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アメリカのロッキード社が開発した戦術輸送機。 ウィキペディアから
C-130 ハーキュリーズ(C-130 Hercules)は、アメリカのロッキード社(現ロッキード・マーティン社)が製造している戦術輸送機。愛称のハーキュリーズ(Hercules)とは、ギリシア神話に登場する英雄、ヘラクレスの英語読みである。
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高翼式で、太い胴体の後方に搭載用傾斜面を設けるなど、以後に続く軍用輸送機の基本構造を確立した[2]。戦術輸送機のベストセラーであり、アメリカ軍はもとより西側諸国を中心に69か国で使用され、登場から半世紀以上経った現在も生産が続いている。現在の最新型はC-130J スーパーハーキュリーズ(Super Hercules)である。
未整地での運用を念頭に置いて設計され、高い短距離離着陸性能を持ち、さらにJATO(短距離離陸用の補助ロケットエンジン)により、より短い滑走距離での離陸も可能である。太い胴体に高翼式主翼、主輪を収納するバルジ、スロープも兼ねる後部大型カーゴベイといった、現代の軍用輸送機のスタイルは本機で確立されたと言ってよい。
その輸送力と運行性能の高さから、「世界最高の輸送機」との呼び声も高い。滑走路のない砂漠での離着陸や車輪にソリをつけて南極への物資輸送など極めて幅広く用いられている。また汎用性も高いため、特殊派生型も数多く存在する。NATO加盟国や日本では航空自衛隊(C-130H)及び海上自衛隊(C-130R)が使用するなど西側諸国の主力軍用輸送機として、現在も各国で活躍を続けている。
その基本設計は当初から完璧と言っても良い物で、登場から半世紀以上経った現代に至るまでエンジン、プロペラ、各種電子機器以外ほとんど手を加えられていない、稀有な航空機である。
陸軍航空軍から改組された直後の時点で、アメリカ空軍が運用する輸送機はC-46やC-47など第二次世界大戦中から使われてきたものが主体であり、新型のC-119も戦中世代のC-82の発展型で、基本設計の古さは否めなかった[3]。この状況に対して空軍はC-46とC-119の後継機の開発を計画し、1951年2月2日、下記のような一般運用要求書を作成した[3]。
この要求に対してボーイング、ダグラス、フェアチャイルド、ロッキードの4社が設計案を提出し、同年7月2日ロッキード社の案が選定された。この設計は目標仕様を遥かに超える優秀なもので、579km/hという巡航速度は当時を代表する旅客機よりも僅かに遅い程度で、18,143kgの最大ペイロードはDC-6Aをも上回っていた。貨物室は、地上高がトラックの荷台の高さに合わせて作られているため、トラックから容易に貨物を積み込むことができる。さらに重要な点は貨物室のランプが気密閉鎖できることで、これにより機内を与圧して高高度巡航することが可能になった。しかし、ロッキード社はこの設計に完全な自信を持てておらず、万が一失敗した時のことを想定し生産施設を本社施設から遠い政府所有のジョージア州マリエッタ工場に移していたほどだった。なお、外形設計上の手本となったのはライスター・カウフマン社が開発したXCG-10 強襲輸送グライダー(ライスター・カウフマン CG-10の試作機)で、簡素な設計ながら荒地の仮設滑走路にも容易に着陸できる機体だったが、政治的な理由で不採用となり、後にC-123へと発展するチェース CG-14に採用を奪われている。
ロッキード社のバーバンク工場で組み立てられた試作機2機は1954年8月にロールアウトした。初飛行したのは2号機で、同月23日に行っている。最初の量産型であるC-130Aの初号機は1955年4月7日に初飛行し、1956年12月9日にはアメリカ空軍が最初の機体を受領した。また、間もなく世界中からも注目されることになり、オーストラリアが最初の輸入国となって以来、世界50ヶ国以上で採用されることとなった。1960年代からは民間向けにもL-100として生産され始めた。
C-130から間を置かずしてロッキード社は、同じアリソン T56の民間機用であるアリソン 501-D13ターボプロップエンジンを搭載したL-188旅客輸送機を進空させる。ジェット推進かプロペラ推進かの選択で過渡期にあった当時の旅客輸送機において、C-130の開発経験はロッキード社にL-188へのターボプロップ採用を促す大きな要因の一つであったと考えられる。しかし、旅客輸送機の将来を技術的にも商業的にも見誤ったことや、設計の不備に起因する墜落事故などでL-188の販売は低迷、結果としてロッキード社の民間旅客輸送機部門はL-188の次に開発したL-1011の商業的な失敗を最後に撤退している。
一方のC-130は各国への売込みが進み、生産数は第二次世界大戦後の戦術輸送機において最多である。後継機の開発計画「先進中型短距離離着陸輸送機計画(AMST)」が頓挫したこともあって、現在に至るまで一線級の性能を保ち、世界各地で多数が現役で飛行している。各国から放出された中古機も依然として人気が高い。古いC-130にグラスコックピットの導入を中心とした近代化改修を施すプログラムもあり、その主なものにはアメリカが進めているAMP(Avionics Modernization Program)やイスラエルのエルビット・システムズが開発したC-suiteなどがある。アメリカ空軍と海軍ではプロペラをE-2でも採用された細長い8枚ブレードのものへの換装も始まっている。21世紀に入ると国際貢献任務の増加や装甲車の大型化・重量増化などC-130では能力不足と判断される場面が増え、エアバス A400Mやエンブラエル C-390などC-130を上回る能力を持つ戦術輸送機が登場しているが、これらはまだ開発途上あるいは配備が開始されたばかりであり、C-130の立場を決定的に脅かす存在となるかどうかは未知数である。
胴体は円筒形で、コクピット後方から後部貨物扉まで一定の楕円断面をもっているが、主翼取付部のみ、キャビン高さがやや低くなっている[4]。
胴体の設計や基本構造は、最初期の機体からC-130Jに至るまでそのまま踏襲されている[4]。武装した兵員を単に輸送する場合は92名、空挺兵をパラシュート降下させる場合は64名、標準的な463Lマスターパレットに積載された物資を輸送する場合は6枚を搭載でき、また胴体を延長したC-130J-30であればそれぞれ128名、92名、8枚に増加する[4]。胴体最後部には上下分割式でスロープを兼ねる貨物扉を備えている[4]。これは後部圧力隔壁を兼ねており、これを閉じると操縦室を含むキャビンは完全に密閉される[4]。キャビンには空調・与圧システムが完備されている[4]。
胴体中央部には、主翼が高翼配置で取り付けられている[4]。主翼は前桁と後桁の2本桁構造で、25%翼弦で後退角のない完全な直線翼である[4]。主翼下には両舷2基ずつのエンジンポッドが吊り下げられている[4]。また内側部にはハードポイントが設けられており、増槽を搭載できるほか、空中給油機仕様の場合はここに給油ポッドを装着する[4]。尾翼は単垂直尾翼と水平尾翼から構成されており、いずれも後退角はついていない[4]。
C-130は開発の目的通りの短距離離着陸性能と不整地離着陸性能を発揮し、世界各国に導入されて砂漠から南極まで幅広い地域で運用された。貨物の輸送、空挺部隊の展開といった任務の他、“デイジーカッター”の名で知られる大型爆弾BLU-82や、MOABことGBU-43/Bの投下母機としても用いられている。また、貨物室に消火剤散布装置を搭載することで容易に消防機とすることも可能であり、アメリカでは大規模な山火事が発生した際にしばしば出動している。これらは本機の大きな搭載能力を活かした例といえる。
1963年には航空母艦「フォレスタル」で発着艦実験を行ったことさえある[10]。カタパルトやアレスティング・ワイヤーなどを用いることなく(艦上機ではないので発着艦に利用する機材へ全く対応しておらず、使用することは不可能である)発艦・着艦ともに成功している。大型過ぎて実際に運用するのは困難とされ実験以上の段階には進まなかったものの[注 1]、本機の短距離離着陸性能の高さを示す一例である。
珍しい例としては、1982年のフォークランド紛争において、アルゼンチン空軍のC-130は主翼下の増槽装着部を改造して航空爆弾用パイロンを装着できるように改造され、代用爆撃機として運用された。このC-130改造爆撃機はイギリス海軍に徴用されていた民間船舶を攻撃し、爆弾を2回命中させている[注 2]。ただし、2回とも不発であったため大きな損害を与えることはできなかった。
台湾の澎湖諸島では春節(旧正月)の時期に民間航空会社の座席が足りなくなった際、座席を手配できなかった住民のために一般旅客を搭乗させて澎湖〜台北間の運送を行うことがある。
チリ空軍のC-130は2019年12月9日に南極に向かっている途中で消息を絶ち[11]、乗客乗員38人全員が死亡したと認定された(2019年チリ空軍C-130墜落事故)。
J型も採用した国は太字で示す。
この他にも民間企業が民間型L-100や中古機を利用している。
自衛隊のほか、海上保安庁でも1965年に長距離救難機としてC-130の導入を検討したものの、同年のマリアナ海域漁船集団遭難事件を受けてYS-11Aが緊急導入されたため、実現しなかった[15]。
航空自衛隊では、1960年代中盤のC-46後継機(C-X)計画の時点でC-130の導入も検討されており[16]、C-X計画によって国内開発されたC-1の価格が高騰した際には財務当局からもC-130の輸入を提案されたこともあったが、この時点では空自主要滑走路のほとんどがC-130の正規運用に耐えるだけの強度を持たなかったために見送られたという経緯があった[17][注 3]。しかしその後、アメリカ施政権下の小笠原諸島および沖縄の本土復帰が実現すると、C-1では国内基地間の空輸ですら航続力不足の問題が顕在化した[2][注 4]。航空自衛隊では、C-1輸送機36機(3個飛行隊分)の整備を構想しており、五三中業でちょうど24機(2個飛行隊分)に達するところであった[2]。続く五六中業では長距離中型輸送機の整備も検討されており、C-1ストレッチ型やC-160、YX767、そしてC-130Hが俎上に載せられていたが、同中業では他にも重要事業が目白押しで[注 5]、見通しは明るくなかった[2]。しかし長距離中型輸送機の整備が実現しないままC-1の調達を継続した場合、長距離輸送機の導入は、C-1が退役する時期までできない恐れが強かった[2]。他方、C-130Hの価格はC-1と大差がなかったため、取得機種をC-1からC-130Hに変更しても、経費的な問題はないものと考えられた[2]。
このことから、航空自衛隊では、1個飛行隊分の調達をC-130Hに振り替えることとした[2]。これは政治的な要請として日米貿易摩擦の緩和にも役立ったほか、下記の経緯により、極東有事時に実施される宗谷海峡機雷封鎖への協力も求められた[18]。まず1981年8月に2機がFMS調達されて、1983年12月にアメリカにて領収、空自史上初の太平洋横断空輸によって1984年3月14日に小牧基地に着陸し、実用試験・試験運用に供された[2]。同年9月の部隊使用承認を受けて、第1輸送航空隊がC-1からC-130Hへの機種変更を開始した[2]。1998年までに16機を購入しており、2024年3月末時点の保有数はC-130Hが13機、KC-130Hが3機である[19]。なお最終号機である16号機(機体番号:85-1086)はロッキード社で生産された最後のC-130Hである[20]。
これらのC-130Hは防衛省・自衛隊の海外派遣でも運用されており、2004年3月3日-2008年12月まで実施された航空自衛隊のイラク派遣においては、地上からの視認性を低下させるために水色に塗装されたC-130Hがクウェートの飛行場とイラクの飛行場との間で輸送活動を行った。2021年8月のターリバーンによるアフガニスタン制圧の際は、在アフガニスタン・イスラム共和国邦人等の輸送(詳細は同記事参照)に小牧基地(第401飛行隊所属)のC-130Hが2機派遣され、パキスタンのイスラマバード(中継拠点)とカブール空港とを行き来して邦人等を退避させる任に充てられた[21][22]。また2006年10月には航空機動衛生隊が編成され、C-130Hを航空医療後送(AE)ミッションに用いるための機動衛生ユニットが配備された[23]。
また2005年頃には、UH-60J救難ヘリコプターに対してプローブ・アンド・ドローグ方式での空中受油能力が付与されることになったのに伴って、本機が給油母機として選定された[24]。これは主翼下に空中給油ポッド、カーゴベイ内に追加燃料タンク用の配線・配管、コクピットにこれらを制御・監視する機器を追加するもので、空中給油機として活動する際にはKC-130Hと称される[24]。空中給油ポッドはコブハム900Eをボーイングで改修したMk.32Bが用いられており、プローブ接続は速度0.6メートル毎秒から、分離は1.2メートル毎秒までの広範囲で可能である[24]。燃料の転送圧力は最大120 psiまで対応できるが、空自の場合、UH-60J側のシステムの都合から、最大55 psiに設定されている[24]。ドローグとしては汎用性の高い可変抵抗ドローグ(VDD)を採用し、MA-4接続カップリングと組み合わせているが、これはアメリカ空軍のMC-130Hと同じ組み合わせである[24]。ドローグを安定させるための最低速度は105ノット、逆に上限は180ノットである[24]。追加燃料タンクとしては、パレットに固定された1,800ガロンのツインタンクが用いられており、ロールオン/オフを謳ってはいるが、実際には機体の燃料システムとの接続・点検作業の手間もあり、輸送任務を兼任している空自KC-130Hでは、使用機会は限定される[24]。改造初号機(機体番号:85-1080)が、2010年2月25日に第401飛行隊に配備された[25][26]。ただし2021年現在で3機が改修されたのみであるため、それぞれの部隊に対して1-2か月に1回程度の訓練機会しか提供できておらず、空中給油を実施できる要員の養成が課題となっている[24]。
海上自衛隊では、五三中業においてC-130H 6機の整備を計画した[28]。これは機雷搭載・投下用のAMLSを装備した敷設機仕様のもので、常続的な制空権を確保し難い海峡や、直前まで予測が困難と思われる上陸侵攻地点への迅速な機雷敷設能力を確保するための施策であった[注 6]。しかし必要性は理解されたものの、防衛計画の大綱に盛り込まれていない装備であり、多分に政治的配慮を要すること[28]、また上記の航空自衛隊のC-130H調達計画とバッティングしたこともあって、結局は取り下げられ、必要に応じて航空自衛隊のC-130Hに所定の装備を搭載して敷設機として使用することとなった[2]。
一方、これとは別に、1967年より輸送機として4機のYS-11M(加えて機上作業練習機としてYS-11T-Aを6機導入)が運用されていた。しかし、2011年に発生した東日本大震災による救難活動で飛行時間が急激に増加したため、運用停止時期が予定より前倒しして到来することになり、代用としてアメリカ海兵隊を退役してモスボール状態とされていたKC-130R空中給油・輸送機を再生しC-130Rとして6機購入することを決定し[30]、2011年度(平成23年度)3次補正予算に計上した[31]。これらの機体は、1975年から1976年に製造後まもなくモスボール保管がなされ、未使用に近い状態だったため、通常の運用なら20年ほど使用可能とされる。自衛隊が中古機を選定して導入するのはこれが初めての事例であった[9]。
これらの機体は、アメリカ国内でアビオニクスの更新、主翼や胴体等のオーバーホール、その中では給油用の配管の取り外しなども含む空中給油装置の取り外しを実施した後、日本に回送されることになっていた。当初計画では2013年11月から試験飛行を行ったのち、2014年3月に1・2号機を厚木に空輸することになっていたが、まず再生作業が度々遅延したために、試験飛行の大部分を空輸してから行うことになり、また空輸自体も当初計画から8か月遅れの2014年11月にずれ込んだ[32]。また空輸後も、与圧に関係するADFアンテナパネルの亀裂、動翼等を作動させる油圧配管の接触、コクピットのウインドシールド部の雨漏りなど多数の不具合が見つかり、運用試験は10か月遅れて、YS-11Mの除籍から1か月も経った2015年1月からやっと開始された[32]。当初計画どおりの配備を断念した時点で、まずYS-11Mと同程度の輸送に必要な「運用試験A」を先行して終えたのち、部隊運用と並行して、大型貨物輸送や編隊飛行など残りの試験項目を「運用試験B」として消化していく方針になったものの、各機に機体の亀裂が多発し、修復のために日々の可動機は1機を確保するのが精々となってしまい、なかなか編隊飛行の試験を実施できず、全項目の終了は2015年8月初旬となった[32]。
塗装はP-1と同等の薄い青灰単色が採用された。
YS-11Mと比べ飛行能力が大幅に強化[注 7]され、硫黄島や南鳥島へ向かう際により多くの貨物を積んでも引き返す余裕が生まれた[33]。また大型カーゴベイにより積み込みにフォークリフト等が不要となる[注 8]など利便性も向上している。今後は各種訓練に加え、災害派遣や国際貢献活動などにも活用される予定であるとされる。
コストを優先したためトイレは更新されず、仕切りがなくカーテンで目隠しするタイプがそのまま残された[34]。
海上自衛隊には燃料の残量を計測する機器などが導入されておらず、在日アメリカ軍の支援を受けている[35]。
2020年までに部品の落下や紛失が9回発生している[36]。
出典: Lambert, Mark (1991). Jane's All the World's Aircraft 1991-92. Jane's Publishing Company Ltd.. pp. 426-429. ISBN 978-0710609656
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