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恵那郡

日本の岐阜県(美濃国)にあった郡 ウィキペディアから

恵那郡
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恵那郡(えなぐん)は、岐阜県美濃国)にあった

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岐阜県恵那郡の位置(薄黄:後に他郡に編入された区域 水色:後に他郡から編入した区域)

郡域

要約
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1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、以下の区域にあたる。

なお、701年大宝元年)に制定された大宝律令で、日本国内は国郡里制の三段階の行政組織に編成された時には、現在の長野県木曽郡の全域も含んでおり、美濃国内で最大の面積を有する郡であったが、下記の区域は含まれていなかった。

  • 中津川市加子母の一部(小郷・小和知)
  • 恵那市中野方町と、笠置町(河合・姫栗・毛呂窪)(正保年間(1645年~1648年) - 姫栗村と毛呂窪村の所属が加茂郡から恵那郡に変更。)
  • 愛知県豊田市の一部(上切町・下切町・上中町・下中町・島崎町・三分山町・一色町)

江戸時代以前

加茂郡から恵那郡へ

  • 天文11年(1542年)、岩村城主の遠山景前と延友新右衛門尉が笠木社に梵鐘を寄進した。その鐘銘に『濃州加茂郡笠木山大権現新寄進 本願 延友新右衛門尉 藤原景延 願主 遠山左衛門尉 藤原景前 天文十一稔 寅壬 十一月念日』とあり、藤原景前とは遠山景前のことで、笠木社とは、現在の中野方町にある笠置神社のことである。すなわち当時の中野方村は加茂郡に属していたことが分かる。
  • 太閤検地当時は加茂郡に属していた中野方村は江戸時代中期に恵那郡に編入された。安弘見伝記には、「昔ハ恵那・加茂両郡ノ境ハ坂折川ニテ、川ノ東ハ恵那郡、西ハ加茂郡ナリシヲ、延享三年御巡見ノ節、一村恵那郡ト定メタル」と記述がある。
  • 慶長6年(1601年)の「美濃一国郷牒」には、蛭川村・福岡村・高山村・田瀬村・下野村・上野村は加茂郡と記述されている。
  • 元和元年(1615年)の「美濃国之内郷帳」に加茂郡加志母村、元和二年(1616年)の「美濃国村高御領地改帳」にも加茂郡加志母村の記述がある。恵那郡沿革考の一「加子母村の往古」に加子母は元は加茂郡なりと、然れども確証を得ず。との記述がある。
  • 明治30年(1897年)4月1日、加茂郡河合村が、姫栗村・毛呂窪村と合併し恵那郡笠置村となった。
  • 昭和23年(1948年)4月1日、加茂郡飯地村が恵那郡へ所属変更となった。

恵那の語源

恵那山伊弉冉命天照大神を生んだ際の胞衣(えな = へその緒)を納めた地とされ、胞衣(えな)→恵奈→恵那と変化した。 

恵奈郡から恵那郡へ

905年延喜5年)、醍醐天皇の命により 藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は 藤原忠平が編纂に当たった延喜式には恵奈郡と書かれており、平安時代中期の和名類聚抄拾芥抄にも恵奈と書かれている。

和名類聚抄では恵奈郡六郷に淡気(たむけ)・安岐(あぎ)・繪上(えなのかみ)・繪下(えなのしも)・坂本(さかもと)・竹折(たけおり)が挙げられており、この頃の郡域は現在の恵那市(飯地・笠置を除く)・中津川市(加子母北部を除く)・瑞浪市の陶地区および現在の長野県木曽郡全域であったと考えられる[4]

また延喜式には中川神社、坂本神社、恵那神社の三社が記されている。

江戸時代の 1651年(慶安4年)に完成した正保国絵図には恵那郡と書かれているが、 元禄以後にまた恵奈郡に戻された。明治になって恵那郡という表記に定められた。

  • 奈良県飛鳥池遺跡から見付かった677年12月(天武天皇6年)の木簡に「土岐評恵奈五十造阿利麻」とあることから(「評」は「郡」の意味)、この木簡の書かれた677年の時点では恵奈郡がまだ成立していなかったことが明らかであり、同郡の成立は8世紀初め頃と推定される。
  • 750年天平勝宝2年)4月22日 美濃国司解(東南院文書)に「恵奈郡繪下郷」とあり。

木曽も含んでいた古代から近世

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古代恵奈郡(注:この地図には瑞浪市陶町が恵奈郡に含まれていないことと、恵那市飯地が恵奈郡に含まれていること、鳥居峠と境峠以南の木曾全体が恵奈郡に含まれていない3点が誤りである)

702年大宝2年)に「始めて美濃国の岐蘇山道を開く」と続日本紀に記されているのが岐蘇(木曽)の史料上の初見であるが、このとき木曽路を開通させたのは美濃国の役人たちであったため、木曾谷は美濃国に含まれた。はじめ美濃国恵奈郡繪上郷に属していたが、信濃国と所属がしばしば争われた。

9世紀後半の、貞観年中の859年876年に天皇の勅命により、朝廷より藤原正範靭負直継雄が派遣され、両国の国司と現地に臨んだ。この時の正範らの報告によると、「もともと吉蘇、小吉蘇の両村(木曾谷の村落)は美濃国恵奈郡繪上郷の地域にあり、和銅6年(713年)に美濃守笠麻呂らが、ここに吉蘇路を開通させた(三代実録)。

ここは美濃の国府(不破郡垂井町府中)から10日余りもかかる距離にあり、信濃国府(松本市)のすぐ近くではあるが、もし信濃国ならば、美濃国司がこのような遠いところで工事をする理由がない。その理由で美濃と信濃の両国の国司立ち会いの上で国境を「懸坂上岑」(木祖村と旧奈川村との境界で木曽川の水源から北にある境峠)と定め、吉蘇・小吉蘇両村を恵奈郡繪上郷の地と裁断。

それでこの報告にしたがって、木曾谷を美濃国と決めた。」という。当時は、境峠を越えて飛騨から来た道と合流し信濃国府へ向かったのである[5]

しかし平安時代末期になると、源義仲が信濃国木曾の住人とされたように「木曾谷は信濃」という認識が生まれた。

  • 平安時代中期の拾遺和歌集には、源頼光の『なかなかに いいもはなたで信濃なる木曽路の橋のかけたるやなぞ』という和歌がある。
  • 信濃地名考という文献には、木曾が信濃国に移管されたのは、平安時代の延喜年間(901年 - 923年)と記されている。
  • 文正元年(1466年)11月1日、木曾家豊興禅寺 (長野県木曽町)に寄進した梵鐘の鐘銘に刻まれている内容は、『壇心離有作々 金匠到無切功 鐘聲廣大 伽藍興隆 群生睡破 利濟無窮 美濃州 慧那郡 木曾庄 萬松山 興禅々寺 住持比丘大壇那 源之朝臣家豊 于時文正元年 丙戌霜月一日』とある。
  • 美濃国恵奈郡であった木曾全域が信濃国に移った時期について、信州大学人文学部の山本英二教授が長野県木曽郡大桑村定勝寺の古文書の回向文の中から年代が分かる5点で、延徳3年(1491年)には、美濃州恵奈郡木曽庄とあるが、永正12年(1515年)には、信濃州木曾荘と書かれているので木曾が美濃国恵奈郡から信濃国へ移ったのは1491年から1515年の間と結論付けた。
  • 木曾古道記には木曽川より東側にある定勝寺の天文18年(1549年)作の鐘銘には信州木曾庄と書かれてあるのに対し、木曽川より西側にある興禅寺にある承応2年(1653年)作の鐘銘には美濃国恵那郡木曾庄となっていることを述べた上で、天正以来の記録に木曽川より東を信濃国筑摩郡、木曽川より西を美濃国恵那郡と分けていたが、享保9年(1724年)に木曽川の東も西も信濃国筑摩郡木曾と定められたと記されている。
  • 中津川市山口(元・長野県木曽郡山口村)にある諏訪神社慶長16年(1611年)11月の棟札には「恵那郡木曽山口村」と記されている。
  • 寛文9年(1669年)木曾代官の山村甚兵衛より尾張御領宛、木曽の所属について提出した書状によると、
    然ハ 御家中城侍在所持御書出候様ニと今度自公儀被仰出候付 当福島ハ 濃州恵那郡之内ニ候哉 信州之内ニ候哉 先年絵図公儀ヘ上申候 時分聞被成度候 間得其意存候 当地興禅寺ニ有之候鐘銘ニハ 恵那郡と有之候ヘ共 是ハ古ニ詮儀無覚束存候 木曽ハ信州之物と申唱 先年木曽絵図ニハ信州之内共 濃州之内共断書ハ 不仕其地ヘ絵図指上申候 其節承及候ハ信州一国之絵図ハ 真田伊豆守殿 濃州一国絵図ハ 岡田将監殿より一枚絵図ニ御認め 公儀ヘ上申由ニて殿様[6]御領分も美濃之絵図ハ将監殿[7]ヘ被遣 木曽絵図ハ伊豆守殿[8]ヘ派遣候由承及申候然共聢(しか)と覚不申候 此段ハ其御地ニて如可申と存候 左と御座候ヘハ 木曽ハ 弥信濃絵図に入可申と存候
    とある。
  • 寛文11年(1671年)山村甚兵衛より千村平右衛門への書状覚の中の触状に 尾州御国奉行に伺いたてたところ「木曽の儀、信濃国中に相極候ヘハ」触状はそのまま廻すようにとの指示を与えているところから、この寛文の頃になると木曽は信濃国の中とはっきりしたのだろう。

恵奈郡の六郷と郡家郷

承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順が編纂した和名類聚抄に、当時の恵奈郡にあった六箇所の郷が記述されている。しかし郡司が居た郡家郷については記述が無いが、恵那市の大井町・長島町あたりと推測される。

  • 坂本郷 - 中津川市坂本周辺
  • 繪上郷 - 長野県木曽郡
  • 繪下郷 - 中津川市の中津川恵下周辺が推測される。
  • 竹折郷 - 恵那市武並町竹折周辺
  • 安岐郷 - 中津川市阿木周辺
  • 淡氣郷〔手向郷〕 - 恵那市山岡町の上手向・下手向を中心として明智町、上下村(上矢作町)、佐々良木(三郷町)、瑞浪市陶町など
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恵奈郡の式内社・帳内社・国史見在社

延喜式神名帳より後に作成された『美濃国神名帳』には恵奈郡には式内社三座と帳内社が七社あり、その他、国史見在社として、長田神がある。

式内社

帳内社

  • 加上明神 中津川市川上(かおれ)にある恵那神社。
  • 阿氣明神 中津川市阿木広岡の血洗神社もしくは中津川市阿木大門の八幡神社[9]
  • 長窪明神 恵那市明智町杉野字長窪にある八幡神社と推定される。
  • 鴈栖明神 所在地不明。

国史見在社

  • 長田神 貞観6年(864年)の日本三代実録に美濃国長田神に神階奉授の記述があり、新撰美濃志では、恵那市長島町永田字田中の神社址を推定している。

荘園

  • 平安時代には恵那郡の木曽川以南は遠山荘に属し、当初は摂関家領、後に近衛家領となった。(近衛家所領目録の中に遠山荘が記されている。)
  • 中津川市蛭川の和田川以西と、恵那市中野方町、笠置町、飯地、加茂郡の東部にかけては蘇原荘に属していた。
  • 現在の長野県木曽郡の南部は小木曾荘に属し、高山寺方便智院領であった。
  • 現在の長野県木曽郡の北部は大吉祖荘に属し、東鑑文治2年3月12日の條には宗像少輔領との記述がある。

太閤検地

要約
視点

天正年間に豊臣秀吉の命により、全国で太閤検地が実施された結果は、美濃国は54万石、恵那郡は34,3102斗6升5合であった。太閤検正保書上帳による恵那郡の78ヶ村の石高については以下の通り。

太閤検地での石高
  • 尾張藩
    • 中津川村1,334石6斗3升6合
    • 手金野(手賀野)村446石5斗4升
    • 駒場村772石
    • 落合村480石4斗1升
    • 川上村180石
    • 付知村284石8升
    • 加子母村1,189石5升
    • 千旦林村552石6斗2升
    • 大井村512石6斗4升
    • 正家村873石2斗7升
  • 旗本茄子川馬場氏領と尾張藩の山村氏(木曽方)・干村氏(久々利方)領
    • 茄子川村1,367石6升
  • 天領(高山陣屋
    • 下野村367石1斗
  • 苗木藩
    • 日比野村996石2斗1升
    • 上地村95石9斗
    • 瀬戸村133石
    • 坂下村972石4斗3升
    • 上野村255石
    • 田瀬村295石
    • 福岡村739石
    • 鷹山(高山)村340石
    • 蛭川村880石9斗9升
    • 毛鹿母(毛呂窪)村362石5斗2升
  • 以下の3村については、加茂郡の太閤検正保書上帳に記載されている。
    • 姫栗村439石4升
    • 川合(河合)村217石
    • 中之方(中野方)村554石4斗4升
  • 岩村藩
    • 岩村828石6斗7升
    • 飯羽間村293石8斗
    • 富田村1,613石
    • 阿木村1,589石6斗4升
    • 飯妻(飯沼)村459石8斗8升
    • 東野村1,225石3斗9升
    • 中野村531石4斗5合
    • 永田村257石8斗9升
    • 久須見村1,057石6升
    • 竹折村304石5斗
    • 藤村962石5斗5升
    • 野井村492石9斗7升
    • 佐々羅木(佐々良木)村641石9斗4升
    • 椋実村52石7斗2升
    • 上村649石5斗5升4合
    • 下村226石9斗4升
    • 漆原村114石4升
    • 小田子村121石2斗7合
    • 串原村1,028石2升6合
    • 澤中村17石2斗6升
  • 岩村藩領と尾張藩
    • 馬場山田村1,656石4斗7合1升
  • 旗本明知遠山氏
    • 明知村684石1斗1升2合
    • 上田村56石7斗6升6合
    • 大栗村50石6斗
    • 田良子村157石4升
    • 吉良見村161石2斗8升
    • 大船村103石2斗2升4合
    • 小泉村101石2斗
    • 柏尾村17石4斗6合
    • 岩竹村26石6斗1升2合
    • 安主村14石1斗6升8合
    • 土助村34石3斗2升8合
    • 才坂村32石4斗7升4合
    • 阿妻村90石3斗5升
    • 颪須淵村7石1斗
    • 浅谷村104石3斗2升
    • 一色村20石
    • 野原村339石7斗
    • 野志村214石7斗
    • 小杉村51石6斗1升2合
    • 落倉村24石3斗7升2合
    • 馬木村30石2斗4升
    • 馬坂村13石8斗6升
    • 高波村136石1斗
    • 嶺山(峰山)村32石1斗5升9合
    • 杉平村75石6斗
    • 門野村161石4斗8升
    • 久保原村540石7斗
    • 上手向村708石4斗
    • 下手向村383石6斗
    • 釜屋村456石5斗7升
    • 田代村97石4斗1升2合
    • 原村223石3斗
    • 猿爪村240石1升4合
  • 天領(当初は旗本小里氏領であったが廃絶になったため天領となる)
    • 水上村173石5斗7合4升
    • 大川村176石4升

江戸時代以降

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沿革

要約
視点

町村制施行以前の沿革

さらに見る 知行, 村数 ...

 尾張藩領内における木曾衆の領地   

  • 落合村480石8斗7升 (山村甚兵衛 240石2斗5升・千村平右衛門 240石2斗5升)
  • 中津川宿 (山村甚兵衛 1,334石6斗3升)
  • 駒場村 (千村平右衛門 772石)
  • 手金野村(手賀野村) (山村甚兵衛 456石5斗4升)
  • 千旦林村552石6斗2升 (山村甚兵衛 126石3斗1升・千村平右衛門 126石3斗1升・山村八郎左衛門 300石)
  • 茄子川村1,368石6升 旗本茄子川馬場氏との立会。(茄子川馬場氏275石・山村甚兵衛 350石・千村平右衛門 125石・原十郎兵衛 156石6斗・千村助右衛門 145石・山村一學 130石・千村次郎右衛門 119石・三尾左京 86石)
  • 正家村 873石2斗7升(山村甚兵衛 200石・千村平右衛門 400石・三尾左京 300石)

大区小区制

明治5年4月9日(1872年6月10日) - 大区小区制の施行により、恵那郡は岐阜県第十二大区とされた。郡内には63ヶ村があったが、11の小区に分けられた。

明治11年(1878年)7月22日 - 地方三新法の一つである郡区町村編制法の制定により大区小区制は廃止された。

自治体の変遷

  • 明治5年
    • 5月 - 上飯羽間村、中飯羽間村、下飯羽間村、根上村が合併し飯羽間村となる。
    • 8月 - 上村、島村、飯田洞村、小笹原村、横道村、木實村が合併し上村となる。
  • 明治7年(1874年)9月[10]
    • 馬木村・馬坂村・高波村・峰山村・小杉村・落倉村・澤中村が合併して東方村となる。(75村)
    • 日比野村が改称して苗木村となる。
  • 明治8年(1875年)1月 - 以下の各村の統合が行われる[11]。(63村)
    • 大泉村 ← 小泉村、大船村
    • 大田村 ← 上田村、田良子村、大栗村
    • 杉野村 ← 門野村、杉平村
    • 浅谷村 ← 浅谷村、須淵村
    • 野原村 ← 一色村、野原村
    • 横通村 ← 颪村、柏尾村、岩竹村、安主村、土助村、才坂村
    • 瀬戸村 ← 上地村、瀬戸村
  • 明治12年(1879年2月18日 - 郡区町村編制法の岐阜県での施行により、行政区画としての恵那郡が発足。郡役所が大井村に設置。同日大区小区制廃止。
  • 明治14年(1881年) - 郡役所が中津川村に移転。

町村制施行以降の沿革

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恵那郡略図(1906 - 1933年)

変遷表

さらに見る 明治以前, 明治元年 - 明治22年 ...
自治体の変遷
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行政

歴代郡長
さらに見る 代, 氏名 ...

恵那郡役所と郡会

明治11年(1878年)7月22日 - 帝国議会において地方三新法の一つである郡区町村編制法が制定され大区小区制を廃止して各町村を独立させることが決まった。岐阜県は明治12年(1879年)2月18日に大区小区制を廃止して町村を独立させて新たに郡治分割を通達し、旧来からの郡の名称を踏襲して郡役所の位置を指定し、郡村行政区域を明らかにして郡長を選任した。明治12年2月25日に山村良貴が初代恵那郡長に任ぜられるとともに、中山道大井宿の旧本陣に恵那郡役所の仮庁舎が設けられたが、2年後の明治14年(1881年)1月15日に中津川村に移転した。

明治30年(1897年8月1日郡制が施行され、8月25日に郡会議員選挙が行われ、各町村選出議員20名、大地主議員5名、総数25名であった。9月16日に第一回目の郡会が招集され法律の定めるところによって役員の選挙を行い、恵那郡会が成立し、郡の自治制が完備した。

  • 明治32年(1899年)3月に郡制の一部改正が行われた。
  • 大正12年(1923年)4月1日、郡会が廃止されるが、郡役所は存続。
  • 大正15年(1926年)7月1日、郡役所が廃止となる。

恵那郡の警察

(警察署)中津町、(分署)岩村町、(警部補派出所)大井町、(巡査部長派出所)または(巡査駐在所)付知町、坂下町、明知町に置いた。

恵那郡の裁判

裁判事務は岐阜地方裁判所御嵩区裁判所の管轄下にあり、中津町、岩村町、大井町、明知町、付知町に出張所を置いて登記事務を扱った。

恵那郡の陸軍管区

第三師管第五旅管岐阜連隊区に属した。

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脚注

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参考文献

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関連リンク

関連項目

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