などに頼る種々の有効なテクニックは使えなくなった。しかし予備燃料を残したままでも操縦士の技量に関係なく15時間以上の滞空が可能とされる[6]。アメリカ海軍では空中給油に対応させるため、改造機による試験が行われていたが正式採用は見送られた。なお後継機のP-8は標準でフライングブーム方式の空中給油に対応している。
基本的にはL-188から旅客機としての装備を撤去して対潜哨戒機としての各種装備を搭載したものだが、開発に当たっては胴体部は改めて設計されており、尾部には磁気探知装置 (MAD) を先端に収めたブーム(張り出し棒)が取り付けるため形状が変更されたほか機首も若干切り詰られた。これらの形状変更とハードポイントの設置に対応するため主翼も再設計され、翼平面形が変更された。
ハードポイントは主翼の翼端側に3箇所、胴体側に2箇所が設けられた。基本的に翼端側にミサイル、胴体側にESMやデータ・リンク等の電子戦ポッド、カメラポッドを取り付ける。なお重量制限があるため翼端側は2箇所のみ使用する。前部胴体下にウェポンベイが設置されたことで魚雷、爆雷、機雷も運用可能。
操縦席は原型機と同じくアナログ計器中心であるが、戦術航空士からの指示などの戦術情報や、目標へ向かう際の最適な旋回角など飛行の補助情報を表示する画面が中央左寄り(機長席側)に設置されている[3]。オートパイロットは操縦輪を止めると姿勢を保ったまま高度を維持するという、原型機が開発された時代のシステムがそのまま搭載されている。計器着陸装置と連動しスロットルも自動調整する高度なシステムが軍用機にも広まった後も、グラスコックピットを導入した国は少なく、多くはアビオニクスのアップデートで丸形だった画面を四角形に変更したり、計器類を液晶ディスプレイに変更するなど限定的な改修にとどまっている。これは航空機関士、航法士、レーダー員が同乗するためパイロットは操縦に集中できることに加え、哨戒飛行では高度の変更や旋回を繰り返すため、オートパイロットは高度や旋回角を維持するだけのタイプが向いているためである[3]。
機内後部にはキッチンやトイレを併設した控え室が用意され、長時間の任務飛行でも乗員の負荷が軽減されている。簡易ベッドはアメリカ海軍が冷戦時代に行っていた長時間哨戒に備えた装備であるため冷戦終結後は不要となっており、海上自衛隊では荷物棚として使っていた[7]。なお電磁波が探知機器や磁気探知機に影響を与えるため通常の電磁調理器は内部に持ち込めず、弁当などを暖める際は電磁波対策が施された電熱ヒーターなどを利用する。
開発当初、P-3に要求されていたのは対潜哨戒であるが、機材のアップデートにより海洋監視や救難活動の支援など海上での任務全般に対応できる汎用性を獲得したことから、海上自衛隊のように分類を対潜哨戒機から哨戒機に変更する国もある。本来は艦船を探索するために用いられるESM能力は情報収集活動にも有用であり、ズーニー・ロケット弾を装填したLAU-10D/aや対応する空対地ミサイルを装備すれば小型艦船や沿岸の施設への攻撃も可能になる。湾岸戦争以降はアップデートされた機材を活かして攻撃機の誘導や沿岸偵察にも使われている。多くの国では海上のみで運用を行っているが、陸上での任務に使用されたこともあり、アフガニスタン紛争ではオーストラリア空軍所属機が内陸国であるアフガニスタンに情報収集活動用として派遣された。
海上自衛隊のP-3Cでは11名を基本とし、任務により最小5名 (UP-3C)、最大15名 (EP-3) としている。他国でもほぼ同等である。
オペレーター席は、P-3Bまでは機内左側に集中して配置されていたが、P-3Cでは一部が右側に移動している。
初飛行から50年以上が経過し多くの機体が老朽化しているが、予算の都合でP-8やP-1等の新型機を即座に導入できない国が多いため、ロッキード・マーティンでは継続運用を望むユーザー向けに機齢延長プログラム『P-3 Mid-Life Upgrade Program (MLU)』を提供している。
内容は設計を見直した新設計の翼との交換、モスボールされた機体から取り出した状態の良い部品や耐腐食性の部品との交換などである[8]。翼の交換により整備コストが低減されると共に、耐食性が5倍強化されることで寿命が20年から25年延長される[9]。
ニュージーランド空軍はP-8へ導入までのつなぎとしてMLUを導入したところメンテナンスにかかる時間が58%減少[10]、中古機を導入していたチリ海軍は15000時間の延長が可能としている[11]。
P-3はその機体構造の優秀さ、搭載量の多さから多数の派生型が存在し、他国軍から購入した中古機を改造したり、官公庁や民間航空会社が中古機を活用する例も多い。
後部胴体下にソノブイ発射口を48基増設し、対潜水艦戦機材を向上させた型。1969年配備開始。各種改良型(アップデート)も併せて365機製造。
アメリカ海軍ではP-8の配備開始により売却やモスボールが始まっているが、多くの国では未だ主力哨戒機である。
詳細は、Lockheed EP-3を参照
川崎重工業がライセンス生産したアップデートII.5相当のP-3C。
全て海上自衛隊向けで、合計98機を製造した。この98機に加えて、海上自衛隊にはアップデートII.5の3機がFMSにより完成状態で納入されている。
中華民国(台湾)
P-2Jの量産決定直前の1967年初頭から、その開発・生産を担当する川崎重工業は、既にその後継機について独自の研究開発を開始していた[15]。また運用側である海上幕僚監部も、1968年ごろから基礎的な検討を開始していた[16]。海幕では、P-3C搭載の画期的な対潜戦システム(A-NEWシステム)の情報を入手し、これをP-2J搭載機に導入したいと考えて、1968年には米軍事顧問団(MAAG-J)に対して資料の提供を要請していたが、1969年4月、現時点ではこれを拒否する旨の回答があった[16]。また1968年には、欧米各国における対潜哨戒機及び搭載載装備品等についての調査団も派遣されていたが、これらの調査・検討結果を踏まえて、海上自衛隊としては、次期対潜機は、搭載装備品を含めて日本で自主的に開発する方策について調査研究する必要があることを認識するに至った[16]。
防衛庁は次期対潜機(PX-L)の国内開発に着手する決心を固め、昭和46年度以降、毎年のように基本設計のための予算を盛り込んでいたが、技術調査研究費のみが認められる状態が続いており、今度こそ本格的な開発が開始されるものと期待していた第4次防衛力整備計画の閣議決定直前には、逆に国産化方針の白紙還元が決定された[16]。その後、従来から検討されてきた国産開発や現存機等の改造機に加えて、国産の機体にアメリカ製のシステムを搭載するという折衷案についても検討が進められた[16]。しかし海自としては、現用機の減耗を考慮すると遅くとも1980年ないし1981年ごろまでには次期対潜機の部隊配備を開始しなければならないと考えており、このような計画の遅延を受けて、何らかの形で外国機の導入を図らざるを得ないものと考えるに至った[16]。
一度はP-3Cの対日リリースを拒絶したアメリカ側も、増強が続くソビエト連邦の潜水艦戦力に対抗する必要から、海上自衛隊の対潜戦能力を向上させてその一翼を担わせることを構想するようになっており、1972年夏には、ニクソン大統領とキッシンジャー国務長官により、P-3Cの対日リリースが主張されるようになっていた[17]。1973年7月にはP-3Cの対日リリースが可能であることが日本側に伝えられ、9月には岩国航空基地においてP-3Cのデモフライトが行われており、航空集団司令官や現場の隊員などの視察団が搭乗してシステムに触れ、その性能に深い感銘を受けていた[18]。しかしアメリカ側は、P-3Cのシステムは機体と一体でなければリリースしない方針であった[16]。ほぼ同世代の艦上哨戒機であるS-3Aの搭載システムであれば、カナダのCP-140用として単体で輸出された前例があり、期待されたものの[18]、これはP-3Cのシステムと比べると大きく劣ったものであった[19]。
海幕では、1975年5月から6月にかけて防衛部副部長を派米し、P-3Cの導入についての実地調査を行った[16]。しかしこのようにP-3Cの導入へと傾いていた最中の1976年2月4日、アメリカ合衆国上院外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)での証言を発端としてロッキード事件が発生した[16]。これはロッキード社が旅客機売り込み工作のため外国政府関係者に贈賄をしたというものであるが、P-3Cもロッキード社製であったうえに、田中首相がニクソン大統領に航空機購入を約束した日米首脳会談が行われたのが1972年で、上記の白紙還元と時期的に符合することもあって、関連が疑われた[20][注 6]。
この事態を受けて、海幕は事実関係の調査や関係資料の作成、司法当局を含む部内外への説明、報道関係者への対応などで長期間にわたって忙殺され、一般業務にも大きな影響をもたらした[16]。調査の過程で、ロッキード社のコーチャン副社長の証言により、同社と丸紅との間でP-3Cについて手数料1機15万ドルの契約があったことや[注 7]、田中首相に支払われた5億円は旅客機というよりP-3Cの売り込みを見据えたものであったこと[22]、閣僚に次ぐ高官との接触なども明らかになった[20]。しかし海上自衛隊においては、対日リリースが許可された直後にコーチャン副社長が海幕長を表敬訪問したという以上の働きかけはなかったことが判明した[18]。むしろ国会での討議の過程で、次期対潜機の必要性そのものは広く理解されるようになり、かえって導入の追い風となった部分もあったという[20]。
こうして、防衛庁は1977年8月24日の庁議において、昭和62年度末までにP-3C 45機をライセンス生産により取得することと、53年度予算概算要求にP-3Cの購入費用などを計上することを内定した。これらの内容は12月の国防会議において承認され、P-3Cの導入が決定された[16][15]。
当初、昭和53年度では有償軍事援助調達(FMS)機3機とライセンス生産機7機の取得が計画されたが、予算化されたのはFMS機3機とライセンス生産機7機となった[23]。まずアメリカで製造されるFMS機が引き渡されることになり、1981年2月、ジャクソンビル航空基地 (NAS Jacksonville) に根拠地を置くP-3C派米訓練隊が編成された[23]。また上記の通り、P-3Cでは地上設備とリンクすることで高度な対潜戦能力を実現していることから、これらの地上施設の要員は先行して1980年より派米訓練に入っていた[23]。1981年4月29日に1号機を受領したのを皮切りに、7月までに3機の引き渡しを受けて教育訓練に使用したのち、12月25日にはこれらの機体は厚木航空基地へと空輸されて、第51航空隊へと装備替えされた[23]。また1982年5月26日には、川崎重工岐阜工場においてライセンス生産機1号機(通算4号機)が引き渡された[23]。以後、国産率は順次に向上しており[23]、機体は川崎重工、エンジンは石川島播磨重工、プロペラは住友精密、搭載電子機器等は各担当会社と契約が行われた[24]。
1982年3月31日には最初の航空対潜水艦作戦センター (ASWOC) が厚木航空基地に配備された[23]。そして1983年3月30日、第4航空群においてP-3C 6機、人員約130名をもって第6航空隊が新編され、初のP-3C部隊となるとともに、約90名の要員とともにASWOCが同群に移管された[23]。同隊は既に部隊配備の時点で有事即応の体制を整備しており、その威力は、同年の海上自衛隊演習(58海演)において遺憾なく発揮された[23]。この演習では、潜水艦隊が全く予期しない探知事象が多発して大きな衝撃を与え、潜水艦の放射雑音の低減に努力を傾注していく契機にもなった[23]。
海自のP-3Cは、初号機から5045号機(昭和63年度就役)までは米海軍のP-3C アップデートIIと同じ形態であったが、その後、逐次改善を行ってきた。その主なものは、次のとおりである[23]。
1997年(平成9年)9月17日に最終号機(5101号機)が完成し、岐阜工場において完納式が実施された[23][注 8]。
ASWOCについても、最初のシステムは地上に据え付けるコンテナ・タイプであったが、それ以降のASWOCは地下に作られ、抗堪性が高められた[23]。なお、最初のASWOCは、昭和63年度に厚木航空基地から鹿屋航空基地に移転された[23]。また滑走路については、本機の重量・車輪構造の関係から、現用滑走路の上に約33センチかさ上げする必要が生じたので、昭和59・60年度に八戸航空基地、昭和60-62年度に下総航空基地、昭和63-平成元年度に鹿屋航空基地で滑走路のかさ上げを行った[23]。なお、厚木・那覇・岩国各航空基地の滑走路は、滑走路の厚みが十分満足していたのでかさ上げの工事は行わなかった[23]。さらに、P-3Cが各航空基地に配備されるのに伴い、必要とする格納庫が逐次整備されていった[23]。
海上自衛隊では1998年(平成10年)頃からP-3Cの機種呼称を「対潜哨戒機」から「哨戒機」へと変更しており、対潜水艦一辺倒だった体制を改善し、不審船対策や東シナ海ガス田に対する監視強化も主要任務に挙げられている。また、2000年(平成12年)からはアメリカ海軍にあわせ白と灰色の二色塗り分けにノーズを黒とした洋上迷彩を改め、明灰色単色の低視認性塗装が適用された。訓練機は視認性向上のため主翼の端は蛍光オレンジに塗装している(空自のT-4と同じ)。派生型は、EP-3・OP-3Cは低視認性塗装、UP-3C・UP-3Dは旧塗装である[25]。
2024年3月末時点の海上自衛隊のP-3C保有数は32機である[26]。また、余剰機を改修して転用し、老朽化の進むYS-11の各種任務型を置き換える計画もあった。初期導入機体から国産のターボファン4発機P-1に更新されるほか、現用機の一部は機齢延伸措置を行い、6年程度延伸する計画を予定している。
日本国内でのP-3の修理は川崎重工からの下請けで日本飛行機が行っており、海上自衛隊だけでなくアメリカ海軍機の修理も厚木航空基地に隣接する航空機整備事業部で行っている。
1986年(昭和61年)頃、P-3Cを母体に、E-2Cと同じAN/APS-138レーダーを搭載して早期警戒能力を付与し、さらにAN/AWG-9レーダー・火器管制装置とAIM-54 フェニックス12発を装備した機材で船団の防空を行うという「空中巡洋艦」とも称される大型戦闘機構想が検討されていた[27][28][29]が、防空範囲は在空空域周辺に限られ、作戦柔軟性や迅速性に乏しく、護衛艦隊の都合に合わせて一体運用できないといった理由から早々に検討対象から除外された[30]。
冷戦終結による哨戒作戦の減少に伴い、20機程度が実働任務から削減されることになり、そのうち5機が画像情報収集機OP-3Cに独自改造された。また、1991年(平成3年)から1998年(平成10年)にかけて、P-3Cをベースにした電子戦データ収集機EP-3に5機が、1994年(平成6年)に装備試験機UP-3Cに1機が、1998年から2000年(平成12年)にかけて電子戦訓練支援機UP-3Dに3機が改造製造された。
一方、哨戒機としての運用を継続している機体についても改造が行われ、衛星通信装置、合成開口レーダー、画像伝送装置、ミサイル警報装置、GPS対応電子海図表示装置、AIS:自動船舶識別装置、次世代データリンクなどの追加装備によって、年々能力向上を図っている[24]。
P-1への置き換えで余剰機が発生するP-3Cを他国に移転することが計画されており、いくつかの国で協議されている。
南シナ海での監視能力強化を図りたいフィリピンは当初P-3Cを希望していたが、後に運用に高度な能力を必要とし維持費も高いP-3Cに代わり、より扱い易く維持費が安いTC-90に変更となった[31]。
マレーシアには南シナ海での同国の監視能力の向上を後押しし、海洋進出する中国をけん制する狙いでP-3Cの無償供与を提案している。導入希望はマレーシアが持ちかけたという。この場合を修理して引き渡すが潜水艦探知用の高性能レーダーなどは防衛機密に当たる可能性があるため取り外す予定だという[32][33]。
初飛行から50年以上が経過し、装備の近代化改修を繰り返しているものの、機体の老朽化による寿命と後継となる予定だったP-3Gの案が消えたことから、2000年代に入り後継機の導入計画が各国で進められている。アメリカ海軍はボーイング737を改造したP-8が2013年から正式運用を開始した。海上自衛隊は2009年から初期に導入したP-3Cの退役が始まり、2015年から独自開発したP-1の正式運用を開始した[34]。
この他にはエアバスがA319ベースの『A319 MPA』を、ATRがATR 72ベースの『ATR 72 ASW』を提案している[35]。
諸元
性能
顧客に合わせた機内設備の変更・更新を考慮した旅客機をベースとしていることから追加・更新が容易であるため、戦術データ・リンクやミサイル警報装置など開発当初は考慮されていなかった装備の追加が容易なことから、導入国は運用に合わせた装備を随時導入・更新しており多数のバリエーションが存在する。
P-3C[36][37] | Il-38[39] | アトランティック | P-8[40] | P-1 | |
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画像 | |||||
全長 | 35.6 m | 39.60 m[39] | 31.75 m | 39.5 m | 38 m |
全幅 | 30.4 m | 37.42 m[39] | 36.30 m | 37.6 m | 35.4 m |
全高 | 10.3 m | 10.16 m[39] | 11.33 m | 12.83 m | 12.1 m |
発動機 | T56A-14×4 | イフチェンコ AI-20M×4[39] | タイン RTy.20 Mk 21×2 | CFM56-7B×2 | F7-10×4 |
ターボプロップ | ターボファン | ||||
最大離陸重量 | 63.4 t | 66 t[39] | 44.5 t | 85.8 t | 79.7 t |
実用上昇限度 | 8,600 m | 10,000 m[39] | 10,000 m | 12,500 m | 13,520 m |
巡航速度 | 607.5 km/h | 不明 | 556 km/h | 810 km/h | 833 km/h |
航続距離 | 6,751 km | 7,500 km[39] | 9,000 km | 8,300 km[41] | 8,000 km |
戦闘行動半径 | 4,410 km | 不明 | 不明 | 3,700 km[42] | 不明 |
最大滞空時間 | 15時間 | 13時間[39] | 不明 | 10時間[43] | 不明 |
乗員 | 5-15名 | 7-8名[39] | 12名 | 9名 | 11名 |
運用開始 | 1962年8月 | 1971年 | 1965年 | 2013年3月 | |
運用状況 | 現役 | ||||
採用国 | 20 | 2 | 5 | 6 | 1 |
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