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日本のドラム奏者 (1951-2021) ウィキペディアから
村上 “ポンタ” 秀一(むらかみ ぽんた しゅういち、1951年1月1日 - 2021年3月9日[1])は、日本のドラム奏者。兵庫県西宮市出身。今津中学校、市立西宮高校を経て、大阪教育大学中退。血液型O型。愛称はポンタさん。別名、ポンタ村上[2]。
ジャズ、ロック、J-POP、歌謡曲などジャンルを問わず、国内外でセッションドラマー/スタジオ・ミュージシャンとして活動。
中学時代に所属していた吹奏楽部に度々指導に来ていた指揮者の朝比奈隆にティンパニを勧められ、打楽器奏者の道を歩む[3]。
「赤い鳥」の大村憲司の音楽性に惹かれ、1972年、21歳の時にこのバンドのドラマーのオーディションに挑戦して合格、プロデビューするとともに上京した[注釈 1]。
この「赤い鳥」のオーデションについて、村上がNHKのトーク番組『トップランナー』で語ったところによると、オーディションは岐阜の市民会館で行われ、28人の志望者が集まり、村上の前までの7人がドラムを叩いた時にはバンドメンバーは無反応な顔つきで審査していたが、8人目の村上がドラム演奏したところバンドメンバーの顔色が変わり、「はい、皆さん、これで決まりだから気をつけて帰って下さい」と、その後に控えていた20人の志望者には演奏させず帰させた。このオーディションの際にドラム演奏させられた曲は「レット・イット・ビー」(ビートルズ)、「翼をください」(赤い鳥)他3曲だった。また、このオーディションは村上がドラムのスティックを握り始めて4日目のことだったという。
赤い鳥脱退後すぐに、エントランス(村上、大村、山村隆男(後に高水健司)を結成。赤い鳥時代に知り合った五輪真弓のバックバンドを始める。
エントランス解散後、本格的にスタジオ・ミュージシャンとして活動を始め、アニメソングから歌謡曲、演歌まで幅広いジャンルの曲のレコーディングに参加。1975年頃にバンブーに参加し、同年後半にはカミーノを結成するなどセッションミュージシャンとしても活動した。
スタジオ・ミュージシャンとして活動した初期はレコード等のクレジットはメインとなる歌手の他は「レコード会社名+”楽団”」等と演奏者の名前は載らず一括りにされていたが、村上らが「俺達は名前も載らず使い捨てか?」とプロデューサー等に直談判した結果、以降はレコーディングに参加したメンバーの名前が記載されるようになったという逸話がある。
1978年、ドラムの海外修行を控えて行われた壮行コンサートの直後に、ヘロインを不法所持していたとして麻薬及び向精神薬取締法違反容疑により逮捕される。出所後は、再びスタジオ・ミュージシャンとして復帰。
1986年には渡辺香津美との全米ツアー、1987年には国際交流基金によるアフリカツアーを行った後、島健トリオと山羊智詞のソロプロジェクトを母体とした、ハードロックバンド「ザ・メーカーズ」を結成。1990年より、「山羊智詞&赤羽楽団」に参加するなど、活動の幅を広げた。練習はしない。イメトレのみ。
1998年発表の活動25周年記念アルバム『Welcome To My Life』と、2003年発表の活動30周年記念アルバム『MY PLEASURE』には、それぞれ日本を代表するアーティストがゲストとして多数参加しており、セッションドラマーとしての幅の広さを窺わせる。レコーディング数は1万4000曲を越え、日本を代表するドラム奏者とも称された[4]。
様々なジャンルの楽曲を演奏してきたが、歌をいかに引き立てるかを考え、ヴォーカルの邪魔をしない演奏をすることが評価されていた。特にバラードでの評価が高く、70年代に村上を起用することが多かった山下達郎は自身の楽曲「MONDAY BLUE」を例に挙げ「ああいう曲はとにかくポンタが一番だった。バラードの表現力が、とにかく圧倒的だから」と評している[5]。村上を兄貴分と慕い80年代に組むことの多かった角松敏生もバラードでの村上の表現力を絶賛し、自身のデビュー35周年コンサートで共演した後輩の玉田豊夢が村上の演奏を隣で聞いた後に「(バラードの味などは自分には)絶対無理です」と角松に言っていたことも明かしている[6]。
2001年頃に体調を崩し内臓や足に問題を抱えるようになってからは酒・タバコを控えるなど以前よりも体調に気を遣うようになり[7][8]、関係者によれば新型コロナウイルスが蔓延した2020年には全ての仕事をキャンセルし外出もかかりつけの病院や散髪以外は殆どしないなど感染対策を徹底していたという[9]。
2021年2月8日より脳出血の一種である視床出血により入院していたが、3月9日に死去したことが、3月15日に更新された公式サイトで明らかにされた[10]。70歳没。
「PONTA BOX」(ポンタ・ボックス)は村上が結成したバンド。一般的にジャズのカテゴリーに入る音楽だが、ポンタ自身はジャズだと考えていない。村上と佐山雅弘 (Pf) と水野正敏 (B) の3名で結成し、1994年にアルバム「PONTA BOX」を発表。以後、モントルー・ジャズ・フェスティバルに出演の他、1999年までに8枚のアルバムをリリースしている(途中でベースはバカボン鈴木に交代)。活動休止の後、2004年には若手ミュージシャンの石村順 (b)、柴田敏弥 (p & kbds)と新生PONTA BOXを結成し、「NEW PONTA BOX」をリリースした。PONTA BOXのアルバムは、愛称の“ポンタ”に因んで、タヌキの顔のイラスト(杉浦茂の「八百八だぬき」のもの)がトレードマークとなっている。
一方、2000年には佐山雅弘と村田陽一 (Tb) の3人でオリジナルレーベル「3 VIEWS」を設立。3人でのアルバム制作の他、相互のソロ活動に参加するなどしている。2000年以後はPONTA BOXも3 VIEWSからのリリースとなっている。
1999年にPONTA BOXとして『FNNスーパーニュース』のテーマ曲の作曲をした(1999年度)。曲名は『Wandering Stella (Love Circle)』。
ソロアルバム、リーダーアルバム及び、スタジオミュージシャンではなくバンドメンバーとして参加した作品を掲載。
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