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日本の内閣 ウィキペディアから
濱口内閣(はまぐちないかく)は、衆議院議員、立憲民政党総裁の濱口雄幸が第27代内閣総理大臣に任命され、1929年(昭和4年)7月2日から1931年(昭和6年)4月14日まで続いた日本の内閣。
濱口内閣 | |
---|---|
親任式後の閣僚 | |
内閣総理大臣 | 第27代 濱口雄幸 |
成立年月日 | 1929年(昭和4年)7月2日 |
終了年月日 | 1931年(昭和6年)4月14日 |
与党・支持基盤 | 立憲民政党 |
施行した選挙 | 第17回衆議院議員総選挙 |
衆議院解散 | 1930年(昭和5年)1月21日 |
内閣閣僚名簿(首相官邸) |
1929年(昭和4年)7月2日任命[1]。在職日数652日。
職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
内閣総理大臣 | 27 | 濱口雄幸 | 衆議院 立憲民政党 |
|||
- | 幣原喜重郎 | 貴族院 無所属 (同和会) 男爵 |
臨時代理 (外務大臣兼任) |
1930年11月14日兼[2] 1931年3月9日免兼[3] | ||
外務大臣 | 40 | 幣原喜重郎 | 貴族院 無所属 (同和会) 男爵 |
内閣総理大臣臨時代理 | ||
内務大臣 | 41 | 安達謙藏 | 衆議院 立憲民政党 |
|||
大蔵大臣 | 30 | 井上準之助 | 貴族院 (無所属→) 立憲民政党 (無会派) |
再入閣 | ||
陸軍大臣 | 19 | 宇垣一成 | 陸軍大将 (陸大14期) |
再入閣 | ||
- | 阿部信行 | 陸軍中将 (陸大19期) |
臨時代理 (班列) |
1930年6月16日任[4] 1930年12月10日免兼[5] | ||
海軍大臣 | 13 | 財部彪 | 海軍大将 (海兵15期) |
1930年10月3日免[6] | ||
14 | 安保清種 | 海軍大将 (海兵18期) 男爵 |
初入閣 1930年10月3日任[6] | |||
司法大臣 | 32 | 渡邊千冬 | 貴族院 無所属 (研究会) 子爵 |
初入閣 | ||
文部大臣 | 38 | 小橋一太 | 衆議院 立憲民政党 |
初入閣 1929年11月29日免[注釈 1][7] | ||
39 | 田中隆三 | 衆議院 立憲民政党 |
初入閣 1929年11月29日任[7] | |||
農林大臣 | 6 | 町田忠治 | 衆議院 立憲民政党 |
再入閣 | ||
商工大臣 | 6 | 俵孫一 | 衆議院 立憲民政党 |
初入閣 | ||
逓信大臣 | 33 | 小泉又次郎 | 衆議院 立憲民政党 |
初入閣 | ||
鉄道大臣 | 8 | 江木翼 | 貴族院 立憲民政党 (同成会) |
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拓務大臣 | 2 | 松田源治 | 衆議院 立憲民政党 |
初入閣 | ||
班列 | - | 阿部信行 | 陸軍中将 (陸大19期) |
陸軍大臣臨時代理 | 初入閣 1930年6月16日任[4] 1930年12月10日免[5] | |
| ||||||
1929年(昭和4年)7月2日任命[1]。
職名 | 氏名 | 出身等 | 備考 |
---|---|---|---|
外務政務次官 | 永井柳太郎 | 衆議院/立憲民政党 | |
内務政務次官 | 斎藤隆夫 | 衆議院/立憲民政党 | |
大蔵政務次官 | 小川郷太郎 | 衆議院/立憲民政党 | |
陸軍政務次官 | 溝口直亮 | 貴族院/無所属(研究会)/予備役陸軍少将(陸大20期)/伯爵 | 1930年8月19日免[11] |
伊東二郎丸 | 貴族院/無所属(研究会)/子爵 | 1930年8月19日任[11] | |
海軍政務次官 | 矢吹省三 | 貴族院/無所属(公正会)/男爵 | |
司法政務次官 | 川崎克 | 衆議院/立憲民政党 | |
文部政務次官 | 野村嘉六 | 衆議院/立憲民政党 | |
農林政務次官 | 高田耘平 | 衆議院/立憲民政党 | |
商工政務次官 | 横山勝太郎 | 衆議院/立憲民政党 | |
逓信政務次官 | 中野正剛 | 衆議院/立憲民政党 | 1930年12月23日免[12] |
中村啓次郎 | 衆議院/立憲民政党 | 1930年12月23日任[12] | |
鉄道政務次官 | 山道襄一 | 衆議院/立憲民政党 | 1930年3月12日免[13] |
黒金泰義 | 衆議院/立憲民政党 | 1930年3月12日任[13] | |
拓務政務次官 | 小坂順造 | 衆議院/立憲民政党 | |
1929年(昭和4年)7月5日任命[9]。
職名 | 氏名 | 出身等 | 備考 |
---|---|---|---|
外務参与官 | 織田信恒 | 貴族院/無所属(研究会)/子爵 | |
内務参与官 | 内ヶ崎作三郎 | 衆議院/立憲民政党 | 1930年3月11日免[14] |
一宮房治郎 | 衆議院/立憲民政党 | 1930年3月11日任[14] | |
大蔵参与官 | 勝正憲 | 衆議院/立憲民政党 | |
陸軍参与官 | 吉川吉郎兵衛 | 衆議院/立憲民政党 | |
海軍参与官 | 粟山博 | 衆議院/立憲民政党 | |
司法参与官 | 井本常作 | 衆議院/立憲民政党 | |
文部参与官 | 大麻唯男 | 衆議院/立憲民政党 | |
農林参与官 | 山田道兄 | 衆議院/立憲民政党 | |
商工参与官 | 岩切重雄 | 衆議院/立憲民政党 | 1930年3月11日免[14] |
野田文一郎 | 衆議院/立憲民政党 | 1930年3月11日任[14] | |
逓信参与官 | 福田五郎 | 衆議院/立憲民政党 | |
鉄道参与官 | 山本厚三 | 衆議院/立憲民政党 | |
拓務参与官 | 武富済 | 衆議院/立憲民政党 | |
※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
1929年7月2日、前任の田中義一内閣(立憲政友会が与党)は満洲某重大事件の事態収拾に失敗して内閣総辞職。後継首相の推奏権をもった西園寺公望元老は、憲政の常道により、野党第一党である立憲民政党の濱口雄幸総裁を推挙。即日、内閣が発足する。少数与党としてスタートした内閣は、翌1930年1月21日に衆議院解散、2月20日の第17回衆議院議員総選挙にて勝利を収める。
11月14日、濱口首相は暴漢に襲撃され、重態に陥る。首相臨時代理を巡り、党籍を持つ大臣の間で調整がつかなかったことにより[注釈 2]、非党人の幣原外相が、宮中席次が筆頭であることから首相臨時代理に就任する。しかし、濱口首相の療養が長引く中、幣原外相の国会対応ははかばかしくなく、ロンドン条約の批准問題に対して「天皇の勅許を得ているため無問題」という趣旨の回答をしたことが政治問題化する(幣原失言問題)。濱口首相は、野党の求めに応じて1931年3月9日、幣原外相の臨時首相代理を解き、政務に復帰、議会に登院する。しかしこれにより病状が悪化し、4月4日に首相は再入院し、同日、辞職を決意。後継首相を巡って党内手続きが行われ、4月13日、若槻礼次郎元首相が総裁に就任し、即日、内閣総辞職。翌14日、第2次若槻内閣が成立した。
8月26日、濱口前首相が死去する。
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