鳥取城
鳥取県の城 ウィキペディアから
鳥取県の城 ウィキペディアから
鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市(因幡国邑美郡)にあった戦国時代から江戸時代の日本の城。国の史跡に指定[1]され、別名は久松城(きゅうしょうじょう)・久松山城(きゅうしょうざんじょう)という。山名氏・武田氏・尼子氏・毛利氏の争奪戦の舞台となり、織田信長の中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉が兵糧攻めを用いて攻略した。開城後、入城した宮部継潤によって山上ノ丸の改修が行われ、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、麓の二の丸以下の曲輪が拡張された[2]。現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残っている。戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化を窺うことができることから「城郭の博物館」の異名を持つ[2]。
戦国時代中頃の天文年間、因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきたが、近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されている。正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からである。高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣であったが、しだいに力をつけ永禄年間には鳥取城を拠点とした。湯所口の戦い以降、守護家に対して優勢になった高信は天神山城を攻撃し、因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させ名目上の守護・山名豊弘を擁立し下剋上を果たした。高信はその後も豊数の弟で主筋である山名豊国としばしば対立し、安芸の毛利氏と誼を通じるようになる。
1573年(天正元年)、高信を討つために山中幸盛ら尼子残党と結んだ豊国の攻撃を受け、劣勢の高信も和議を結び城を明け渡すが(尼子再興軍による鳥取城の戦い)、まもなく豊国の手によって謀殺された。因幡山名氏の本拠も鳥取城に移されるが、同年に後巻に進出した吉川元春に攻められ豊国は降伏、市場城主・毛利豊元が城主となった。しかし、1574年(天正2年)再度尼子氏残党に攻められて降伏する。
1575年(天正3年)芸但和睦で毛利氏の力が鳥取に直接及ぶようになると、その手から逃れるため尼子残党が鳥取城を退き豊国が城主に落ち着く。
1580年(天正8年)に織田方・羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めで3か月の籠城戦(この時の籠城費用は、全て豊国が負担している。)の末、9月に豊国は和議により信長へ降伏、臣従した。
ところが、同月毛利氏の来訪で再度の降伏、鳥取城は牛尾春重が城将として入った。この時点で、豊国は因幡守護であるが鳥取城主ではなくなった。春重は織田方の桐山城を攻めたとき深手を負い帰還(近年の研究では、帰還後も生存していたことが明らかになっている)、何人かの城将の入れ替えの末、1581年(天正9年)3月毛利氏の重臣である吉川経家が城主として迎えることになった。
同年4月、因幡守護の豊国が織田氏へ密使を送るが、市場城主・毛利豊元の家臣達に斬られたことで織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔する。残存する山名氏旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の部将で中国地方の攻略を担当していた秀吉は2度目の鳥取城攻撃をすることとなる。
秀吉は播磨・三木城攻め(三木合戦)で行った兵糧攻めをここでも実施、後に『鳥取城の渇え殺し』と言われる程凄惨な兵糧攻めであった。
『陰徳太平記』によると、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、1400の兵が籠る鳥取城に付近の農民ら2000以上を城に追いやった。さらに河川や海からの毛利勢の兵糧搬入も阻止した。このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥った。何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出した。 『信長公記』には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記され、人肉を食らう者まで現れたとしている。 同年10月25日、城主の経家は切腹し、その代わりに将兵は助命するという条件で開城した。
開城後、飢えた将兵には粥が振る舞われたが、多くの兵がまもなく命を落とした。『信長公記』では「食べた人は食に酔ってしまい、過半数がすぐに死んでしまった」としており、『豊鑑』では「粥をたくさん食べたものはすぐに死んでしまったが、少し食べたものは問題なかった」としている[3]。この記録から低栄養状態で高栄養を摂取することで低血糖や電解質異常を起こして死に至るリフィーディング症候群ではないかという説が唱えられている[3][4]。
開城後の鳥取城には浅井氏の旧臣で秀吉の与力となっていた宮部継潤が城代として入り、織田勢の山陰攻略の拠点とした。鳥取城落城により毛利方の前線は八橋城周辺の西伯耆まで後退し、すでに織田方に臣従していた南条元続の羽衣石城周辺の東伯耆で争うこととなる。
宮部継潤は豊臣政権に代わった1585年(天正13年)の九州征伐で功績を挙げ、正式に因幡・但馬のうち5万石を与えられ、正式な鳥取城主となった。その後も継潤は九州平定後五奉行として連署するなど、豊臣政権の奉行として重要な役割を果たし、隠居後は御伽衆として秀吉のそばに仕えた。
継潤の没後は子の宮部長房が受け継いだ。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで宮部家は西軍に所属し、城主の長房は因幡の外にいたので城代家老の伊吹三左右衛門や一族の者が留守を守ったが、関ヶ原での本戦終了後、東軍の亀井茲矩らに激しく攻められ開城する。長房は戦後改易されている。
関ヶ原の戦いの近江甲賀郡水口岡山城攻めでの功により、池田長吉(池田氏)が6万石で入り、池田氏によって近世城郭に改修された。
1617年(元和3年)、さらに池田光政が因幡・伯耆32万5,000石の大封で入府、鳥取城も大大名に相応しい規模に拡張された。光政によって城下町の整備も行われたという。その後、ふたたび備前岡山藩に入っていた池田氏(長吉とは別系)と所領の交換が行われて池田光仲が入封、そのまま12代続いて明治維新を迎えた。
城は、1873年(明治6年)に公布された廃城令によって存城とされ、陸軍省の所管となり第4軍管に属した[5]。1876年(明治9年)鳥取県が島根県に編入されると、県庁所在地(松江市)以外に城は必要なしとの観点より[6]、陸軍省によってすべての建造物は払い下げられ、1877年(明治10年)より1879年(明治12年)にかけて中仕切門と扇御殿化粧の間を残して解体された[5]。最後に取り壊されたのは、鳥取城を象徴する建物となっていた二の丸の御三階櫓だったという。唯一現存していた中仕切門も1975年(昭和50年)3月に大風によって倒壊したが同年秋に木造復元された[5]。現在は天守台、石垣が残っており、国の史跡に指定[1]されている。昭和44年から昭和51年まで、山麓北西から観光用のロープウェイが運行されていた。
1993年(平成5年)、鳥取城正面入口に吉川経家の銅像が建立された。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(63番)に選定された。
2005年(平成17年)に「史跡鳥取城跡附太閤ヶ平保存整備基本計画」が策定された。これは鳥取城を2006年度から30年の歳月と51億2千万円をかけ、幕末期の姿へ木造復元する計画である。これによれば、まずは2015年までに中之御門大手門登城ルート、追って下馬場番所、太鼓御門、御三階櫓、土塀等を木造復元する計画である[7]。2011年(平成23年)5月、天球丸の巻石垣の修復が完了した[8][9][10]。2014年6月、天球丸の巻石垣の石が抜き取られる事件が発生した[11][12]。
令和元年11月から令和3年3月にかけて大手門の木造復元工事が行われた[13][14]。令和3年3月13日から一般開放される[15]。
標高263メートルの久松山頂の山上の丸を中心とした山城部、山麓の天球丸、二の丸、三の丸、右膳の丸などからなる平山城部からなる梯郭式の城郭とすることができる。さらに西坂・中坂・東坂などの尾根筋には戦国期の遺構が数多く残されており、戦国時代から近世、さらに幕末までの築城技術が一つの城地に残る城跡である。
藩政期の鳥取城の建造物については、数多くの古絵図が残されているほか江戸後期の鳥取藩士岡嶋正義の『鳥府志』に詳しく記述されている。
天守、車井戸、御旗櫓、着見櫓、多聞櫓などの建物があった。東方に二の丸・三の丸と見なすことのできる2段の郭がある。本丸西方の一段下には出丸があり、下段の御櫓のほかに馬場も設けられていた。
二の丸の一段上、平山城部の最高所にある。池田長吉の姉で若桜鬼ヶ城主・山崎家盛の夫人だった天球院が山崎家を去った後に居住していた。三階櫓、御風呂屋御門などの建物があり、池田光政入封後も天球院の居所が存在していたという。享保5年の石黒火事で焼失し、長らく放置されていたが、幕末には不穏な世情を背景にお稽古所が設置された。
近年の石垣復元に伴う発掘調査から、池田長吉による慶長の大改築の際に、宮部時代の石垣をもとにして郭が拡張されたことが明らかになった。また、この頃は現在の凸の字状の郭ではなく、東側が3段の石垣で造られ、中心部は2段の石垣で構成されたことも明らかになっている。現在のような形になったのは、長吉の後の池田光政の改築によるものと考えられている。
さらに、江戸時代後期には石垣のたわみを防ぐために球面を持つ巻石垣によって石垣下部が補強されたことも明らかになり、巻石垣が復元された。こうした巻石垣は港や河川の工事に用いられるのが主で、城郭の補強に用いられるのは、きわめて珍しい例である。
江戸時代初期には藩主の御殿が置かれ、鳥取城の中心であった。周囲に御三階櫓、走櫓、菱櫓などの建物があった。大手の入り口は鉄御門(くろがねごもん)。1718年(享保3年)三の丸に新御殿が建設されると二の丸が使われることは少なくなった。石黒火事で全焼したあと、御三階櫓と走櫓が再建されたのみで長らく放置されていたが、1844年(弘化元年)再び二の丸御殿が建設された。1849年(嘉永2年)には御三階櫓の西方が拡張され、角櫓や登り石垣が建造された。幕末には菱櫓も再建された。
御三階櫓の西方、二の丸の一段下にある郭。城代高木右膳の屋敷があったことからこの名がある。太平洋戦争後はここに進駐軍の官舎が建てられており、礎石等の遺構は破壊されているが、郭の一隅に五輪塔群、井戸、城内安全之碑が遺っている。
江戸時代初め、池田長吉の頃は侍屋敷がおかれていたらしい。池田光仲の時代になり若君の居館や老公の隠居所となったが、1718年(享保3年)に拡張工事が行われ、藩主の居館が置かれた。それに伴い二の丸と呼称が改められたが、藩主の居館が再び二の丸へ移った幕末には三の丸の呼称に戻っている。最後の藩主・池田慶徳の代、文久年間に江戸小石川にあった水戸徳川家の松の御殿を移築したため、松の御殿と呼ばれることもあった。三の丸は現在は鳥取県立鳥取西高校の敷地となっている。
現在、鳥取西高校のグラウンドや久松公園になっている区画で、池田光政時代までは藩士の屋敷が建ち並んでいた。その後、藩士の屋敷は内堀の外へと移され、かわりに米蔵や武器蔵が建てられ、馬場も置かれた。米蔵があった関係上、一部の有力町人も出入りが許されていた。
西坂・中坂・東坂の3つの尾根筋を中心に戦国期の遺構も残されている。
この他、雁金山城に続く北方の稜線上や円護寺側の山腹にも多くの砦跡が残っている。なお山上の丸の直下に無数の削平地があるが、これらは羽柴秀吉の鳥取城攻撃の際に城内に避難してきた人々の駐屯小屋掛けの跡と『鳥府志』が伝えている。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.