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東京都文京区本駒込六丁目にある都立庭園 ウィキペディアから
六義園(りくぎえん)は、東京都文京区本駒込六丁目にある都立庭園で、「回遊式築山泉水庭園」の日本庭園(大名庭園)である[4][1]。国の特別名勝に指定されている[4][1]。
六義園が造られた駒込は当時は原野であった[5]、慶長(1596年)から元和(1624年)にかけて、江戸はどこを指していったのかといえば、「御曲輪内(おくるわない)」といって現在で言う外堀内を指しており[5]、現在の文京区は「御曲輪外(おくるわがい)」であった[5]。『文京区史』には、慶長年間に文京区に造られた主な武家屋敷は、千駄木二丁目の小笠原秀政、西片一丁目・二丁目の阿部正次、本駒込閲丁目・二丁目の土井利勝の三カ所が記されている[5]。六義園の土地は、当時は武蔵野に繋がる広々とした「原野(原っぱ)」地帯で[5]、樹林と豊富な水量に恵まれた、作庭には適した所だった[6]。 『本郷区史』[7]には、寛永5年(1628年)、将軍家の鷹狩りの場として、江戸近郊に52カ村が指定され、雑司ヶ谷、本郷、小石川村などが鷹狩場となっていたと記されている[5]。
江戸が政治の中心となり、人が増加し住まいが必要となり、街も徐々に外周へと発展していった[5]。また、明暦3年(1657年)に発生した本郷を火元とする大火「振袖火事」である、死者10万7千人と言われている[5]。天和2年(1682年)に発生した「お七火事」は江戸の街を焼き尽くした[5]。だが、その火災の毎に街並みが整理され、武家屋敷も外周へと広がっていき[5]、神社仏閣などもそれに習って移転した[5]。江戸の街は発展を続け、街は商人が台頭することになる[5]。江戸の街は、五代将軍徳川綱吉の時代となった[5]。
五代将軍綱吉の家臣柳沢出羽守保明[6](後の柳沢吉保)は、元禄8年(1695年)4月22日、松平加賀守の上屋敷[7]であった染井村の約45,862坪四万五千八百六十二坪の土地を幕府より拝領した[8]。元禄文化のさなかにあって吉保は、「別荘庭園」として活用することを考えた[8]。これまでの平安時代の「寝殿造の庭」、室町時代の「書院造の庭」、また禅宗の「枯山水の庭」とは違った江戸時代の「廻遊式築山泉水庭園」であった[8]。それは、保明の文芸趣向に基づいた、本郷台地の広大な平坦な土地に、山を築き、池を掘り、流れを引き、紀州の和歌の浦の景勝を写し[8]、また、『万葉集』や『古今和歌集』より名勝を取り出し、八十八境を写しだすことだった[8]。その庭園の名を「六義園」と名付け、「むくさのその」と呼び、館を「六義館」、「むくさのたち」と称した[8]。六義は詩経に由来する[9]。六義とは詩道の基本とする六つの体で、「賦(ふ) 感想を述べたもの」「比(ひ) 例をとり感想を述べたもの」「興(こう) 外物にふれ感想を述べたもの」「風(ふう) 民間で行われる歌謡」「雅(が) 朝廷でうたわれる雅正の詞藻」「頌(しょう) 宗廟頌徳の詞藻」をいう[8]。
柳沢保明が八十八に拘ったのは、八が八雲に通じ、八雲の道すなわち和歌の道を表し、八十八の数が未来永劫を意味する[6]。
1.遊芸門、2.見山石、3.詩源石、4.心泉、5.心橋、6.玉藻礒、7.風雅松、8.心種松、9.古風松、10.詩林松、11.掛名松、12.夕日岡、13.出汐湊、14.妹山、15.背山、16.玉笹、17.常盤、18.堅盤、19.鶺鴒石、20.詩花石、21.浮宝石、22.臥龍石、23.裾野梅、24.紀川、25.詠和歌石、26.片男波、27.仙离橋、28.芦葉、29.名古山、30.新玉松、31.兼言道、32.藐姑射山、33.事問松、34.過勝峯、35.藤浪橋、36.宿月湾、37.渡月橋、38.和歌松原、39.老ヶ峯、40.千年坂、41.朧の岡、42.紀川上、43.朝陽岩、44.水分石、45.枕流洞、46.拾玉渚、47.紀路遠山、48.白鳥関、49.下折峯、50.尋芳径、51.吟花亭、52.峯花園、53.衣手岡、54.掛雲峯、55.指南岡、56.千鳥橋、57.時雨岡、58.覧古石、59.妹松、60.背松、61.亀浮橋、62.霞入江、63.吹上浜、64.吹上松、65.吹上小野、66.吹上峯、67.木枯峯、68.霞渟坂、69.雲香梅、70.桜波石、71.浪花石、72.白鷗橋、73.藻塩木道、74.藤代峠、75.擲筆松、76.能見石、77.布引松、78.不知汐路、79.座禅石、80.万世岡、81.水香江、82.花垣山、83.篠下道、84.芙蓉橋、85.山陰橋、86.剡渓流、87.蛛道、88.藤里(2023年4月現在、残存未確認)
六義園の作庭が何時始められたかの記録はないが、幕府から拝領された頃と言われている[8]。そして、完成したのは元禄15年(1702年)10月21日とされている[8]。保明は、7年の歳月をかけ江戸屈指の大庭園を造った[8]。この間の江戸の世相は「元禄泰平」と言われながら穏やかではなかった、色々な事件が起きた[8]。市民生活は浪費が進み、貨幣改鋳が行われ、元禄9年(1696年)には、江戸を中心に大震災が発生し、保明領地の川越では2度にわたる大風水害に見舞われた[8]。保明は政務多忙の日々を過ごし、作庭工事の報告をうけ、図面を広げて指図して、造園の材料や奇岩や珍樹の寄付を受けたりなど、全て連絡係を使って工事を進めた[8]。元禄14年(1701年)、保明は、綱吉から松平の姓と綱吉の「吉」の一字を与えられ、松平美濃守吉保と改名した[6]。宝永の時代に入り、綱吉から将軍家宣に変わり、それまでの功績により吉保は3万9千石を加禄され、15万1千2百石の大名となった[8]。そして、宝永2年(1705年)、武蔵川越城主柳沢美濃守吉保となった[7]。
宝永6年(1709年)1月10日、第5代将軍綱吉は、はやり病のため64歳で生涯をとじ、吉保夫妻が本邸から六義園に移った[8]。同年5月、第6代将軍家宣に引き継がれるや、吉保は長男吉里に家督を譲り第一線から引退し、六義園の当主となった[8]。正徳2年(1712年)10月14日、将軍家宣が僅か在位3年足らずで他界し、翌3年4月2日、第7代将軍家継と引き継がれた[8]。その年の9月5日、吉保夫人の定子が風土病にかかり六義園で亡くなり、その1年後の正徳4年(1714年)11月2日、吉保が57歳で六義園において亡くなった[8]。吉保夫妻は、甲府の永慶寺に葬られたが、吉里により、現在の山梨県塩山市にある武田家の墓所であり、柳沢家の菩提所とした乾徳山恵林寺に改葬した[8]。
吉保に変わり当主となった吉里は、享保9年(1724年)、大和国の郡山藩へ移封されたことから、六義園の利用は盛んではなかったが、庭園の手入れは行き届いていた[11]。庭園は3代当主信鴻の代までは、少なくても完成当時の姿を保っていた[11]。寛政4年(1792年)3月、信鴻が亡くなって以後、庭園の利用はほとんどなく、それから文化6年(1809年)までの約20年間にわたり荒廃するにまかせ、庭園は完成時の姿を残さぬほどだった[11]。4代当主保光は、文化6年(1809年)、家臣に命じて六義園の復旧工事を計画し、1年間をかけて園内の整備工事を行った、要した費用は多大であっという[11]。この工事において、名勝の碑文柱である八十八境を復旧したが、大方が消失しており、53カ所の石柱が復旧された[11]。
第15代将軍徳川慶喜による大政奉還によって、260有余年におよぶ江戸時代は幕がおろされた[12]。六義園の当主も7代保申の代となり、明治新政府に移り173年間にわたる柳沢家別邸も終わった[12]。その後、明治11年(1874年)に、土佐藩浪士の子である岩崎弥太郎が、六義園を買収し岩崎家の別邸として、昭和13年(1938年)、東京市に寄贈するまでの60年間を過ごした[12]。岩崎家は、明治7年(1874年)9月、上京し、現在の文京区湯島四丁目に住まいを構えた、六義園とは目と鼻の先の所に住んでいた[12]。弥太郎が六義園を買収したいきさつは、岩崎家の伝記である『岩崎久弥伝』(久弥は弥太郎の長男)に記されている[12]。弥太郎は「俺は板橋辺まで買い、国家の役に立つことをやってみるつもりだ」と言って、広大な土地を手に入れた[12]。
当時の六義園は、次第に荒廃が進む一方だった[12]。弥太郎は明治11年(1878年)、清澄庭園を手に入れ、さらに、隣接する藤堂家・安藤家・前田家などの邸地を併せて12万坪の広大な土地を手に入れた[12]。その後の六義園は、弥太郎が亡くなり、弥之助(弥太郎の弟)が明治19年(1886年)に、庭園の復旧工事を進め、下総の山林から樹木を移植し[12]、各地から庭石を集め[12]、池には千川上水から水を注ぎ[7]、完成時の景観を復元した[12]。
その後は長男久弥の代となり、本邸になっていた時期があったが、庭園部分だけを残し売却された[12]。現在の六義園の東側一帯を東洋文庫と理研などに、西側一帯を大和郷住宅地に、北側一帯は国電山手線と駒込駅にである[12]。山手線の布設のために約3万坪を売却した[12]。岩崎家の別邸であるから、静かに使われていたが、特筆すべきは、明治38年(1905年)10月、日露戦争後に凱旋した連合艦隊司令官東郷平八郎大将ほか将兵6千人を、岩崎家が招待して六義園を会場の中心とした戦勝祝賀会を催したのである[12]。
当主岩崎久弥は昭和13年(1938年)4月27日、東京市公園課の井上清の考えである都市の緑の重要性に感銘し、六義園を永久保存することと、一般市民に公開することを決意し東京市に寄贈した[12]。昭和15年(1940年)、史蹟名勝天然紀念物保存法に基づき名勝に指定され、 法制度に基づく保存管理が始まった[13]。その後、戦争により被災したが復旧された[13]。昭和20年(1945年)4月14日、太平洋戦争によって吹上の茶屋(熱海の茶屋)、つつじの茶屋だけ残し、心泉亭(桃の茶屋)、滝見の茶屋、吟花亭、蘆辺の茶屋などを焼失したが、庭木の被害はほとんどなかった[6]。昭和31年(1956年)11月29日、吹上の茶屋が出火により焼失した[6]。昭和28年(1953年)、江戸に造られた庭園の中でも特に優れている[13]として文化財保護法に基づき特別名勝に指定された[4]。
元禄末年頃、狩野派が描いたと伝わる古図「柳沢候六義園全図[2]」と現在の庭園の状況を細部を除いて比較すると、最も著しい違いは池が東と西の二カ所存在したが、現在は東の一カ所だけである[6]。この事から、現在の六義園は創設時代の庭園規模の約三分の一が縮小されているが、現在の主要部分は保存されている[6]。
六義園の見どころは、庭園入口近くにある3月末に満開を迎える大きなしだれ桜、春から夏頃にかけ園内は華が咲き誇り色彩豊かな景色を楽しめる。この枝垂桜の満開期と紅葉の最盛期にはライトアップがされる。秋は紅葉、春は桜と、四季折々の変化を楽しめ、冬場は雪に備えた雪吊りと変化を楽しめる。躑躅の花が有名で、地元では「駒込と言えばツツジの花の咲く街」と謳われる象徴的な存在となっている。庭園に歩を進めると出汐湊に出る、広い園内の中で最も展望に恵まれた場所の一つである。大きな池の対岸には造形された島々が広がり、都心とは思えない風情ある景色を楽しむことが出来る。
桜と紅葉の見ごろに合わせて日没後のライトアップが行われ、開園時間が延長される。庭園にふさわしい魅力あるライトアップで定評がある。
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