海驢島
日本の北海道礼文町にある島 ウィキペディアから
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海驢島(とどじま、とどしま)は、北海道礼文郡礼文町(大字船泊村)に属する無人島。名称は「海馬島」や「トド島」とも表記され、またアイヌ語における名称はポンモシリ(Ponmosir)である。礼文島のスコトン岬から北方約1キロメートル沖合に位置する離島であり、白浜の須古頓漁港から直線距離にして約2キロメートル、江戸屋の浜中漁港からは約3キロメートル離れている。利尻礼文サロベツ国立公園に含まれる島であり、20世紀初頭から1980年代にかけては昆布やウニの漁期に限って漁業者が居住していた。高台には海驢島灯台が存在する。
玄武岩の柱状節理が広く見られ沿岸の大部分は海食崖となっており、島の東西は岩礁地帯となっている[注釈 2]。しかし南北には入り江が存在し[注釈 3]、本多勝一は「アゲハチョウのような形」であると表現している[1]。これらの入り江は礫浜となっており、南側には鉄骨構造による全長20メートルの桟橋が存在する[2]。島の中央部は台地となっており、船泊村『村勢要覧 昭和30年度版』では「眠れる
1846年に礼文島を訪れた松浦武四郎の著書『東西蝦夷場所境調書』では、春にトド猟が行われる島であることが地名の由来であるとしている[8]。1876年に礼文島を訪れた佐藤正克は、冬にトド猟が行われる島であるとしている[9]。2014年の時点では島の近海においてトド猟が行われているものの、その多くは漁業被害を防ぐための駆除のみを目的としたものであり、食肉などに利用する者は少数であるという[10]。
また、1990年代からはゴマフアザラシの回遊が確認されており[11]、当初は冬に限定されていたが[12]、2001年2月の北海道新聞には一年中ゴマフアザラシの群れが見られるとある[13]。また、島では海鳥も多く見られ[4]、2015年5月から7月にかけて行われた調査ではウトウの重要な繁殖地となっていることが明らかになった。ほかにウミウやオオセグロカモメの巣も確認されている[14]。なお、礼文島はベニヒカゲが多く生息する島として知られているが、海驢島では生息が確認できないという[15]。
冬季は北西風が強い地域であり定住は困難とされ[16]、20世紀初頭[17]から1980年代[3]にかけては昆布漁やウニ漁を行う漁業者が漁期のみ居住していた。また、アワビが多く採れた時代もあったといい[18]、船泊村編『郷土』に収録された都々逸では「鮑の島」とされている[注釈 5]。元島民の俵静夫によると、最も人口が多かった時期には100人ほどの居住者がいたという[7]。近海は漁場となっており、島の沿岸はアイナメ・カジカ・ハチガラ・ソイ・ホッケの釣り場とされる[19]。かつては観光地として知られており、船泊村『村勢要覧 昭和30年度版』(1955年)では観光名所の一つとしてあげられている。
古くは松前藩の調査記録である『蝦夷巡覧筆記』(1797年)において言及されている。近藤重蔵作「レブンシリ島」図(1807年)において「ホンムシリ」として描かれており[20]、今井八九郎作『礼文島・利尻島図』(1834年)では「トヽシマ」と記されている[21]。1888年に北海道庁水産課によって測量が行われ(『北見国礼文郡神崎村鰊建網場実測図第八号』)、1895年には水路部が測量を行っている[22]。近世から明治初期までの文献においては、礼文島からの距離を約14町[注釈 6]、島の「周廻」は約25町とするものが多い[注釈 7]。
島西部の高台にある灯台。1959年11月27日に開設[23]。白と黒の2色で塗られた灯台である[24][25][4]。1961年に島を訪れた本多勝一は島の「観光的事物」はこの灯台くらいであったと述べており[1]、翌1962年に島を訪れた串田孫一や1997年に島を訪れた本木修次はこの灯台に登っている[24][4]。灯台の壁には2枚のプレートが埋め込まれており、そのうちの一つには「海馬島灯台」とのみあるが、もう一つのプレートには「海驢島灯台 初点 昭和三四年十一月 改築 平成元年十月」と記されている[4]。
海上保安庁水路部による1962年発行の『礼文島及諸分図』では、灯質は3秒に1閃光、灯火標高54メートル、光達距離16海里としている。1972年刊行の『礼文町史』では、灯質「閃紅3秒」、光度1000カンデラ、光達距離13海里としている[23]。1973年には、光源が道内で3番目にアセチレンガス灯から太陽電池点灯に代えられた[26][27]。1995年刊行の『灯台ミニガイド 北海道編』では光達距離を16.5海里とし「単閃白光毎3秒に1閃光」とある[25]。2009年7月21日には光達距離が9海里から7海里に短縮された[28]。
周辺の海域は座礁事故の多発地帯であり、古くはランプが灯台代わりに用いられていたという[29]。船泊郷土民謡研究会が1946年8月に発表した『弥栄節』には「すことん岬の かもめの願ひ 早く灯台 海馬島へ」との一節があり[30]、船泊村編『郷土』(1953年)に収録された都々逸にも「
文化4年(1807年)に西蝦夷地を調査した近藤重蔵の「レブンシリ島」図(東京大学史料編纂所所蔵)では、礼文島北方の小島として「ホンムシリ」を描いている[20]。また、場所請負人の村山直之が文化13年(1816年)2月に書写したとされる『松前蝦夷地島図』(北海道大学附属図書館所蔵)では、礼文島の北北西に位置する小島として「ホンモシリ」を描いている[32]。文政9年(1826年)頃の作と推定される高橋景保の蝦夷図においても、礼文島の北に「ポンモシリ」を描いている[33]。なお、松浦武四郎の著書『再航蝦夷日誌』によると、『蝦夷行程記』という文献にも「ホンモシリ」として記されている[34]。幕領期の記述が見える『蝦夷地名解』(北海道立文書館所蔵)にも、礼文島の北に「ホンモシリと申小島」があるとの記述が見える。
天保5年(1834年)に礼文島を測量した今井八九郎の『礼文島・利尻島図』(東京国立博物館所蔵)では、スコトン岬の北にある小島として「トヽシマ」が描かれている[21]。近代の資料においても片仮名のみで表記されることがあり、北海道庁水産課による1888年の測量図『北見国礼文郡神崎村鰊建網場実測図第八号』(道立文書館所蔵)には「トヾシマ」、礼文島民の茶木傳九郎が1912年に刊行した『礼文』の付図では「トトシマ」、1927年刊行の『船泊村勢一班』の付図では「トドシマ」と表記されており、船泊村の土地台帳においても一貫して「トドシマ」ないしは「トトシマ」と表記されている[3]。
弘化3年(1846年)に礼文島を調査した松浦武四郎の著書『東西蝦夷場所境調書』[8]や、安政5年(1858年)頃の成立と推定される箱館奉行所の役人薮内於菟太郎の著書『蝦夷全地』(北大附属図書館所蔵)所収の地図[35]では、「トヾ島」と表記されている。また、安政年間頃の成立と推定される『江差沖ノ口備付西蝦夷地御場所絵図』の一つ「レフンシリ島」図[36]や、安政2年(1855年)から礼文島の警固を担当した秋田藩の勘定方による『レフンシリ島略図』(利尻町立博物館所蔵)[27]では、「トヽ島」と表記されている。北海道庁が1896年に発行した『北海道地形図』[37]や陸地測量部が1898年に発行した『北海道仮製版五万分一図』にも「トド島」とあり、2010年に礼文町が刊行した『あのとき禮文』[18]や2011年の北海道新聞における記事[12]、2014年の産経新聞における記事[38]のように、近年においても「トド島」という表記が用いられることがある。
現在国土地理院地図などにおいて用いられる海驢島という表記の古い例としては、水路部刊行の『日本北州沿岸諸分図』所収の「礼文島船泊湾」図(1895年測量)がある[22]。1898年11月11日付官報の水路告示第990号にも「礼文島北端ニ位セル海驢島」とあり[39]、同年刊行の『日本水路誌』第5巻においても同様の表記となっている[40]。マイナビニュースの記事では「名前が変わっていることで有名な無人島」の一つとして海驢島があげられている[41]。
しかし漢字表記としては「海馬島」の方が一般的であった。古くは安政4年(1857年)に仙台藩によって作成された『礼憤志理島之図』(仙台市立博物館所蔵)において「海馬島」と表記されている。1875年の書写とされる『北見国礼文郡全図』(北海道立図書館所蔵)においては「海午島」と表記される。佐藤正克の日誌(明治9年7月7日条[9])や開拓使札幌本庁民事局駅逓課の『難破船届録』(道立文書館所蔵)における1880年の「善宝丸」難破に関する資料では一貫して「海馬島」と表記され、茶木傳九郎の著書『礼文』(1912年)や1917年成立の『船泊村沿革史』(北大附属図書館所蔵)においても同様に表記されている。1923年発行の陸地測量部による測量図では「海馬島」とあり[42]、1945年製版の集成20万分1帝国図第4号においても同じ表記が引き継がれている[43]。1972年刊行の『礼文町史』などにおいても「海馬島」という表記が用いられている。
また、島名の発音については、1888年測量の『日本北州沿岸諸分図』所収「礼文島船泊湾」図において"Todo Jima"と記載されており[22]、1953年刊行の船泊村編『郷土』においても「とどじま」とあるほか、『日本地名大事典』[16]や『角川日本地名大辞典』[26]において同様の読みが採用されている。一方1930年に発行された海図[44]や1962年に発行された海上保安庁水路部『礼文島及諸分図』では"Todo Sima"とあり、1978年刊行の『難読地名辞典』[45]や『日本歴史地名大系』[27]においても同様の読みが採用されている。
種島(たねしま[注釈 10]・北緯45度30分16.5秒 東経140度57分40.7秒)は、平島の北方に位置する最高標高3メートルの岩礁群。海驢島からは約3キロメートル離れている。そしてすぐ北に位置する岩礁は礼文町の最北端であり、日本の排他的経済水域外縁を根拠付ける離島の一つであることから、2012年に種北小島(北緯45度30分19.9秒 東経140度57分43.1秒)と命名された[65]。
『日本北州沿岸諸分図』所収「礼文島船泊湾」図では"Tane Shima"と記載されており「高八呎」とある[22]。1962年に海驢島を訪れた串田孫一は、漁師が種島に昆布などを採りに行くとしている[24]。また、本木修次は種島について「黒い岩礁」であるとしている[4]。種島と種北小島の沿岸は、いずれも環境脆弱性指標図において「平坦な磯(岩盤・粘土)」に分類されている[63]。
船泊村編『郷土』には「明治の中頃」まではトドが群れを成して棲息していたとある。1925年まではトドの繁殖が確認されており、日本国内における唯一の繁殖地であった[64][66]。以降も1970年代までは春になると多数のトドが集まる上陸場であったが、1980年代には「まれに数頭」が上陸する程度にまで減少し[67]、2014年の時点においてもトドの上陸は稀にしか見られないという[10]。ただし島の周辺では、2018年現在でもトド猟が行われている[7]。
なお、種島の北方には「沖のソリ」と呼ばれる水深約3メートルの暗礁があり[10]、『日本北州沿岸諸分図』所収「礼文島船泊湾」図では「沖ノ礁」"Okino Sho"として記載されている[22]。
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