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アメリカの歌手、女優、作曲家、映画プロデューサー、映画監督 ウィキペディアから
バーブラ・ストライサンド(Barbra Streisand、本名Barbara Joan Streisand, 1942年4月24日 - )は、アメリカ合衆国の歌手、女優、作曲家、映画プロデューサー、映画監督。
バーブラ・ストライサンド Barbra Streisand | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2018年撮影 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
本名 | Barbara Joan Streisand | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1942年4月24日(82歳) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
出生地 | アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | アメリカ合衆国 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
職業 | 歌手、女優、作曲家、映画プロデューサー、映画監督 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
活動期間 | 1963年 - | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
配偶者 |
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備考 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
エミー賞、グラミー、アカデミー賞、トニー賞をすべて受賞した人物(EGOT) |
ニューヨークのブルックリンで育つ。1962年に歌手としてデビュー。代表曲は「ピープル」、「追憶」等。女優としても活躍し、自身の映画出演作の主題歌を歌ったり、楽曲の提供などもしている。
アカデミー賞は、『ファニー・ガール』で主演女優賞を、『スター誕生』で作曲家としてアカデミー歌曲賞と2度受賞している。また、複数のエミー賞、グラミー賞、ゴールデングローブ賞、およびトニー賞を受賞している。
映画監督としては『愛のイエントル』でデビュー。主演・脚本・製作、そして主題歌と5役を務めた。『サウス・キャロライナ/愛と追憶の彼方』はアカデミー賞の作品賞で候補にあがったが、彼女は監督賞候補にならなかった。
米国ニューヨーク市のウィリアムズバーグでユダヤ系のロシア人の家族のもとに生まれ、バーバラ・ジョアン・ストライサンド(Barbara Joan Streisand)と名づけられた彼女は、生後まもなくしてブルックリンへと引っ越す。グラマースクールで文法学の教師をしていた父親のエマニュエルは、彼女が生後わずか15ヶ月のときに亡くなり[1]、継父のルイス・カインド(中古車セールスマン。1949年に母アイダと結婚)と彼女は不穏な関係であった(精神的な虐待)。母親のダイアナ・アイダ・ローゼンはバーブラが魅力的ではないと感じ、娘にショービジネスを勧めることはなかった。この事が、バーブラが長年、エンターテイメント界での数々の成功にもかかわらず自分の容姿にコンプレックスを持ち続けた理由ではないかとされている。
1959年、エラスムス・ホール高校を4番目の成績で卒業。高校ではニール・ダイアモンドと共に合唱部に所属していた。大学へは進学していない。
ストライサンドは、「育ったときはそこ(ブルックリン)は嫌いだったけれど、今はわたしのルーツから力をもらっていると感じる」と述べている(2006年10月17日のトロントコンサートで)。
10代の頃にナイトクラブで歌手としてデビュー。しかし本来は女優志望で、数々のオフ・オフ・ブロードウェイ演劇に出演していた。当時野心的だった女優ジョーン・リバーズと競演したこともある。ボーイフレンドだったバリー・デネンがクラブで働くように支援したため、1960年、マンハッタンにあるゲイバーで演じたことにより、歌手として成功をおさめた。それと同時期に、ユニークさを出したいと考えたストライサンドは自身の名前をバーブラ(Barbra)に縮めている。
1962年にはミュージカル『あなたには卸値で』でブロードウェイに出演し、その後コロムビア・レコードと契約を結んだ。彼女のデビューアルバム『ザ・バーブラ・ストライサンド・アルバム』は1963年に2つのグラミー賞を受賞した。その後、彼女の人気は低迷することなく、デビュー作から3作目までが同時にビルボードのポップ・アルバム部門のトップテンに入った。当時はロックンロールやビートルズがヒットチャートの大半を占めていたことから、彼女の功績は異例の快挙だと見なされた。
ファニー・ブライスの生涯を題材にした、ジュール・スタインとボブ・メリルの音楽による1964年の『ファニー・ガール』は、『あなたには卸値で』におけるストライサンドのパフォーマンスを見たスタインが彼女のために制作したブロードウェイ・ミュージカルである。しかしショーのプロデューサー、レイ・スタークの妻だったブライスの娘は、ストライサンドをキャスティングするのを強く反対し、彼女よりキャロル・バーネットのほうを好んだという。
テレビ出演も多く果たしたストライサンドは、米国のCBSチャンネルで多くのスペシャル番組に出演。特に最初のスペシャル番組であった1965年の『マイ・ネーム・イズ・バーブラ』は多くのファンや評論家によって賞賛された。
ストライサンドは1967年以降舞台には出演せず、1970年代から1990年代前半にかけてはコンサート活動からも遠ざかった。これはユダヤ系アメリカ人として政治的な姿勢を明確に表明していた彼女への脅迫行為が多発していたためで、以降彼女はレコードと映画を活動の中心とした。
バーブラ・ストライサンドは60作以上のアルバムを録音しているが、その殆どがコロムビア・レコード・レーベルから発売されたものである。1960年代に発表された初期の作品は、アイロニックで見事な「幸せの日は再び」をはじめとする劇場やナイトクラブで歌われるスタンダード曲を主とした古典的な表現に徹した作品だと考えられている。
1969年からは作曲家としても活動をはじめ、ロックへの路線変更を試みて試行錯誤する。最終的にリチャード・ペリーがプロデュースした1971年の『ストーニー・エンド』の成功によって、ポップやバラード志向に定着した。ローラ・ニーロが作曲したこのアルバムの表題作は大きなヒット曲になった。1970年代のあいだ、ストライサンドは「追憶」「スター誕生/愛のテーマ」「ノー・モア・ティアーズ」や「ウーマン・イン・ラヴ」など、主に彼女の映画のサウンドトラックに使用された楽曲でチャートの首位に輝き、ポップチャート上でも際立った存在だった。
1970年代の終わりには、米国で最も成功した女性歌手として認識された。彼女のアルバムのセールスは凄まじく、当時彼女より多くのアルバムを売り上げていたのはエルヴィス・プレスリーとビートルズだけであった。[2] 1982年に、音楽評論家のスティーヴン・ホールデンは彼女を「フランク・シナトラ以来最も影響力のある米国ポップ歌手」と評している。
1980年、ビー・ジーズのバリー・ギブによるプロデュース作「ギルティ」を発売、彼女自身最大のヒットアルバムとなった。グラミー賞も受賞した。
1985年のアルバム『追憶のブロードウェイ』で、ストライサンドは彼女の原点であるミュージカル的な作風に回帰する。このアルバムはビルボードの首位を3週連続キープして3xプラチナとして認証され、思いがけない成功をもたらした。レコーディングのためにスティーヴン・ソンドハイムによって特別に作り直されたミュージカル・ナンバーを収めたこのアルバムは高い評価を受け、グラミー賞で「アルバム・オブ・ザ・イヤー」にノミネートされた。ストライサンド自身も最優秀女性歌手部門において、彼女にとって8度目の同賞を受賞している。
1991年には、『ジャスト・フォー・ザ・レコード』と題された4枚組のCDボックスセットが発売された。このアルバムにはライブ音源やヒット曲、それに初期から1991年までに録音されたレア音源など、70曲以上が収録されている。
1992年ごろは、音楽的成功はストライサンドにとって関心ごとではなかった。ビル・クリントンとの関係から、ニューヨーク・タイムズは彼女を再び「最も有力なエンターテイナー」であると宣言した。ストライサンドが行った資金集めのコンサートは、クリントンをスポットライトに送り込む手助けをした。クリントンがアメリカ合衆国の大統領に就任した際には、ストライサンドが彼を紹介している。[3]
しかしながら、政治活動のためにストライサンドの音楽的キャリアは中断していた。そこで、ツアーが提案され、彼女はそのために2年もの歳月にわたって話し合いを行った。そして、それから1年後の1993年にショー・チューンを集めたアルバム『バック・トゥ・ブロードウェイ』で再び全米チャートの1位を記録すると、同年の9月には27年ぶりのコンサート・ツアーを行うと発表した。この限られたツアーへのチケットは1時間未満で売り切れた。また、主要な雑誌の表紙も飾った彼女のツアーを、『タイム』誌は「世紀の音楽イベント」になると予測した。ツアーは全てのメディアにおいて、史上最も大規模な交渉を生む商品となった。チケットの値段は50ドルから1500ドルへと高騰し、ストライサンドを史上最も高価なパフォーマーにした。ザ・コンサートはその年アメリカ国内で最も高い収益を得たコンサートになり、2つのエミー賞とピーボディ賞を受賞した。HBOでオンエアされた録画放送は、HBOのこれまでの30年以上の歴史の中で最も高視聴率を記録したコンサート特番である。
1999年の大晦日、彼女はコンサートのステージに復帰する。“Timeless”と題された。そして、これまでのラスベガスの歴史における単独での歌手のコンサートとしては、最大級の収益をあげる記録をなしとげた。世紀末の時点で彼女は、デビュー以来各年代で最低2枚1位を記録したアルバムがある、アメリカ最高の女性シンガーであった。ラスベガスでのコンサートのあと、オーストラリア、ロサンゼルスそして、故郷であるニューヨークなどで公演を行うと、彼女は2000年にコンサート活動を停止する。
彼女の近年のアルバムには2001年の『クリスマス・メモリーズ』や、大規模なオーケストラの演奏をバックに有名映画の主題歌を歌ったものを集めた2003年の『ムーヴィー・アルバム』などがある。最新作はバリー・ギブとの共演による『ギルティ』の続編『ギルティ・プレジャーズ』(イギリスでは『ギルティ・トゥー』として発売された)で、2005年に世界発売された。
2006年2月、マリブの自宅でトニー・ベネットと共に「スマイル」を収録。10月4日にフィラデルフィアのワチョビアセンターで始まった6年ぶりのコンサート・ツアーは「ストライサンド:ザ・ツアー」とのみ呼ばれている。スペシャルゲストのイル・ディーヴォがオープニングを勤めた。
2006年10月9日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでコンサート。ジョージ・W・ブッシュ大統領を揶揄するスキットを披露した。スキットの後で野次を飛ばし続ける一人の観客に対し、ストライサンドは「黙れ」と怒鳴りつけ、後に陳謝したが、「秩序をかき乱すのも芸術家の役割」と付け加えた。
2006年10月30日、同じスキットで、一人のファンがストライサンドにカップを投げつけた。 これに対し、マネージャーのマーティン・エーリッヒマンは「ここは自由の国であり自分の意見を述べる権利がある」と回答した。
2007年、13年ぶりのヨーロッパ・ツアーをロンドン、パリなどで行う。
2009年10月、4年ぶりのアルバム"Love Is The Answer"を発売。(同日発売のマライア・キャリーのアルバムを抑え)、Billboard 200チャートで初登場1位。
2014年9月、デュエット・アルバム『パートナーズ』を発表。Billboard 200チャートで初登場を首位で飾り、自身が持つ女性アーティスト最多記録を10作に更新。さらに、1960年代・1970年代・1980年代・1990年代・2000年代・2010年代の6つの年代で首位を獲得する前人未到の偉業を達成した。
多くのアーティストと同様、ストライサンドは自分の作品について議論することを好まないことで知られる。そして収録が終わるや否や、それは「終わったもの」として忘れてしまうことが多いのだという。彼女は、彼女が歌ってきた多くの歌の題名すら思い出せないと述べている。
一度も来日公演が行われていない大物アーティストの一人である。1977年3月に映画『スター誕生』のプロモーションで来日したが、公演は行わなかった。この時「なぜ来日公演を行わないのか?」という記者の質問に対し、「日本で歌う機会が無いからだ。もしあれば歌いたいのだが・・・」と答えている。
彼女の最初の映画は、ブロードウェイでの最初のヒット作『ファニー・ガール』(1968年)の翻案だったが、芸術的、商業的成功を収め、1968年のアカデミー賞最優秀女優賞を、キャサリン・ヘプバーンと共に受賞する。これはオスカー初の引き分けとなった。これに続く2作の映画、ジェリー・ハーマンの『ハロー・ドーリー!』(1969年)とアラン・ジェイ・ラーナーとバートン・レーンの『晴れた日に永遠が見える』(1970年)もミュージカルの翻案であった。4番目の映画はブロードウェイ演劇『フクロウと子猫ちゃん』(1970年)を下敷きにしている。
彼女はオリジナルのスクリューボールコメディーにも出演している。『おかしなおかしな大追跡』(1972年)ではライアン・オニールと共演、『またまたおかしな大追跡』(1974年)ではマイケル・サラザンとそして『追憶』ではロバート・レッドフォードと共演している。彼女の2番目のアカデミー賞は、『スター誕生』(1976年)の歌「スター誕生の愛のテーマ」の作曲家として、オリジナル歌曲賞を獲得している。この賞を女性が獲得したのはこれが初めてである。1969年、俳優が資産を確保し自分で映画プロジェクトを興せるようにするため、ポール・ニューマン、シドニー・ポワチエと共に、ファーストアーティストプロダクションを興した。彼女のファーストアーティストとしての最初の出演は、『砂の塔・人妻マーガレットの場合』(1972年)となった。
1970年の『フクロウと子猫ちゃん』で彼女のトップレスのシーンがあったが、彼女はこれを後悔して全てのフィルムを買い取り、問題のシーンを削除した。ハイソサエティ誌が彼女の胸の写真のオリジナルを出版したとき、彼女は同社を告訴した(後に自身の監督作『サウス・キャロライナ』でも撮影中のアクシデントで胸が露になってしまったが、本人はそのシーンを気に入り、本編で使うことにした。しかし、関係者による試写会での反応があまりにも大きすぎたため、ストーリーの流れを止めてしまうと思い、最終的にはカットされた)。
ストライサンドは自分自身の映画を数多く製作し、1972年にバーウッドフィルムを興した。『愛のイエントル』(1983年)では、プロデューサ、監督、脚本、主演を兼任し、『サウス・キャロライナ/愛と追憶の彼方』(1991年)までこれが続く。
『愛のイエントル』はその新人離れした完成度がスティーヴン・スピルバーグやフェデリコ・フェリーニらに絶賛される一方で、作中のフェミニズム思想の強さが批判、反発を呼ぶ作品となった。ゴールデングローブ賞では6部門にノミネートし、作品賞と監督賞を受賞するが、アカデミー賞では主要なカテゴリーである最優秀作品賞、最優秀女優賞、最優秀監督賞のいずれにもノミネートすらされず、議論となった。『サウス・キャロライナ』は、最優秀映像賞を含むより多くの候補になったが、例によって最優秀監督賞の候補には漏れた。
2004年、8年間の空白を破り、コメディー『ミート・ザ・ペアレンツ2』で映画に復帰した。ここでダスティン・ホフマン、ベン・スティラーおよびロバート・デニーロと競演している。
ストライサンドが手がけたあらゆる媒体において、彼女は賞を取ってきた。オスカー2回、エミー賞6回、ゴールデングローブ賞11回、グラミー賞10回、トニー賞1回、ケーブルエース賞2回、アメリカ映画協会の生涯成績賞、そのほか数多くの賞を取っている。
1995年、グラミー生涯成績賞を取った。2005年、彼女の米国でのアルバム売り上げは、女性アーティストで全米トップセールス記録を達成した。
トニー賞は特別な「この10年間のスター」を表彰するものであるが、ストライサンドはオスカー、トニー、エミーとグラミーを獲得した数少ない人たちの一人である(ほかにはヘレン・ヘイズ、リタ・モレノ、ライザ・ミネリ、ウーピー・ゴールドバーグがいる)。ただし、ストライサンドのトニー賞は通常の受賞ではなく名誉受賞であるため、受賞者には含まないことがある。
バーブラ・ストライサンドは2度結婚した。彼女の最初の夫は俳優のエリオット・グールドで、1963年から1971年まで結婚していた。彼らには一人息子のジェイスン・ゴールドがおり、彼も俳優になっている。1969年から1970年までカナダの政治家ピエール・トルドーと交際していた[5][6][7]。1990年代初めにはアンドレ・アガシと交際していた[8]。彼女の2度目の結婚相手は俳優のジェームズ・ブローリンで、1998年に再婚した[9]。2人の結婚式の模様は克明に報道されている。彼らのあいだに子供は生まれていないが、ブローリンには以前の2回の結婚生活で授かった3人の子供たちが存在する。
米民主党の熱烈な支持者で、多額の献金者として有名。政治的発言も数多い。
2003年、カリフォルニア州の海岸線侵食を防ぐために海岸線の航空写真を記録してネットで公開しているプロジェクトに対して、マリブ海岸の自分の豪邸が写っているためプライバシーを侵害されたとして、公開差止と賠償金を求めて裁判を起こした。この裁判では結局敗訴したのみならず、かえってその豪邸の写真を見てみたいというアクセスが殺到する結果に終わった(これは後にストライサンド効果と呼ばれるようになる)[10][11][12]。
バーブラ・ストライサンドの象徴的な姿は、スケッチコメディー番組『サタデー・ナイト・ライブ』のスキット「コーヒートーク」で繰り返しパロディー化されてきた。このスキットでは、マイク・マイヤーズが演じるキャラクター、リンダ・リッチマンがストライサンドを賞賛するトークショーを司会する。『ザ・コンサート』のDVDではリンダが客席から登場するシーンが収録されている。
バーブラ・ストライサンドはギャグアニメ『サウスパーク』で繰り返しネタにされた。例えば、シーズン1第10話「メカ・ストライサンドの大迷惑」では、ストライサンドが巨大ロボット怪獣に変身して世界征服を企み、シーズン2第15話「殺人金魚の事件簿」では、画面の四隅にストライサンドの顔が配置されていた。別の回では、罵倒語の一種として彼女の名前が使われる。そして、シーズン14第5話「200」の回では生まれ変わったメカ・ストライサンドのテーマ曲として「バーブラバーブラ 一番嫌いな人 バーブラバーブラ 鼻が大きい」と日本語で歌われていた。
映画『Waiting for Guffman』では、登場人物の一人がコーキーを褒めてこう言う台詞がある: 「彼は歌って監督もしてプロデュースもできるんだ。彼以外にそんなことが唯一できるのは……バーブラ・ストライサンドだ」
フランク・オズ監督、ケビン・クライン主演の映画『イン&アウト』は、バーブラ好きの男はゲイである(ゲイアイコン)、という一部の偏見をネタにした作品である。ゲイであると周囲に疑われる主人公の、ゲイっ気を示すネタの一つとしてバーブラ趣味が使われている。何とかゲイ疑惑を払拭したい主人公は、(本当は大好きな)バーブラの映画を仲間内で必死に否定してみせるのだが、調子に乗った仲間の一人が「『愛のイエントル』はクズだ」と口にしたとたん、その男に掴みかかって大喧嘩を起こす。
また、アメリカのミュージカルテレビドラマ『glee/グリー』で主人公のレイチェル・ベリーが彼女を崇拝していることでも知られている。
プロレスラーのテリー・ファンクが1983年に発売した音楽アルバム『The Great Texan』に、彼女の鼻を茶化した楽曲が収められている。
※1のオリジナルはジュリー・ロンドン
※テレビスペシャル第一弾
※テレビスペシャル第二弾
※1967年6月ニューヨークのセントラル・パークで13万5千人の大観衆の前で行われた野外コンサートの模様を記録したバーブラ初のライブ作品
※シングル6は1971年ビルボード年間43位
※シングル1は全米1位(1974年ビルボード年間1位)
※発売当時のタイトルはBarbra Streisand Featuring "The Way We Were" AND "All In Love Is Fair"
※シングル4は全米1位(1974年ビルボード年間1位)
※1,5,9はクリス・クリストファーソンのソロ、4はストライサンドとクリストファーソンとのデュエット、12は再発売時にボーナストラックとして加えられた
※シングル6は全米1位(1977年ビルボード年間4位)
※6はシングル全米4位(1977年ビルボード年間60位)
※シングル5は全米1位(1979年ビルボード年間21位)
※1と3と9のみがバーブラ・ストライサンド
※シングル1は1979年ビルボード年間35位
※シングル6は全米1位(1980年ビルボード年間38位)
※シングル2は全米1位(1981年ビルボード年間35位)、1は全米3位(1981年ビルボード年間29位)、6は全米10位(1981年ビルボード年間85位)
※1と6はビージーズのバリー・ギブとのデュエット
※シングル6は全米11位、1と6のみ新曲、8は新録音曲
Disc 1: /
Disc 2: /
※5枚目のライヴ・アルバム
※2枚目のクリスマス・アルバム
Disc 1: /
Disc 2: /
※ベスト・アルバム。17,18は新録音
※過去のデュエット曲を集めたコンピレーション・アルバム。1と19は新録音
※映画主題歌集。(…)内は映画タイトル
Disc 1: /
Disc 2: /
※6枚目のライヴ・アルバム
Disc 1: ジョニー・マンデルのアレンジによるオーケストラとの共演/
Disc 2: ダイアナ・クラール・カルテットとの共演/ 1~12. Disc 1と同じ
公開年 | 邦題 原題 | 役名 | 備考 |
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1968 | ファニー・ガール Funny Girl | ファニー・ブライス | アカデミー主演女優賞 受賞 ゴールデングローブ賞 主演女優賞 受賞 |
1969 | ハロー・ドーリー! Hello, Dolly! | ドリー・レヴィ | |
1970 | 晴れた日に永遠が見える On a Clear Day You Can See Forever | デイジー・ギャンブル | |
フクロウと子猫ちゃん The Owl and the Pussycat | ドリス | ||
1972 | おかしなおかしな大追跡 What's Up, Doc? | ジュディ・マックスウェル | |
砂の城・人妻マーガレットの場合 Up the Sandbox | マーガレット・レイノルズ | ||
1973 | 追憶 The Way We Were | ケイティ | |
1974 | またまたおかしな大追跡 For Pete's Sake | ヘンリエッタ・ロビンズ | |
1975 | ファニー・レディ Funny Lady | ファニー・ブライス | |
1976 | スター誕生 A Star Is Born | エスター・ホフマン | 製作総指揮も兼任 アカデミー歌曲賞 受賞 ゴールデングローブ賞 主演女優賞 受賞 |
1979 | メーン・イベント The Main Event | ヒラリー・クレイマー | 製作も兼任 |
1981 | 恋のドラッグストア・ナイト All Night Long | シェリル・ギボンズ | |
1983 | 愛のイエントル Yentl | イエントル | 監督デビュー作・製作・脚本も兼任 ゴールデングローブ賞監督賞 受賞 |
1987 | ナッツ Nuts | クラウディア・ドレイパー | 製作・音楽も兼任 |
1991 | サウス・キャロライナ/愛と追憶の彼方 The Prince of Tides | スーザン | 監督・製作も兼任 |
1996 | マンハッタン・ラプソディ The Mirror Has Two Faces | ローズ・モーガン | 監督・製作も兼任 |
2004 | ミート・ザ・ペアレンツ2 Meet the Fockers | ロズ・フォッカー | |
2010 | ミート・ザ・ペアレンツ3 Little Fockers | ロズ・フォッカー | |
2012 | 人生はノー・リターン 〜僕とオカン、涙の3000マイル〜 The Guilt Trip | ジョイス・ブリュースター | 製作総指揮も兼任 |
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