旧芝離宮恩賜庭園
日本の東京都港区にある公園 ウィキペディアから
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旧芝離宮恩賜庭園(きゅうしばりきゅうおんしていえん)は、東京都港区海岸にある都立庭園。大久保忠朝上屋敷の庭園楽寿園が始まりで、宮内庁管理の離宮を経て、大正13年(1924年)東京市に下賜され、旧芝離宮恩賜庭園として公開された。
寛永時代(1624〜1644年)の中頃、伊予松山藩および陸奥会津藩初代藩主・加藤嘉明に与えられ、後に、小田原藩・大久保家の控邸となり、次ぎに、清水家に移り、維新前は紀伊藩の浜屋敷となったが、明治4年(1871年)3月より、有栖川宮の邸となり、明治8年(1875年)8月、皇太后宮非常御立退所として宮内省へ収められた[2]。
旧芝離宮恩賜庭園に関する貴重な資料『楽壽園』が、庭園研究の権威である龍居松之助に寄って発見され、これによると、元禄以前、貞享年間(1684〜1688年)に庭園は既に存在していたことが判明した[2]。庭園は元禄年間(1688〜1704年)に、当時の老中大久保忠朝が藩地小田原の庭師に依頼して作庭されたと伝えられている[2]。庭園は回遊式潮入林泉で、壮大な石組みは無いが、地割に苦心の跡が見受けられる、江戸時代の名園である[2]。
明治40年(1907年)発行の『東京案内』によれば「明治9年(1876年)2月10日、庭園の場所は濱崎町(現・海岸)にあり、庭園は「芝離宮」の名称で設置された」との記録がある[2]。明治38年(1905年)、芝離宮は、南は品川湾に面し、北は新橋汽車線路に接しており、総建坪1,492坪で、日本館に平屋建の御座所、後席の間、食堂などがあった[2]。また、2階建木造の西洋館があり、庭内には中央に2,700坪余の泉水を設け、海水を導いて泉水に入れ、泉水には三つの中島を設け橋を渡し、橋は「西湖の橋」とゆう[2]。池の周囲には築山があり、諸石を配置して、梅樹を栽植して、山上には四阿屋があり、品川の海を見渡すことが出来る[2]。
大正12年(1923年)の大震災により、迎賓館など歴史的な建物や庭園の桜の名木知恩院の黄桜、大提燈、嵯峨野の雪ケ谷、御室の大芝山、小芝山、清水の普賢像、御車返し、虎尾、泰山府君、奈良の八重桜などが震災により焼失してしまった[2]。震災後、庭園は被災者の避難所に充てられたため風致が損なわれたが、その後、復旧に努め名園を復活させた[2]。大正13年(1924年)東京市へ下賜され、その後、東京市は中坪に椎、松を植え、建物の境界には松、八ツ手、あお木などを密植した[2]。池の縁には黒松を植え、池畔の崩れた伊豆井は取り換え、池は付近の工場汚水が侵入するので潮入りを辞めた[2]。
昭和6年(1931年)9月26日、離宮の材料置場を改造して、排球、庭球場として有料で公開した[2]。昭和8年(1933年)2月11日、馬場跡には弓道場を建て、弓術練習場として一般公開した[2]。昭和8年(1933年)に明治天皇の聖蹟として文部大臣指定史跡となった[2]。
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