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荻 昌弘(おぎ まさひろ、1925年〈大正14年〉8月25日 - 1988年〈昭和63年〉7月2日)は、日本の映画評論家、料理研究家、オーディオ評論家、旅行評論家。
月曜ロードショーの解説者を長年務め、その落ち着いた語り口から[1]、淀川長治、水野晴郎と並んで名解説者として知られた。身長165cm、体重69kg[2]。
東京府東京市小石川区大塚仲町(現:東京都文京区大塚)に生まれ育つ。男4人、女1人のきょうだいの長男[3]。「荻家はもともと裕福であって、ビンボーには向いていない。荻さんがグルメ評論やオーディオ評論を始めたのは、好きだからであり、こうした多趣味は荻家の兄弟に共通している」と、荻家と古い交際があった小林信彦は書いている[4]。東京府女子師範学校附属幼稚園(現:東京学芸大学附属幼稚園竹早園舎)を経て、1932年4月、東京府女子師範学校附属小学校(現:東京学芸大学附属竹早小学校)に入学[5](当時の同級に椿實、岡田孝男がいる)。
物心つく前から映画を愛し、浅草で35ミリの名作映画のフィルムの断片を買い、映写機で壁に映し出して喜んでいた[6]。小学校時代には榎本健一やジョニー・ワイズミュラーや大河内傳次郎に夢中になり、学校からの帰りには映画館のポスターを一字残らず暗記して帰るほどだったが[6]、職業軍人である父からは映画鑑賞を厳禁され、古本屋で買ってきたスター名鑑を庭に叩きつけられた上「家を出てゆけ」と言われたこともある[7]。
第一志望の国立、第二志望の東京府立に落ちて旧制開成中学校に入学。この第三志望の学校の中でも自分より成績のいい生徒が大勢いたため、荻は二重の屈辱感を持ったが、学校で開かれたマラソンの参加体験を「疲れた疲れた」と題して作文に書いたところ、作文教師の安村正哉からこれを大変ほめられて劣等感を癒され、それが文筆業に進む出発点となったという[8]。同校在学中は単独で映画館に出入りすることを学校から禁じられていたため、隠れて『オーケストラの少女』『格子なき牢獄』『巴里祭』『望郷』『未完成交響楽』『舞踏会の手帖』『駅馬車』などの洋画に熱中した。[7]。
1943年(昭和18年)開成中学校卒業。高校入試に失敗し、開成中学校からの推薦により、二松學舍専門学校(現:二松學舍大学)に無試験入学[9]。しかし1年生の2学期からは戦争が盛んになったため授業がなくなり、赤羽の化学工場に勤労動員され、工員として肥料作りを担当[10]。
当時、二松學舍の教員の中でただ一人赤羽の化学工場に来て15分間の小休止時間に『源氏物語』『たけくらべ』などの古典の話をしてくれたのが国文学者の塩田良平(のちの二松学舎大学学長)だった[11]。この化学工場における塩田の小講義を、荻は後年「私が受けた学校教育の中でいちばん強い思い出」[12]と回想している。
一方、二松學舍の歴史教師には当時ひたすら皇国史観を唱える者がおり、この教師は戦後有名な歴史学者となったが、戦時中と打って変わって唯物論による人民史観を提唱するようになったため、荻は「こういう生き方だけはしたくない」「私にとっての反面教師はその先生一人」「時代の流れでこんなふうに自分を変える生き方だけはしたくない」と、後年発言している[13]。当初は国語教師を志望しており、教員免状も取得したという[6]。
1944年(昭和19年)夏、徴兵検査で第2乙と判定され、小石川区役所から「筋骨薄弱でお国の役に立つかっ」と怒鳴られて強制的に熱海の健民修錬所という合宿に送られ、毎朝5時から夜まで1ヶ月間のしごきを受ける[14]。1945年(昭和20年)春に召集令状を受け、同年5月15日、第二乙の陸軍二等兵として博多の東公園に集合[10]。
この間、4月13日の城北大空襲で大塚の実家が焼失[10]。本籍地が熊本だったため九州の西部243部隊に入り、壱岐で伝令として活動しつつ『十八史略』『北越雪譜』を読む[10]。この部隊には老兵が多かったため、軍隊にありがちな新兵いじめは免れたという[10]。
二等兵として復員後、1946年(昭和21年)東京帝国大学文学部国文学科に入学。同じゼミに三浦朱門がいた。同年夏、友人2人と京都に伊丹万作の遺族を訪ねたが、土産に持参した羊羹がかびていたことに後で気付き、肝を潰したという[15]。
このころ、黒澤明の『わが青春に悔なし』にエキストラ出演[6]。「大河内伝次郎扮する教授が、戦争前の京都大学でお別れの講義をする。それを聞いている学生の中に、ぼくが一人で映っているのです」と、後年語っている[6][16]。
大学在学中から中平康や渡辺祐介たちと「東大映画文化研究会」を結成し、映画評論家志望を宣言。当時、友人の三浦朱門や阪田寛夫は映画監督を志望して映研への入部を望んだが、荻が「ああ、いいよ。だけど、入るときは試験をするぞ」と答えたため腹を立て、映画監督志望を断念したという[17]。また、同じ頃、友人の佐々克明の自宅で東大在学中の吉行淳之介と知り合ったが、荻は作家としての吉行エイスケを尊敬していたため、遺児の淳之介に強い印象を受けた[18]。
映画批評家としては飯島正、清水千代太、清水晶、登川直樹、双葉十三郎に師事[19]。
1948年の『映画評論』に「論壇時評」を書くなど、大学時代から映画評論の仕事を開始[20]。1951年(昭和26年)、新制東京大学卒業。卒論は「近代日本の劇文学」[21]。
大学卒業後はキネマ旬報社に入社。『キネマ旬報』同人や『映画旬刊』(雄鶏社)編集委員を務めた。雄鶏社時代は、別の映画雑誌の編集部に向田邦子がいた。
『映画旬刊』廃刊に伴い、1956年(昭和31年)6月からフリーになり[22]、KRテレビ(後のTBSテレビ)『映画の窓』でレギュラー司会者として映画解説を担当。日本の映画評論家でテレビのレギュラー番組を持ったのは、荻が最初であった[23]。
『週刊朝日』では映画評を8年間連載。1957年、勅使河原宏、松山善三、羽仁進、草壁久四郎、川頭義郎、丸尾定、武者小路侃三郎、向坂隆一郎と「シネマ57」を結成し、短篇映画『東京1958』の共同製作に参加。1958年、文部省芸術祭テレビ部門審査委員となる。
1962年、NHK演出審議会委員に就任。この当時までの荻昌弘について、「軽い、というのは、いまならホメ言葉だが、東京オリンピック前は、そうではなかった。荻さんは、<軽すぎる>と見られ、二十代のころのぼく、そう見ていた」と小林信彦は証言している[24]。
1970年(昭和45年)4月から1987年(昭和62年)9月までTBSテレビ『月曜ロードショー』の初代解説者を務め、同番組終了後、1987年10月から同局の火曜日の『ザ・ロードショー』の解説者を務め、没年の5月に体調不良で休むまで続けた。落ち着いた雰囲気で視聴者に語りかけるスタイル、そして映画が始まる前はストーリーには極力触れず、出演者やスタッフにまつわる話に絞った解説はおしなべて好評であった。
東京都立大学で非常勤講師として映画を講義した他、食通としても知られ[25]、さつま揚げやコンビーフやはんぺんなどを自宅で自製し、「男の料理」の先駆者でもあり、その方面の著書も多い。ただし当人は食通と呼ばれることを嫌い、「『食通』とは、最もなりたくない、最も嫌悪し最も自戒するタブーの領域である」と発言し[26]、「食いしん坊」「食魔」という言葉を好んだ。
「せっかく自由業なんだから、いろいろと視点を変えて住んでみるということも必要なんじゃないか」という理由から、東京大塚の自宅の他、自宅近くのマンションに映画の原稿専用の仕事部屋を持ち、さらに映画の雑誌とチラシだけを置く空間として家を借り、東京以外では長野県北佐久郡軽井沢町と京都市と大分県杵築市に仕事場を持った。
一時期苗字に因み大分県直入郡荻町(現:竹田市)に別荘を所有し、日本各地の食文化と人情を研究していた[27]。
長年日本レコード大賞の審査員を務めたが、関係者からの贈答品を受け取らないことで有名だった。また、試写会で見逃した作品を映画館で観るときは映画館の受付が顔パスで通してくれようとすることが多いが、「金を払って見ないと、1300円(当時)払ってその映画を見る人の気持はわからない」との理由から入場料を払って観ていた[6]。
1980年から1983年まで横溝正史大賞選考委員を務める。なお、1973年(昭和48年)の日活ロマンポルノ裁判では映倫側証人として東京地裁で証言している。1977年6月1日には渋谷公会堂で開かれた「革新自由連合マニフェスト77」に企画委員会メンバーとして携わった。
FM東京「オンキヨー・ダイナミック・サウンド」などのラジオ番組のDJやテレビの司会、旅番組のレポーターとしても活動。
かつて毎年4月21日に放送されていた放送広告の日(現:民放の日)特番では、毎年司会を務めていた。そのためか、テレビで放送されたCBCラジオ開局35周年特番でも司会を務めていた。
1982年(昭和57年)5月から1987年(昭和62年)9月までTBS系列『そこが知りたい』の初代司会者を務めた。
同年秋、人間ドックで痛風から来る肝機能障害[28]と診断される。その後治療を受けながら仕事を続けたが、1988年(昭和63年)春から体調を崩し入院、同年7月2日8時56分、肝不全により順天堂病院で死去。62歳没。墓は西日暮里の本行寺にある。
没後、蔵書類は遺族から京都文化博物館に寄贈され、「荻昌弘文庫」として保存されている。
家系図によれば、先祖は加藤清正の家臣を務め、のち細川家に仕えた。初代荻又兵衛の次の世代で分家し、昌弘は本家筋の十二代目に当たる。
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