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かつて日本に存在した郵便・通信を司る中央官庁 ウィキペディアから
逓信省(ていしんしょう、旧字体:遞信省、英語: Ministry of Communications[2])は、かつて日本に存在した郵便、通信、運輸を管轄する中央官庁である。
内閣創設時から第二次世界大戦中の行政機構改革で統合されるまで、交通・通信・電気を幅広く管轄していた。第二次世界大戦後にも復活して1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)まで存在したが、この時期には通信及び航空保安のみを管轄した。現在の総務省、国土交通省航空局、日本郵政(JP)、及び日本電信電話(NTT)は、1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)までの逓信省の後身に相当する。
工部省を廢し遞信省を置き工部大學校󠄁を文󠄁部省に鑛山及󠄁工作事務を農商󠄁務省に屬す。今般遞信省を置き驛遞電信燈臺管舩の事務を管理せしむ
1871年(明治4年)4月20日の郵便創業時、郵便事業は宿駅制度をつかさどる駅逓司の所管であり、初代駅逓頭は濱口梧陵(7代目濱口儀兵衛 ヤマサ醤油創業家当主 「稲むらの火」のモデル)であるが、近代郵便事業の展開は第2代駅逓頭前島密(制度開始当時は駅逓権頭として英国視察中)の指導の下進められた。この駅逓司は民部省・大蔵省・内務省・農商務省と所属が変わる間に駅逓寮・駅逓局と昇格。1885年(明治18年)に逓信省が設立されるとその所属となった。
1887年(明治20年)には「〒」マークが制定された。これは逓信省の頭文字「テ」をデザイン化したものであるとされる(詳細は郵便記号の項を参照)。1900年(明治33年)にはそれまでの郵便規則・郵便条例・小包郵便法などが統合され(旧)郵便法が制定された。1920年(大正9年)には貯金局と簡易保険局が設けられた。1928年(昭和3年)には簡易保険局がラジオ体操を制定した。その後郵便事業は通信院・逓信院・復活した逓信省を経て、郵政省に受け継がれることになる。
工部省の所管であった電信事業は逓信省に受け継がれ、1890年(明治23年)には電話事業も管轄するようになった。以降電信と電話の所管は一貫して逓信省(および通信院・逓信院)のものであったが、1949年(昭和24年)に省が解体(郵電分離)されると電気通信省へと移った。なお電気通信省は1952年(昭和27年)に日本電信電話公社に改組され、その監督は郵政省が行うこととなった。
民間船舶に関する事務は農商務省商務局管船課が行っていたが、1882年(明治15年)に管船局へと昇格した。1885年(明治18年)に内閣制度が創設されると逓信省の管轄とされた。1896年(明治29年)には海難審判制度を定めた「海員懲戒法」が公布され、翌年には海員審判所が設立された。大東亜戦争(太平洋戦争、第二次世界大戦)開戦直後の1941年(昭和16年)12月19日、海運の国家統制を目的に、海事に関する業務は海務院へと移された。
ワシントン海軍軍縮条約脱退後の国際情勢悪化の可能性を見込んで、1936年(昭和11年)から標準船制定の動きが起きた。日華事変中の1939年(昭和14年)4月に正式決定され、造船量の増大や効率化を目的に大小貨物船6形式が計画された。その後日本のパナマ運河経由ニューヨーク航路の高速貨物船(いわゆるニューヨークライナー)に相当するL型が計画されるが、さらなる情勢悪化により中止。艦隊随伴用大型タンカーのTL型、蘭印向け中型タンカーのTM型、鉱石運搬船のK型が追加された。また、D型とE型の中間に当たるH型も計画されたが、こちらは計画のみに終わった。後の戦時標準船の制定により平時標準船とも呼ばれ、第1次戦時標準船はこの型式をベースにして設計されている。
※以下、諸元は総トン数・機関・最大速力の順
1872年(明治5年)の新橋-横浜間鉄道開業の前年、工部省に鉄道寮が設けられた。その後鉄道局へと昇格したが、1885年(明治18年)に工部省が廃止されると内閣の直属となった。1890年(明治23年)には鉄道庁となり内務省の外局になったが、1892年(明治25年)には逓信省の外局とされ、その翌年には内局化され逓信省鉄道局となった。1897年(明治30年)に現業部門を外局として独立させ、鉄道作業局(1907年(明治40年)に帝国鉄道庁へと改組)としたため、鉄道局は監督行政のみを受け持つことになった。1908年(明治41年)に鉄道局と帝国鉄道庁を統合して内閣直属の鉄道院が設立され、鉄道事業は逓信省の手を離れることとなった。
1909年(明治42年)7月24日、それまで逓信省通信局で所掌していた電気に関する事務を移管して内局たる電気局が設置された[12]。それに加え、1938年(昭和13年)5月6日には外局(「逓信大臣ノ管理ニ属」する機関)として電力管理準備局が設置され[13]電力管理法の施行に当たったが、1939年(昭和14年)4月1日、両局を統合した外局(「逓信大臣ノ管理ニ属」する機関)として電気庁が設置された[14]。しかし、行政簡素化のため1942年(昭和17年)11月1日電気庁は廃止され、逓信省内局の電気局が再設置されたものの[15]、翌1943年(昭和18年)11月1日、運輸通信省と同時に設置された軍需省に電力局として移管された[16]。軍需省は1945年(昭和20年)8月26日廃止され、代わって商工省が再設置されたが、電力行政は引続き電力局として商工省が所管した[17]。
なお、1935年(昭和10年)、電気用品取締規則(同年逓信省令第30号)に基づき対象製品に付けるマークに逆三角形の中に逓信省徽章「〒」を示したマークが使われ、1961年(昭和36年)公布の電気用品取締法にも継承された[18]。
1923年(大正12年)陸軍省の外局だった航空局が逓信省の外局として移管され[19]、翌年内局となった[20]。1927年(昭和2年)の航空法(大正10年法律第54号)の施行[注釈 2]と共に郵便機による定期航空輸送の構想を打出し、大阪(木津川飛行場)・東京(羽田飛行場)・福岡(雁ノ巣飛行場)に飛行場を整備し、国際航空郵便も東京~大連(周水子飛行場と大連関東州逓信局)、大阪~上海を開設した[21]。1938年(昭和13年)1月31日、航空局は再び逓信省の外局となった[22]。同年6月、航空機乗員養成所を設置した。1943年(昭和18年)11月1日、運輸通信省設置とともに航空局は同省の内局となり、1945年(昭和20年)5月19日の運輸省への改称においても存置された。同年12月31日、運輸省航空局及び航空機乗員養成所を廃し[23]、「航空に関する事項」を運輸省から逓信院に移管して逓信院電波局に航空保安部を設置した[24][25]。 1946年(昭和21年)7月1日、逓信省航空保安部を設置した[26]。1949年(昭和24年)6月1日、逓信省廃止に伴い、電気通信省の外局として航空保安庁が設置された。
逓信大臣(逓信省官制(明治19年3月1日勅令第2号)) | |||||
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1 | 榎本武揚 | 1885年12月22日 - 1889年3月22日 (1888年4月30日 - 1888年7月25日、農商務大臣を臨時兼任) | |||
2 | 後藤象二郎 | 1889年3月22日 - 1892年8月8日 | |||
3 | 黒田清隆 | 第2次伊藤内閣 | 1892年8月8日 - 1895年3月17日 | ||
4 | 渡辺国武 | 1895年3月17日 - 1895年10月9日 (1895年8月27日 - 1895年10月9日、大蔵大臣を兼任) | |||
5 | 白根專一 | 1895年10月9日 - 1896年9月26日 | |||
6 | 野村靖 | 第2次松方内閣 | 1896年9月26日 - 1898年1月12日 | ||
7 | 末松謙澄 | 第3次伊藤内閣 | 1898年1月12日 - 1898年6月30日 | ||
8 | 林有造 | 第1次大隈内閣 | 1898年6月30日 - 1898年11月8日 | ||
9 | 芳川顕正 | 第2次山縣内閣 | 1898年11月8日 - 1900年10月19日 | ||
10 | 星亨 | 第4次伊藤内閣 | 1900年10月19日 - 1900年12月21日 | ||
11 | 原敬 | 1900年12月22日 - 1901年6月2日 | |||
12 | 芳川顕正 | 第1次桂内閣 | 1901年6月2日 - 1903年7月17日 | ||
13 | 曾禰荒助 | 1903年7月17日 - 1903年9月22日 大蔵大臣による兼任 | |||
14 | 大浦兼武 | 1903年9月22日 - 1906年1月7日 | |||
15 | 山縣伊三郎 | 第1次西園寺内閣 | 1906年1月7日 - 1908年1月14日 | ||
16 | 原敬 | 1908年1月14日 - 1908年3月25日 内務大臣による兼任 | |||
17 | 堀田正養 | 1908年3月25日 - 1908年7月14日 | |||
18 | 後藤新平 | 第2次桂内閣 | 1908年7月14日 - 1911年8月30日 | ||
19 | 林董 | 第2次西園寺内閣 | 1911年8月30日 - 1912年12月21日 (1911年8月30日 - 1911年10月16日、外務大臣を臨時兼任) | ||
20 | 後藤新平 | 第3次桂内閣 | 1912年12月21日 - 1913年2月20日 | ||
21 | 元田肇 | 第1次山本内閣 | 1913年2月20日 - 1914年4月16日 | ||
22 | 武富時敏 | 第2次大隈内閣 | 1914年4月16日 - 1915年8月10日 | ||
23 | 箕浦勝人 | 1915年8月10日 - 1916年10月9日 | |||
24 | 田健治郎 | 寺内内閣 | 1916年10月9日 - 1918年9月29日 | ||
25 | 野田卯太郎 | 1918年9月29日 - 1922年6月12日 | |||
26 | 前田利定 | 加藤(友)内閣 | 1922年6月12日 - 1923年9月2日 | ||
27 | 犬養毅 | 第2次山本内閣 | 1923年9月2日 - 1924年1月7日 (1923年9月2日 - 1923年9月6日、文部大臣を兼任) | ||
28 | 藤村義朗 | 清浦内閣 | 1924年1月7日 - 1924年6月11日 | ||
29 | 犬養毅 | 加藤(高)内閣 | 1924年6月11日 - 1925年5月30日 | ||
30 | 安達謙蔵 | 1925年5月30日 - 1927年4月20日 | |||
31 | 望月圭介 | 田中(義)内閣 | 1927年4月20日 - 1928年5月23日 | ||
32 | 久原房之助 | 1928年5月23日 - 1929年7月2日 | |||
33 | 小泉又次郎 | 1929年7月2日 - 1931年12月13日 | |||
34 | 三土忠造 | 犬養内閣 | 1931年12月13日 - 1932年5月26日 | ||
35 | 南弘 | 齋藤内閣 | 1932年5月26日 - 1934年7月8日 | ||
36 | 床次竹二郎 | 岡田内閣 | 1934年7月8日 - 1935年9月8日 | ||
37 | 岡田啓介 | 1935年9月9日 - 1935年9月12日 内閣総理大臣による兼任 | |||
38 | 望月圭介 | 1935年9月12日 - 1936年3月9日 | |||
39 | 頼母木桂吉 | 廣田内閣 | 1936年3月9日 - 1937年2月2日 | ||
40 | 山崎達之輔 | 林内閣 | 1937年2月2日 - 1937年2月10日 農林大臣による兼任 | ||
41 | 児玉秀雄 | 1937年2月10日 - 1937年6月4日 | |||
42 | 永井柳太郎 | 第1次近衛内閣 | 1937年6月4日 - 1939年1月5日 | ||
43 | 塩野季彦 | 平沼内閣 | 1939年1月5日 - 1939年4月7日 司法大臣による兼任 | ||
44 | 田辺治通 | 1939年4月7日 - 1939年8月30日 | |||
45 | 永井柳太郎 | 阿部内閣 | 1939年8月30日 - 1940年1月16日 (1939年8月30日 - 1939年11月29日、鉄道大臣を兼任) | ||
46 | 勝正憲 | 米内内閣 | 1940年1月16日 - 1940年7月22日 | ||
47 | 村田省蔵 | 1940年7月22日 - 1941年10月18日 (1940年7月22日 - 1940年9月28日、鉄道大臣を兼任) (1941年7月18日 - 1941年10月18日、鉄道大臣を兼任) | |||
48 | 寺島健 | 東條内閣 | 1941年10月18日 - 1943年10月8日 (1941年10月18日 - 1941年12月2日、鉄道大臣を兼任) | ||
49 | 八田嘉明 | 1943年10月8日 - 1943年11月1日 鉄道大臣による兼任 | |||
通信院総裁(運輸通信省) | |||||
小松茂 | 東條内閣 | 1943年11月1日 - 1944年4月11日 | |||
塩原時三郎 | 1944年4月11日 - 1945年5月19日 | ||||
逓信院総裁(内閣) | |||||
塩原時三郎 | 1945年5月19日 - 1945年8月30日 | ||||
松前重義 | 1945年8月30日 - 1946年4月8日 | ||||
(欠) | 1946年4月8日 - 1946年6月30日 新谷寅三郎逓信院次長が総裁心得を務める | ||||
逓信大臣(第2期) | |||||
50 | 一松定吉 | 第1次吉田内閣 | 1946年7月1日 - 1947年5月24日 | ||
片山哲 | 片山内閣 | 1947年5月24日 - 1947年6月1日 内閣総理大臣による臨時代理 | |||
51 | 三木武夫 | 1947年6月1日 - 1948年3月10日 | |||
52 | 冨吉榮二 | 芦田内閣 | 1948年3月10日 - 1948年10月15日 | ||
吉田茂 | 第2次吉田内閣 | 1948年10月15日 - 1948年10月19日 内閣総理大臣による臨時代理 | |||
53 | 降旗徳弥 | 1948年10月19日 - 1949年2月16日 | |||
54 | 小沢佐重喜 | 第3次吉田内閣 | 1949年2月16日 - 1949年6月1日 |
郵便、小包郵便、郵便為替、郵便貯金、簡易生命保険、郵便年金、電信及び電話の管理に属する事務、発電水力調査に関する事務並びに電気事業及び船舶海員の監督に関する事務を掌る。
職員は、局長(7人。勅任)、書記官(専任12人。奏任)、事務官(専任37人。奏任)、技師(専任132人。奏任)、書記(専任2049人。判任)、技手(専任1657人。判任)、書記補(専任1203人。判任)。
各局所の定員の配当は逓信大臣が定める。
各逓信局の名称、位置及び管轄区域は下の通り。
参考:大正十三年十一月二十五日勅令第二七二号逓信局官制、十四年勅令第一八五号、勅令第二八〇号、十五年勅令第一九一号、勅令第二七八号、昭和二年勅令第二五三号、三年勅令第二〇六号、四年勅令第二二九号。
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