- ハマカーンというコンビ名の由来は2人の名字「浜谷(ハマタニ)」と「神田(カンダ)」を組み合わせたものである。結成したばかりの頃は「浜谷神田」の名前でライブに出演し続けていたが、ライブ共演を通じて仲良くなった小野まじめ(クールポコ)にコンビ名を略されて「ハマカンちゃん」とよく言われていたことから、これを採用。なお「カーン」と伸ばしたのはその場ノリだったという。
- 前述の様に二人とも柔道をやっており、両者とも黒帯所有者。段位は浜谷が2段で得意技は内股、神田は初段で得意技は谷落。
- このうち浜谷は現在も柔道を継続中(所属先・吉田道場梅丘道場)で2010年第4回吉田道場杯柔道大会で「(当時)35歳以下有段者の部」で3位に入賞。
- 神田は2010年ころより足の靭帯断裂など怪我が相次いだうえ、2011年夏に膝の手術を受けたのを期に柔道をやめた(神田自身のTwitterで公表)。
- 上述にもあるように「姉弟で事務所が違うことへの配慮」「実力で売れて生きたい」などの理由から、神田はかつてはうのの弟であることをあまりアピールしておらず、弟だからという理由で来たインタビュー依頼を断ったこともある。しかし、姉の結婚発表時や結婚式の時期に日刊ゲンダイや各局のワイドショーで取り上げられたりコメントを求められてからは、姉がプロデュースしたパンストをハンカチのかわりに使ってみせたり、「うので〜す」と発言したり、「お姉ちゃ〜ん見てる?」と画面に手を振るなど、徐々にネタにするようになってきた。
- その様なことや、ほぼ同期で同じ事務所のオードリー、どきどきキャンプが売れ出したため、しばしば「バーター芸人です」と自虐的に述べている。また「『顔もそれなりに良くて、頭も良くて、ネタも面白いから次来る』と言われて9年経ってしまった」とも言っている。
- 似た境遇の伊藤俊介(オズワルド)に、神田は「どうせバレるし、言っておいて損はない。」とアドバイスしている[30]。
- 浜谷は間違えてクレアラシルの洗顔料で歯を磨こうとした事がある。また、神田は縁日での女子トイレの行列を屋台と思って並んでしまったり、「テイクアウト」を「テイクオフ」と言ってしまったりした事があるなど、お互い天然ボケを思わせる逸話がある[31]。
- 浜谷は、うのが結婚した際、祝儀として10万円を納めた。すると神田姉弟の父親から「莫大な財産を頂いてしまって、大丈夫ですか?」と心配された[32]。
- その翌年のお正月に、うのがお年玉と称して浜谷に7万円を戻してくれた。その際「浜ちゃんお祝いありがとう。でも10万円も頂くのは申し訳なくて全額お返ししようと思ったんだけど、それはあまりに失礼だと母に窘められたから3万円だけ頂いて残りはお返しするね」と浜谷本人に言ったという。それに対して弟の神田は「姉ちゃんそういうところあるんだよ」と仕方ないといった風にフォローしていた[27]。
- うのはハマカーンのライブに美川憲一と来たことがある。ハマカーンのライブなので自分は目立っちゃいけないと大きな帽子をかぶり顔を隠していたが、その少女漫画に出てくるような帽子が大きすぎて逆に目立ってしまった[33]。
- 『THE MANZAI 2012』優勝直後に明かしたところによると、前年の2011では優勝を意識する余り決勝で緊張がとれず、本来の演技ができなかった。2012では、これを心配した東貴博(Take2)が緊張をほぐすため決勝前夜に二人を呼び、前祝いと称して飲み明かしたのが功を奏した。また神田は優勝が決まった際に感極まって泣きながらその場にしゃがみ込み、司会を務めたナインティナインから「女の子みたい」と突っ込まれていた。
- 2013年3月30日の『オールスター感謝祭'13春』(TBSテレビ)で、浜谷は武井壮に勝ち、ロッククライマーで優勝し20万円を獲得した。
- 2014年3月28日から2年間、母校の東京農工大学の広報大使に就任[35]。
- 2014年10月8日放送の『リンカーン』(TBSテレビ)で、浜谷が障害物競走でぶっちぎりの1位でゴールし、浜田組が無傷の3連勝となった。だが、実は平均台から落下していたことが判明し、失格になった。テントに戻った後、浜谷はたむらけんじ・木下隆行(TKO)同様、正座してビンタされた(たむらと木下は4位(参加者が4人だったため、つまりは最下位)、浜谷はやり直すの忘れた(落下を誤魔化そうとした)。)。
- 2016年1月に発覚したベッキーとindigo la End、川谷絵音(ゲスの極み乙女。)のの不倫疑惑騒動の余波で、浜谷は「元祖ゲスの極み」と称するようになった[36]。因みに、奇しくもハマカーンと川谷、休日課長(「ゲスの極み乙女。」メンバー)の4人は同じく東京農工大学出身者である。
爆笑オンエアバトル
『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)では2002年度から2008年度まで長きに渡って出場。当番組を代表する常連コンビであり、出場当初から常に安定した成績を残し活躍した。
- 初出場は2003年2月22日放送回(愛知県名古屋市収録)で、この時は413KB[37]を記録したものの6位敗退となる。因みにハマカーンがオフエアとなったのはこの回と2004年11月27日放送回(北海道北見市収録)の2回のみであるが、北見市収録の際も417KBを記録しながら7位敗退となっている。このため番組においては珍しい「全ての敗戦回が地方収録で400KB超え」となっている。
- 初オンエアは2回目の挑戦となった2003年4月25日放送回で、385KBを記録し5位通過。初期はKBが低めだったが、同年9月19日放送回の大阪収録で489KBを記録した事をきっかけに高得点を連発し、同年11月14日放送回(香川県収録)には自身初となるオーバー500(509KB)及びトップ通過を記録した。この勢いで第6回チャンピオン大会にて初出場を果たしたが、結果はセミファイナルで438KBしか獲得できず9位敗退に終わる。
- 2004年度は先述の通り1度オフエアを喫したものの、オンエアを勝ち取った全ての回において450KB以上(うち1回はオーバー500)を記録し、2年連続でチャンピオン大会に出場を果たす。更に自身初のファイナル進出も果たしたが、最終的な結果は642KBで9位敗退となる。なお、2005年1月1日放送回(本年度最後の出場回)から2007年11月9日放送回まで12戦連続オーバー450KB以上を記録(歴代2位)[注 2] していた。
- 2005年度も前年と同様に安定した成績を残し、危なげなく3年連続でチャンピオン大会に出場し、2年連続でファイナルにも進出する。ファイナルでは2位(894KB)敗退に終わり、タカアンドトシ(942KB)の連覇を阻む事は出来なかった。因みにこの年にチャンピオンとなっていれば、番組史上初めて2000年以降に結成したコンビのチャンピオンの誕生となっていった。
- 2006年度は出場した回全てにおいて470KB以上を記録するという驚異的な安定感を見せつけ、4年連続でチャンピオン大会出場を果たした。3年連続でファイナルにも進出したが、8位(834KB)[注 3] 敗退に終わった。ファイナルではNON STYLEが2000年以降に結成したコンビで初のチャンピオンとなり、先を越されてしまった。因みに今大会終了後に「ゴールドバトラー」に認定されている。
- 2007年度は更に安定感に磨きがかかり、5月18日放送回から11月9日放送回まで3戦連続で480KB以上を記録(うち2回はオーバー500)し、更に全てにおいてトップ通過を果たすという絶好調ぶりであった。ところが2008年2月15日放送回において、まさかの自己最低KBとなる361KB(5位通過)を記録してしまい、2005年1月1日放送回から続いていた「連続オーバー450KB以上」の記録が12でストップしてしまったが、この年の年間ランキングには2度オーバー500を記録していたおかげで16位に入り、何とかチャンピオン大会に出場したが、チャンピオン大会においても4大会ぶりにセミファイナルで敗退(690KB・8位)となってしまうなど、序盤から中盤までの好調から一転して終盤では苦汁を舐めた年となってしまった。
- 2008年度は4月17日放送回に出場予定だったが、ハマカーンのネタ中に番組スタッフのミスでネタが終了する合図となる音声を流すという想定外のハプニングが起きてしまったため審査対象外となり、ハマカーンのみ審査及び計量は行われなかった[注 4](そのため、この回は戦績には含まれずノーカウントとなった)。神田は自身のブログでこのことについて「ぶつけることの出来ない怒りと悔しさでいっぱい」「誰も悪くない。僕らの運が悪かっただけ」[38] などと嘆いていた。因みにこの回で披露したネタは出場22回目で初となるコントであった。その後、5月22日放送回にてこのネタで再戦しオンエア(389KB・4位)を果たした。同時に番組内で初めてコントでのオンエアとなった。この年は先述の2月に自己最低KBを記録した事も影響していたのか、中盤まで連勝は重ねていたもののKB数が伸び悩んでいた。しかし12月4日放送回に481KBを記録し、4戦振りにトップ通過及び450KB以上を記録すると、2009年1月15日放送回でも497KBを記録して高得点を連発し、徐々に調子を取り戻していった。この年の年間合計KBランキングでは21位となっており、本来ならばチャンピオン大会出場圏外であったが、この年のランキング上位に位置していたオードリーとイワイガワがスケジュールの都合でチャンピオン大会出場を辞退したため、年間ランキング22位の上々軍団と共に繰り上げ出場となった。最終的にファイナルまで進出[注 5] したものの、5位(786KB)敗退に終わった。2009年度以降は出場していないため、ハマカーンはこの年で事実上の「オンバト」卒業となった。
- 通算オンエア回数23回は江戸むらさきと並んで2番目に多い記録となっている[注 6]。
- チャンピオン大会には6回出場しており、これはアンタッチャブル、トータルテンボスと並んで番組タイ記録となっている。また、同大会の連続出場記録もトータルテンボスと並んで番組タイ記録を保持している[注 7]。
- 東京収録では無類の強さを発揮しており、1度も敗戦を経験した事が無かった(先述の通り、2度の敗戦は地方収録によるもの)。因みに通算20勝以上している芸人の中で東京収録で敗退経験が無いのはハマカーンと流れ星☆の2組のみ[注 8] である。
- 通常回では1度も300KB台より下(100~200KB台)は記録した事が無かったが、2006年1月9日放送の「爆笑オンエアバトル 成人の日スペシャル」内で行われた即興ネタバトル企画[注 9] に挑戦した際に218KBを記録[注 10] しオフエアとなってしまった事がある[39]。
- 因みに神田は『爆笑オンエアバトル』を見ていて、触発された事がお笑いを始めるきっかけとなったと番組の公式本で語った事がある。その後、浜谷を誘ってコンビ結成するも浜谷は元々お笑いには興味が無く、お笑いを全てコントだと思っていたとの事[40]。
THE MANZAI
THE MANZAIでは第1回(2011年大会)・第2回(2012年大会)の2度認定漫才師に選ばれ、2年連続で決勝に進出。第2回では優勝を果たした。
- 第1回(2011年大会)
- 各本戦サーキットでは計29点(1回目:20点、2回目:9点)を獲得し、サーキットランキングを3位で通過し決勝に進出。決勝1回戦ではBグループに振り分けられ、4番目にネタを披露した。国民ワラテンではHi-Hiの75点に次ぐ74点を記録したものの、プロ審査員の投票が渡辺正行の1票しか入らず、Bグループ最下位に終わってしまった。奇しくもBグループからファイナルラウンドに進出したのは、ハマカーンと同じくケイダッシュステージ所属の先輩にあたるHi-Hiであった[注 11]。また、今大会ではこのグループのみ4組全てに得票があった。
- この年に披露した漫才は上述の項目にもあるように「神田が行う様々な当たり障りの無い普通の行為に対して、浜谷が物騒な例えで大げさに否定する」というスタイルのネタであった。因みに2人は翌年のTHE MANZAI 2012優勝後のインタビューにて、このスタイルについて「(それまでの漫才コントから、このスタイルの漫才に形を変えて)自分たちの漫才の形ができたと思ったんです。でも、その武器を持って去年の『THE MANZAI』に出たら、全く斬れない刀だったっていう(笑)。(神田)」「最初のひと振りでパキーンと折れちゃって(笑)。『ダメだこの刀は! ふざけんな!』って、その時に刀も甲冑も全部投げ捨てたんです。(浜谷)」[41] などと語っていた。今一つの結果に終わったものの、この敗退が漫才スタイルの変更へのきっかけとなり、翌年の優勝へと繋がる事となる。
- 第2回(2012年大会)
- 各本戦サーキットでは計30点(1回目:14点、2回目:16点)を獲得し、サーキットランキングを5位で通過し2年連続で決勝に進出。決勝1回戦ではAグループに振り分けられ、3番目にネタを披露した。結果はプロ審査員から9票中4票獲得し、初のファイナルラウンド進出を果たした。その後、ファイナルラウンドではプロ審査員から9票中8票[注 12] 獲得し、圧倒的な大差をつけてほぼ満場一致で優勝を果たした。なお、お笑いの大型賞レース(M-1・THE MANZAI・キングオブコント・R-1など)でケイダッシュステージ所属の芸人が優勝したのはハマカーンが史上初であった。また、同大会の歴代王者の中で、唯一よしもとクリエイティブ・エージェンシー以外の事務所に所属するコンビとなっている。
- 今大会は前年のスタイルから一転してボケ・ツッコミを逆転[注 13] し、上述にもあるように「神田の女子的目線から放たれるウザい意見に浜谷が感情的に突っ込み、それに対して神田が奇妙に理論的な理屈でやりこめて浜谷が思わず反省してしまう」というスタイルのネタで挑んだ事が功を奏した。このスタイルが出来たのは、昨年の第1回大会終了後、年が明けた後に浜谷が神田に対して「もうあなたは何にも考えなくていいよ。普段考えていることをペラペラ話してください」と言ったことが発端だったという[41]。更に2人はこの漫才スタイルについて「かどっこに追い込まれて、『どうしよう』と思っていたらちょっと隙間があったからスッと入ってみたんですよ。そしたら『THE MANZAI』で優勝できたっていう感じなんです(笑)。(浜谷)」「テレビでこのネタをやっても、まず『お前ら誰だよ』が先にあるだろうなって。だから、こんな漫才が通じるわけがないと思ってました。『お前らの漫才、進化したな』って言ってくれる方もいたんですけど、進化でもなんでもないですから(笑)。(神田)」「そうなんですよ。進化じゃなくて、退化なんです。もともとの“神田さん”に戻っただけなんですよ。13年かけてツッコミという技術を学んできて、ネタを作る技術を学んできて、13年目に全部捨てたんです(笑)。(浜谷)」「スタイルを変えたっていう意識もなかったですからね。月1、2本の新ネタを作っていたら、徐々に僕がツッコまないで浜谷さんがツッコむ要素が増えていったっていう感じで。(神田)」などと語っており、悩みに悩みぬいて閃いたのではなく、偶然の産物であったことを告白している[41]。
- しかし、浜谷は記者からの「お2人が優勝された後、記者の方たちは「どっちがボケでどっちがツッコミって書けばいいの?」と、ちょっと混乱しているようでしたが(笑)」という質問に対しては「ああ、それはうれしいなぁ…。そんな漫才ができたら理想的だなと思っていたことがあったんですよね」としみじみと語っていた[41]。
- 第2回大会で審査員を務めた大竹まことは、ハマカーンとは自身のラジオ番組で共演するなど親交があり、本番前には2人に対して「情けは一切かけないよ」と厳しい姿勢を見せていたが、大会終了後に放送された自身のラジオ番組では「ハマカーンが一番面白かったんだよ!」と声を震わせるなど手放しで褒め称えていた。その理由を大竹は「他のネタは、話の流れからどう笑いを取っていくか分かるのだが、ハマカーンのネタは(観客を)どこ連れて行っていくのか、思いもよらない展開のおもしろさがあった」と説明しており、大絶賛していた。また、神田のフリに対しては「キャラに合った無理のない等身大のフリで、実に的確だった」「よっぽど鍛えたのであろう」とも語り、こちらも高く評価していた[42]。
- 大会最高顧問のビートたけしは今大会のハマカーンの漫才に対して「3組が(ファイナルラウンドに)出たのはわかる。ただ、ほかの2組がちょっと(ネタの)頭のほうを“とちった”な、と。ネタの選択やテンポを間違えた。こっち(ハマカーン)のテンポが、みんな笑い疲れたときに、いちばん合った。実力的には変わらないけど、現場の雰囲気がハマった、という感じかな」「納得の3組なんだけど、最後(=ファイナルラウンド)のやり方、負けたほうは間違えたんだなぁ、って。決勝前のほうが全然出来がよかった。ちょっと薄かったよね。こっち(ハマカーン)はちょっと上がってた」と評していた[43]。
- お笑い評論家のラリー遠田は今大会でハマカーンが披露した漫才に対し「従来のしゃべくり漫才のスタイルを一段進化させて、独自の型を作り出すことができた」と評している。また、「ハマカーンの漫才で表現されているのは、日常会話のリアリティだ。私たちが普段会話をする時には、一方的にボケ続ける『ボケ役』や、ただつっこむだけの『ツッコミ役』など存在しない。会話の流れによって、主導権を握る人は移り変わっていくし、誰がまともで誰がおかしいのかは決まっていない。1人が妙なことを言うときもあれば、別の人がもっとおかしなことを口走ってしまうこともある。それら全てをひっくるめて、人と人との会話は面白い。ハマカーンは日常会話のスリリングな面白さのエッセンスを抽出して、漫才の形にまとめることに成功した」「いわばそれは、攻撃側と守備側が固定されている『野球』型の漫才ではなく、攻撃側と守備側がめまぐるしく入れ替わる『サッカー』型の漫才だ。どんな体勢からでも笑いが取れるハマカーンの最新型しゃべくり漫才は、漫才の歴史に名を残す極上の逸品だ」などと語り、かなりの高評価を下している[44]。