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「パイノパイノパイ」は、演歌師の添田知道(添田さつき)によって作詞され大正時代に流行した俗謡である。東京節(とうきょうぶし)ともいう。
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
1918年発表[1]。元々のメロディーは、ヘンリー・クレイ・ワーク作曲の「ジョージア行進曲」(Marching Through Georgia)である。同曲は添田によって作詞される以前から、1892年に「ますらたけを」の題で国文学者・東宮鉄真呂の作詞による軍歌が販売されたり[2]、救世軍が街宣活動で演奏するなど[1]広く親しまれていた。これに添田が改めて歌詞をつけたものが「パイノパイノパイ」である。資料によっては作曲者も添田知道(添田さつき)や神長瞭月とされていることがあるが正確ではない。日本では原曲よりも「パイノパイノパイ」での知名度が高いため、ブラスバンドがジョージア行進曲を演奏したところ、卑俗な歌を演奏するとはいかがなものかと苦情が来たというエピソードもある。
売文社に勤めていた添田がある日「のんき節」の掲載許可を貰いに父・添田唖蝉坊の元を訪ねると気まぐれに、演歌を一つ作ってみないかと言われた。当時流行りつつあった洋食屋のメニューを羅列したような仮歌であったが、唖蝉坊がメロディーを口ずさむと、幼少期に神奈川県大磯の実家に預けられていた時に遊び仲間から「ますらたけを」のメロディーで囃し立てられた記憶が急に蘇り、小説家志望で歌は嫌いでなかったこともあり、作詞経験はないがつい釣り込まれてしまった。その席上、唖蝉坊にはどうせ浮世は出鱈目だという人生感があり、口癖になっていてその場でも出た。そうして「デタラメ」が「ラメ」となり「ラメチャン」となって囃子言葉はスラスラと決まり、全体は宿直の一晩で書き上げた。このとき添田知道はわずか19歳だった。
「パイノパイノパイ」の大流行につれて新たな歌詞が求められ、京阪神・中京・吉原の風俗、更に第一次世界大戦の戦後処理のためパリ講和会議に全権として参加した元老・西園寺公望が愛妾や料亭・灘萬の店主を伴ったことが大新聞に取り上げられたこと、会議の結果としてドイツが所有していた山東省の権益や南洋諸島の委任統治権を得た戦勝気分を背景として添田が改詩したものが「平和節」の名で1919年に発表された[3]。
後の時代にもなぎら健壱やザ・ドリフターズ、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットによってもリメイクされ世相や政治を風刺する際に替え歌が歌われたりなど、今でも健在である。
なお、3番に出てくる「市長のいうことよくきいて豆粕食うこと痩せること」とは、当時米価が高騰し米を買えなくなっていた市民に対し、東京市長田尻稲次郎は相場師を取り締まるどころか代用食をあてがうことを暗愚だとする政治批判である。後に「自宅の階段を二段踏み外しただけのことで亡くなり、豆粕で栄養不良だったんだろうなどと豆粕を食わされた市民から言われたのも、気のどくながら詮方なかった」と添田に評されている[4]。また、4番に出てくる「ボロ電車」とは当時唯一の交通機関であった東京市電を冷やかしたものである[3]。
時節が第一次世界大戦後のインフレ期にあり、「平和節」にあるように物価が猛烈に高騰したことから「倍の倍の倍」というもじりもあった[5]。
主にサビの部分の替え歌が、CMソングや映画主題歌として使用されている。
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