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古墳時代に現れた墓制 ウィキペディアから
横穴墓(よこあなぼ/おうけつぼ[1])とは、一般に台地や丘陵の斜面に高さ2メートル前後、奥行数メートルの洞窟=横穴を掘り、その中に人間を埋葬した墓のことである。古代東アジアなどでもみられるが、日本では考古学用語として、主に古墳時代に現れたこのタイプの墓制を指してこの呼称が用いられる。
構造は古墳の横穴式石室に似ていて、斜面の岩盤をくり貫いて造られ、入口から羨道(えんどう/せんどう)を通り、死者を安置する奥の玄室(げんしつ)に至る。墳丘をもたないのが通例であるが、例外も一部ある。玄室には棺や、棺を置く台(棺座)を削りだした例もある。天井の形態は、家形・ドーム形・アーチ形がある。また、羨道と玄室の間に「前室」を設けたり、入口の前に「前庭」を設ける例がある[2]。神奈川県南東の旧鎌倉郡には、「鎌倉型横穴墓」と呼ばれるアーチ形天井の玄室奥壁に「棺室」という置き棚のような小部屋を掘り造った形態例がある[3]。
横穴墓は単独で存在することは稀で、おおむね複数からなる「横穴墓群」と呼ばれる遺跡群を形成する[4]。200基以上で構成され、国指定史跡になっている埼玉県比企郡吉見町の吉見百穴などが著名である。
また内部の壁面や天井に線刻画をともなう例もある。九州および関東から東北地方南部の太平洋沿岸では、彩色が施された例もいくつかみられる。これらは装飾古墳にも位置づけられる。
古墳時代、5世紀後半の九州北部の豊前地域に淵源を持つと考えられている。おもに6世紀中葉に山陰・山陽・近畿・東海地方まで盛行した。7世紀初頭までには北陸・関東・東北南部まで分布した。薄葬令前後から爆発的に増加した。一部では奈良時代の8世紀中頃まで造られ終焉した[2]。
横穴古墳ともいうが、正確には古墳とは墳丘を持つ高塚古墳を意味するため、墳丘をもたないものは横穴墓というべきである。ただし分類上は広義の「古墳」に含まれる。また人工の墳丘の側面から埋葬する施設(横穴式石室)を持つ「横穴式」古墳のことを横穴墓とはいわない。なお鎌倉時代以降の中世では、神奈川県(相模国)の鎌倉地方を中心に同様の洞窟式墓制が存在するが、これらはやぐらと呼ばれ、古墳時代の横穴墓との系統上の関係性はない[3]。
明治時代初期には、その用途について住居か墓かの論争(穴居論争)があったため、単に「横穴」と呼ばれ、墓であるという結論が得られた後も「横穴」の名称が用いられ続けた。その後、「横穴古墳」(よこあなこふん)という名称が使われ始め、昭和時代初期から中頃にかけては「横穴」と二分された。昭和40年代(1965年頃~)に入ると「横穴墓」という名称が使われるようになり、次第に主流となった。「横穴墓」は関東の研究者、「横穴」は関西の研究者を中心に使われる傾向がある[1]。
「横穴墓」は、「よこあなぼ」とも「おうけつぼ」とも読むが、穴居論争当時に「横穴」を「よこあな」と読んでいたこと、また、「横穴式石室」を「よこあなしきせきしつ」と読んで「おうけつしきせきしつ」とは読まないことから、「よこあなぼ」が適切と考えられている[1]。
九州から山陰、近畿をはじめとし、北陸、東海を経て、特に南関東が多い。北限は宮城県北部といわれている。静岡県内では約3000基を数える。
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