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ジュリー・ロンドン(Julie London、1926年9月26日 - 2000年10月18日)は、アメリカ合衆国の女優、歌手。本名、ゲイル・ペック(Gayle Peck)。身長157cm[1]。
1926年9月26日、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタローザに生まれる。両親はヴォードヴィルの歌と踊りのチームでラジオ番組を持っていた。幼い頃のジュリーもその番組に出演しており、3歳の時にはマレーネ・ディートリヒのヒット曲「フォーリング・イン・ラヴ・アゲイン」を披露している。
1941年、ロサンゼルスに移住するとともに、15歳でエレベーターガールとして就職する。まもなく、俳優のエージェントをしていたスー・キャロル(故アラン・ラッド夫人)にその美貌を評価され、芸能界にスカウトされる。
1944年、『ジャングルの妖女』で映画女優としてデビュー。『赤い家』『愛と血の大地』『機動部隊』などの映画にワーナーニューフェイスとして出演したが、女優としては幸運に恵まれない下積み時代を過ごした。
1947年に役者のジャック・ウェッブ(Jack Webb)と結婚し、徐々に主婦業に集中する。二人の娘を出産。
1953年に離婚。ボビー・トゥループ(Bobby Troup)の勧めで芸能界へ復帰。歌手に転向し、ナイトクラブで歌うようになる。ジャズピアニストで「ルート66(Route 66)」の作曲家としても有名なトゥループの指導を受け、本格的なジャズシンガーとしてのキャリアをスタートさせた。
1955年、ファーストアルバム『Julie Is Her Name(邦題:彼女の名はジュリー)』を録音。同アルバム内からシングル・カットされた『クライ・ミー・ア・リバー(Cry Me a River)』がヒットして一躍人気歌手となり、同時に映画活動も再開。『女はそれを我慢できない』『西部の人』などに出演するなど、一躍スターとなる。歌手としては主にスタンダード・ナンバーを数多く歌い、レコードを発表している。また、『You'd Be So Nice To Come Home To(帰ってくれれば嬉しいわ)』は、日本ではヘレン・メリルの歌唱がよく知られているが、アメリカではジュリー・ロンドン版もヒットした。
1959年12月31日、トゥループと結婚し、トゥループのプロデュースでアルバムもリリースした。
1964年にはボビー・トゥループ楽団とともに来日も果たし、都内赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クオーター」に連日出演した。特に5月25日の演奏は実況録音され、後年「ジュリー・ロンドン・ライヴ・アット・ニュー・ラテン・クオーター」としてCD化されている。
また5月28日にはTBS(東京放送)のスタジオに招かれて演奏を披露し、特別番組『The Julie London Show』(TBS)として録画されている。
その後はテレビドラマ『エマージェンシー!』などでテレビや映画に出演しているものの、歌手としての一線は退いている。
1995年に脳卒中で倒れてから体調を崩すようになる。
2000年10月18日、カリフォルニア州エンシノにある病院で、心臓病のため74歳で死去。アメリカ、イギリス、日本の各報道機関がジュリーの死を報じた。ジュリーがかなりのアルコール好きだったことが死因に関係しているとされる。
人気の理由として、その美貌と共にハスキーボイスが挙げられる。ジュリーの声は「スモーキー・ヴォイス」とも呼ばれていた。
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの「7000 Hollywood Blvd.」(レコード分野)には、ジュリーの星がある。
アルバムはいずれもリバティ・レコードから発売。
初来日の1964年5月28日にTBSで収録された特別番組で、ボビートゥループ楽団とともに下記楽曲を披露した。
ボビー・トゥループは『Route 66』を歌った後、一礼してから日本語で「みなさん、こんばんは。ボビー・トゥループです。日本に来て、大変うれしいです。どうぞ、よろしく」と挨拶した。
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