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福岡県(筑前国)の郡 ウィキペディアから
人口233,533人、面積164.64km²、人口密度1,418人/km²。(2024年10月1日、推計人口)
以下の7町を含む。
郡名の由来は不明だが、その歴史は古く、京都の妙心寺の国宝梵鐘には「戊戌年四月十三日壬寅収糟屋評造舂米連廣國鋳鍾」という銘があり、戊戌年、西暦698年に舂米連広国(つきしねのむらじひろくに)という糟屋評(こおり)の長官であった人物がこの鐘を鋳造させたことが記されている。その後も、『筑前国風土記』(逸文、713)、『日本書紀』(720)、『延喜式』(927)、『和名抄』(931–938)に一貫して「糟屋」という文字で現れる。『日本書紀』に記された磐井の乱の経緯が史実ならば、大和朝廷に筑紫君葛子が糟屋の屯倉を献上したのは528年となる。 『和名抄』によれば10世紀当時糟屋郡には香椎郷(カスヒ)・志阿郷(志珂の誤りか)・厨戸郷・大村郷(オホムラ)・池田郷・阿雲郷(阿曇の誤りか)・柞原郷(クハラ)・勢門郷(セト)・敷梨郷の9郷が存在した[1]。
福岡藩時代およびそれ以前より1889年(明治22年)に町村制が施行されるまでは、糟屋郡北部は裏糟屋郡、南部は表糟屋郡に分けて支配されていた。
郡域南部には粕屋炭田と呼ばれる炭田が広がっており、明治以降石炭産業で栄えたが、1960年代にエネルギー源が石炭から石油へ移行したため郡内の炭鉱はすべて閉山し、人口・産業などの面で衰退した。その後、隣接する福岡市の発展により、ベッドタウンとして人口が増加に転じた。
2005年4月1日、それまで日本の郡の中で最も人口が多かった愛知県海部郡のうち4町村が愛西市として市制施行したことで、日本で一番人口の多い郡となった。粕屋町・志免町・篠栗町は同年までの5年間の人口増加率が県内1 - 3位である。
2007年1月29日、新宮町をのぞく6町の間で「合併研究会事務局」を開設。4月以降に任意合併協議会を発足し、同年12月をめどに法定合併協議会へ移行した。2010年2月の合併を目指してきたが、具体的な話は進んでいない。
明治22年以前 | 明治22年4月1日 | 明治22年 - 昭和19年 | 昭和20年 - 昭和29年 | 昭和30年 - 昭和64年 | 平成1年 - 現在 | 現在 |
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表糟屋郡 | 久原村 | 久原村 | 久原村 | 昭和31年9月30日 久山町 |
久山町 | 久山町 |
山田村 | 山田村 | 山田村 | ||||
篠栗村 | 昭和2年1月1日 町制 |
篠栗町 | 昭和30年4月1日 篠栗町 |
篠栗町 | 篠栗町 | |
勢門村 | 勢門村 | 勢門村 | ||||
仲原村 | 仲原村 | 仲原村 | 昭和32年3月31日 粕屋町 |
粕屋町 | 粕屋町 | |
大川村 | 大川村 | 大川村 | ||||
須恵村 | 須恵村 | 昭和28年4月1日 町制 |
須恵町 | 須恵町 | 須恵町 | |
宇美村 | 大正9年10月20日 町制 |
宇美町 | 宇美町 | 宇美町 | 宇美町 | |
志免村 | 昭和14年2月17日 町制 |
志免町 | 志免町 | 志免町 | 志免町 | |
箱崎町 | 昭和15年12月26日 福岡市に編入 |
福岡市 | 福岡市 | 福岡市 | 福岡市 | |
多々良村 | 多々良村 | 昭和25年4月1日 町制 多々良町 |
昭和30年2月1日 福岡市に編入 | |||
裏糟屋郡 | 香椎村 | 昭和18年2月11日 町制 |
香椎町 | |||
和白村 | 和白村 | 昭和29年11月1日 町制 |
昭和35年8月27日 福岡市に編入 | |||
新宮村 | 新宮村 | 昭和29年11月1日 町制 |
昭和30年4月1日 新宮町 |
新宮町 | 新宮町 | |
立花村 | 立花村 | 立花村 | ||||
席内村 | 昭和13年4月17日 町制改称 古賀町 |
古賀町 | 昭和30年4月1日 古賀町 |
平成9年10月1日 市制 |
古賀市 | |
青柳村 | 青柳村 | 青柳村 | ||||
小野村 | 小野村 | 小野村 | ||||
那珂郡 | 志賀島村 | 志賀島村 | 昭和28年7月5日 町制改称 志賀町 |
昭和46年4月5日 福岡市に編入 |
福岡市 | 福岡市 |
1921年(大正10年)末、米価が暴落し、地主たちが小作人の米の売却を邪魔したことから小作人は困窮し、さらに肥料代や雇人の給料が値上がりしたことから、1922年(大正11年)6月、席内、青柳、小野、立花、新宮の5か村の小作人約1000名が小作人組合を結成し、各村の地主に対して小作料の軽減を要求、地主側も団結してこれを拒絶すると、小作人組合は「小作料を値下げするまで耕作せず、これを破った組合員は厳罰に処す」と対抗したため、郡農会や関係村長が仲裁に入り、地主側が要求を飲むに至った[3]。しかし新宮村の大地主・堺豊三郎(1868年生[4])のみが要求を拒絶しつづけたため、小作人は土地30町歩を返還、豊三郎は代わりに天草郡や筑豊から小作人を集めて耕作させようとしたが、結局小作料値下げを飲み、さらに肥料代を援助することにより収束した[3]。
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 明治11年(1878年)11月1日 | |||
大正15年(1926年)6月30日 | 郡役所廃止により、廃官 |
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