高輪築堤

日本初の鉄道の開業に際して海上に建設された堤 ウィキペディアから

高輪築堤

高輪築堤(たかなわちくてい)は、1872年明治5年)の日本初の鉄道の開業に際して、東京府高輪(現在の東京都港区)で東京湾の浅瀬[新聞 1]に建造されたである。

概要 所在地, 地域 ...
高輪築堤
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高輪築堤が描かれた錦絵三代目 歌川 広重)
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1891年の東京市芝区の地図。海岸沿いに鉄道が建設された。
所在地 東京府高輪
地域 日本
種類 かつての鉄道構築物
全長 2.7km
6.4m
歴史
建設者 工部省
資材 石積み
完成 1870-1872
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高縄鉄道之図(明治4年)

当時、高輪周辺には軍事を担当する兵部省軍用地や、旧薩摩藩邸があり、国防上必要であるとの理由で兵部省が鉄道局への引き渡しを拒んだことから、大隈重信が海上に鉄道を敷設することを指示[1][新聞 2]したため、イギリス人技師エドモンド・モレルによる指導の下、本芝 - 品川停車場間(現:田町駅 - 品川駅間)の約2.7 kmの海上に、建造当時の海岸線に沿うように建設された[2]

その後線路付け替えで使われなくなった後、東京湾岸の埋め立てで地中に姿を消したが、2019年平成31年)4月に品川駅改良工事で石垣の一部が発見され、2021年令和3年)9月17日、日本初の鉄道開業時に東京側の起点だった旧新橋停車場跡に追加する形で、「旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡」として国史跡に指定された[3]

構造

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築堤上に建てられた品川停車場の模型(品川歴史館

築堤には幕末に建設された台場の技術が活用され、石材には未完成の台場や高輪海岸の石垣が転用・流用されている[1]。そのため、日本の在来技術と西洋の近代技術の折衷を見ることができ、世界的にも稀な海上鉄道の姿を今に伝える遺構である[4]

海上に土手状に盛られたものを「橋台」と呼び、全長1.65哩(2655メートル)、高さは場所にもよるが高潮を警戒し海面から3~4メートル、軌道が載る最上部の幅は21呎(6.4メートル)あり複線構造に対応できるだけの幅があったが単線で敷かれた(明治9年には複線化)[書籍 1]

現在も浜松町駅南側を流れる古川に第一橋梁鉄道橋)が架けられ、そこを渡った先(旧町名:芝金杉井町・金杉浜町)の海岸湿地干潟)を埋め立てた場所が第一橋台で、古川支流(入間川)を越えると一度元鯖江藩抱地に上陸し、そこから先は完全に海上となる。舟が出入りするため橋台間に水路を残し溝渠として区切ったことで計5つの橋台に分割された。品川停車場が置かれた第五橋台は八ツ山下で陸地と地続きとなった。溝渠や江戸時代から残る掘割そして自然河川を跨ぐため、横浜までに22の橋が架橋されたが、その内築堤区間では第五~第八橋梁が築かれた[書籍 2][書籍 3]

石積みの下には杭基礎を打ち込み、盛り土流出防止にしがらみを組み上げるなど、日本の伝統的な土木技術も駆使された。その様子は横浜開港資料館が所蔵する『The Far East』に掲載された明治4年時の建設風景を捉えた古写真に残る[書籍 2]

なお、横浜にも同様の海上築堤が設けられた[書籍 2]

発掘

要約
視点

明治32年の三線化に伴う築堤西側(陸側)の埋め立てを皮切りに、同42年の四線化や大正3年(1914年)に完成した品川駅拡張工事で海側の埋め立ても進み、昭和10年(1935年)の鉄道用地を含む市街地整備で完全に均されたため正確な位置が分からなくなっていたが[書籍 4]、2019年4月、東日本旅客鉄道(JR東日本)高輪ゲートウェイ駅西側周辺の再開発工事(TAKANAWA GATEWAY CITY建設)に際し、約1.3 kmにわたって高輪築堤の遺構が発見された[4][5][新聞 3][新聞 4]

JR東日本は、高輪築堤の調査や研究を港区教育委員会などと進めた上で、築堤の一部保存および移築保存を通じた公開展示(2021年1月10日 - 1月12日には事前応募制の現地見学会を実施[報道 1])などの検討を表明[報道 2][新聞 5]。また、港区の監督の下、外部の有識者らで作る「高輪築堤調査・保存等検討委員会」を設置し、調査を進めた[新聞 4]。しかし、JR東日本側は調査や保存による再開発計画見直しの懸念もあり、全面的に保存するのは難しいとした[新聞 5]。これに対して、日本考古学協会は2021年1月及び同年3月に、高輪築堤は日本最初の鉄道が開通した際に造られた世界的にも珍しい海上築堤であり、小規模な一部保存では高輪築堤の意義が損なわれるとして、JR東日本や文化庁などに対し、現地での全面的な保存を求める要望書を提出した[新聞 4][新聞 6]。他にも産業遺産学会や日本歴史学協会など20以上の団体から保存などの要望が出された[新聞 4]文化財の指定等及び保存・活用に関しての事項の調査審議を行う文化審議会文化財分科会も「日本の近代化に関する遺跡として重要」と評価し、現地保存を求めるという意見表明を文化庁に提出している[新聞 7]萩生田光一文部科学大臣は国史跡の指定も視野に、調査費の支援を進める考えを示した[新聞 8]

これらの意見を受けてJR東日本は2021年3月23日に、計画中の再開発ビル4棟のうち1棟の設計を見直し(3街区)[報道 3]、築堤の一部を現地で保存する考えを示した[新聞 9][新聞 10]。設計変更などの費用は概算で300億から400億円程度を見込んでいる[新聞 10]。同年4月21日には、JR東日本が「高輪築堤調査・保存等検討委員会」が取りまとめた内容を踏まえて、「第七橋梁」付近約80 m(3街区)と公園隣接部約40 m(2街区)を現地保存、信号場跡付近約30 m(4街区)を移築保存、その他の地区は記録保存をすることが発表された[報道 3][新聞 11]。同年5月17日から解体・記録する本調査を着手している[新聞 12]

2021年8月23日には文化審議会が、「旧新橋停車場跡」に現地保存を表明している橋梁部を含む2か所の計約120 m分を追加指定する形で史跡にするよう文部科学大臣に答申した[報道 4][新聞 13]。同年9月17日の告示によって正式に史跡指定されている(指定名称は「旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡」)[新聞 14]。2022年2月22日には、国際記念物遺跡会議が「発掘・記録・破壊のサイクル」の停止とより広い範囲での一般公開、開発計画の見直しなどを求めている[新聞 15]

2023年11月15日、羽田空港アクセス線工事準備に伴う地盤確認調査(トレンチ調査)で、田町駅北側の本芝公園(雑魚場跡)付近の軌道下から石垣が検出されたことが明らかとなり高輪築堤の一部と推測されたが、山手線京浜東北線など営業路線にかかっていることから正式な発掘調査はできず周知の埋蔵文化財包蔵地となった[新聞 16]。これを受けて、JR東日本は築堤を避けて通すために羽田空港アクセス線の計画を一部変更することを2024年4月15日に発表した[6]。それによると一部はやむをえず解体撤去するが、残せる部分は現地(線路下土中)保存することになる[7]

また、2024年10月1日に公表されたJR・京急品川駅および軌道の移設に伴う周辺開発で新たに整備される駅北口と街区に設けられる広場には、確認された第八橋梁北横仕切堤や初代品川駅(旧品川停車場)のための築堤に関しての保存については言及されていない[8]

2024年12月8・9日、TAKANAWA GATEWAY CITY5・6街区で進められていた築堤の存在と位置を確認するトレンチ調査9ヶ所の内の一つを一般公開する見学会を実施。当該区の開発では建造物建設の予定地からは外れていることから、埋め戻し保存する[9]

第七橋梁

第七橋梁は、東京側起点の新橋から数えて七番目に設けられた橋であり[10]、高輪ゲートウェイ駅北側に位置している[11]。海上に鉄道を敷設することで漁業ができなくなるとする反対論があった東京湾の漁業者に配慮して設けられた水路跡である[11]三代目歌川広重錦絵『東京品川海辺蒸気車鉄道之真景』には描かれたままの姿を見せており、保存状態の良好さを示している(広重が描いたのは同じ設計の第八橋梁とされている[11][1]

史跡公園整備

要約
視点

2024年10月31日、JR東日本がTAKANAWA GATEWAY CITY第1期の開業=街びらきを2025年3月27日とする旨を公表したのに伴い、TAKANAWA GATEWAY CITY内に取り込まれた高輪築堤の扱いについて詳細が明らかになった。それによると開業時期の順に、4街区のTHE LINKPILLAR 1 南北両棟に接する泉岳寺辻広場(計画時呼称「広場3号」)と高輪辻広場(「広場6号」)の間を結ぶ自由通路(「広場4号」、延長約300メートル)を鉄道公園としての「TAKANAWA LINK LINE」とし、同区画内で発掘された築堤信号機土台部分を移設した状態で公開し、通路上には開業期の鉄道が走ったライン上にレールを埋め込んだり、植え込み囲いに石垣石材を流用するなどを実施。敷地外とを仕切る壁には石垣の模様を描いた上に日本の鉄道史を往時の錦絵や古写真などで紹介する「TAKANAWA LINK SCAPE」とし、スマートフォンなどタブレット端末をかざすと林修の解説動画や築堤上を走る鉄道の様子を見ることができるARプログラムも公開する。

次いで2026年春竣工予定の第2期区画となるTHE LINKPILLAR 2に伴う3街区公園では、現地保存した状態の築堤(第七橋梁部)をそのまま公開。同時開業予定の文化創造棟(正式名称「MoN Takanawa:The Museum of Narratives」/設計:隈研吾)に伴う2街区公園部分では築堤を空中回廊の展望テラスから軌道面を見下ろしたり、地下回廊から石垣を見上げるように見学できる。

さらにTHE LINKPILLAR 2内には築堤基礎に用いられ回収された木杭をあしらった「築堤ギャラリー(仮称)」(設計:内藤廣)を2027年度を目途に開設する[12]

2025年3月27日の第1期街びらきに合わせ、TAKANAWA LINK SCAPEのARプログラムが公開され、同29日よりTAKANAWA LINK LINEも開放されたが、整備事業が間に合わず信号機土台部分の公開は遅れることになったほか、2期区画も含め公開は2027年度中ということになった。

なお、LINK LINEでは今後信号機土台部分の整備工事の都合で部分的に閉鎖されることがあるほか、屋外マーケットのLINK MARKET[補 1]開催時には事前の準備に伴い立入制限され、開催中はテントやキッチンカー設営によりLINK SCAPEの壁が遮られたり再現軌道上にベンチが置かれるなどして見通しが利かなくなる。また、LINK SCAPEの壁は工事囲い用フェンスを利用したもので、整備が完了した時点で撤去され、ARプログラム共々終了する期間限定(終了時期未定)のサービスである[書籍 5]

その後、信号機土台部分は、先行開業した4街区と第一京浜の間(高輪2丁目21番/LINK SCAPE壁外)の区画「品川駅北周辺地区第一種市街地再開発事業」区域4-2B・Cの間に「広場5号(仮称)」(約1,400平方メートル)を整備して、そこに移設設置することとなった。区域4-2B・Cは2024年度に着工し(4街区が開業した2025年3月27日時点ではまだ複数のビルが残り[補 2]、一部更地化したが未起工)、竣工が2029~2031年度、全体供用開始は2031年度を予定しており、広場5号の完成公開もこの時期になる見込み[13]

解説展示

TAKANAWA GATEWAY CITYと築堤関連の施設が一部公開されたことをうけ、カンファレンスホール(LINKPILLAR 1 SOUTH 6F)にて「未来へつながる鉄道とまちづくり展」が開催され、高輪築堤の歴史がパネル展示・出土遺物・映像・模型などで解説。また、未来体験シアター(LINKPILLAR 1 SOUTH コンベンションセンターB2)で上映される映像作品でも高輪築堤を走行する1号機関車のイメージ動画が流れる。いずれも2025年6月28日までの開催だが、「築堤ギャラリー(仮称)」での展示に引き継がれる計画もある[書籍 5]

移築公開

開発事業に伴い多くの石積みが解体除去されたことから、その部材を貰い受けた復元展示が各地で行われている。

このほか、立体復元ではないが、石垣の石材を単体や複数個並べて展示する場所もある。組み上げていないため、積まれた状態では見ることができない間知石としての裏側を観察することができる。

関連する場所

  • 品川駅南側で八ツ山通りや八ツ山橋として地名を残す八ツ山は城南五山の一つとして江戸時代に景勝地として知られたが、高輪築堤造営時の埋め立て土確保のために削平された[他 1]
  • 「おばけトンネル」などの俗称で知られる高輪ゲートウェイ駅北側にある高輪橋架道橋下区道田町車両センター#高輪橋架道橋)は、第三‐四橋台間の第七橋梁に併設した北横仕切堤に伴う車町河岸への水路が後にアンダーパスとなったもの[書籍 6]。横仕切堤は築堤建設時の作業道(陸橋)で、開通後は保線等で築堤へ入るために用いられ、小林清親による『高輪牛町朧月景』(明治12年)にも描かれている[書籍 7]。2023年(令和5年)10月19日より架道橋下道が南側壁裏を抜けていた暗渠放水路に切り替えられたが、こちらも築堤を潜り抜けていた水路跡となる。
  • 国道15号の高輪二丁目交差点(十字路)の桂坂に面した北西角に高輪海岸の石垣が残る。往時の記録では「南横仕切堤は桂坂近くにあった」とあることから、この付近から海に伸びていたことが推測されるほか、高輪海岸が自然の波打ち際ではなく護岸化されていたこと、現在の国道15号は当時は海で必然的に高輪築堤が海中道となったことなどが窺える[書籍 8]1995年(平成7年)に発掘調査で確認され、一部が現地保存され公開空地となっている[書籍 9]
  • 東京都港区三田と芝浦を結ぶ札ノ辻橋(都道409号)下付近に、現在の新芝運河から入り込む舟寄場があり、その出入りのため第二‐三橋台に分け、その間に水路を残して第六橋梁を跨がせた[書籍 9]
  • 現在の田町駅は新橋~品川間の複線化により開設されたが、そこは第二橋台と一体化した薩摩藩邸内に設けられていた砲台(台場)基礎を活かしたものである[他 2]
  • 港区芝と芝浦を結ぶ田町駅北側の雑魚場架道橋は、第一‐二橋台間の第五橋梁下の溝渠に相当する[書籍 9]。なお、雑魚場の名前は江戸時代に漁師の船溜まり(小港)があり、水揚げした魚河岸があったことに由来する[他 3]。雑魚場は東海道新幹線開業当時はまだ残っており新幹線も溝渠を跨ぐ橋梁上を走行していたが[書籍 10]1970年(昭和45年)に雑魚場の入り江が埋め立てられ、水路も架道橋下歩道となった[他 3]
  • 同じく芝と芝浦を結ぶ国道130号に架かる芝橋ガードは、かつて江戸湾に注いでいた入間川に架けられた第四橋梁(築堤区画外)の後身となる。工事区間としては最後まで残り、1872年8月2日(明治5年6月25日)に完成。当初は木橋であったが、明治10年代に鉄橋へと架け替えらえた。当時の軌道は東海道貨物線跡に概ね重なると考えられる。築堤が出来たことにより排出土砂が堆積し砂洲となり、1927年(昭和2年)に河川ごと埋め立てられた[書籍 1][書籍 9]。なお、芝橋ガードは道路となった現在も架道橋ではなく、鉄道施設の河川橋梁扱いとなっている[書籍 10]
  • 同じく芝と芝浦を結ぶ新浜町ガードは第三橋梁(築堤区画外)下となる旧会津藩蔵屋敷の海へと繋がる掘割(荷船乗り入れ水路)に相当すると目される[書籍 3][書籍 9]
  • 雑魚場架道橋・芝浜ガード・新浜町ガードがある浜松町駅~田町駅間の海側(芝浦一丁目)では、東海道新幹線建設時に東海道貨物線用として遺存していた擁壁をコンクリート製に改修したが(海辺護岸ではなく東京モノレール橋脚を含む荷重対策)、これは往時から残っていた護岸擁壁を作り直したものであり、この付近に築堤の第一橋台があった[書籍 10]
  • 芝と芝浦を結ぶ旧川口町架道橋は第二橋梁部(築堤区画外)に相当し、その下にあった溝渠は2000年(平成12年)より港区道196号となっている。区道化にあたり、新橋~横浜間を走った軌道跡に相当する旧東海道貨物線の橋梁が撤去され、橋台壁のみが現存する[書籍 9]
  • 浜松町駅界隈は先に存在していた旧芝離宮恩賜庭園(江戸時代の大名浜御殿)との掘割石垣を活かしつつ、その南側に広がる芝浦海岸で高輪築堤と同じ技法で海側に護岸擁壁を築いた(ほどなく現在の浜崎公園から古川を挟んだBLUE FRONT SHIBAURAにかけて鉄道用地として埋め立てられた/上記テンプレート内の1891年時地図では既に埋め立てられている)。古川と並行する港町架道橋は浜崎公園などの埋め立て時の作業道として開削された。浜松町駅は鉄道開業から35年後に同軌道上に開設された駅で、駅舎は軌道上に角切石とレンガで基礎を設けた上に建てられた[16]

関連作品

  • 梶よう子『我、鉄路を拓かん』PHP研究所、2022年、320頁。ISBN 978-4569852881…高輪築堤の土木工事を請け負った平野弥十郎が主人公の歴史小説

脚注

外部リンク

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