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江戸幕府が大名に作らせた国絵図 ウィキペディアから
正保国絵図(しょうほうくにえず)は、日本の江戸幕府が、諸大名に命じて国単位で作らせた国絵図で、これに基づき、正保日本図(日本総図)が作成された。
原本の大半と総図は、皇国地誌編纂中の1873年(明治6年)、皇城火災により消失したが、複製(国立歴史民俗博物館所蔵)が伝わっている。現存する国絵図は、羽後、出羽、秋田、仙北、出羽六郡、庄内三郡、新庄領、奥州南部十郡、南部領、山城、摂津、安芸、対馬、筑後、豊後[1]。また、提出もととなった各地の大名家ゆかりの原本の原本や、写本が残されている例[2]がある。
正保元年(1644年)郷帳(正保郷帳)、城絵図(正保城絵図[3])などと併せて、作成が命じられた。大目付井上政重が作成責任者として事業にあたったが、完了は慶安4年(1651年)よりかなり後となった。
数年がかりで国ごとに報告書が提出され、幕府文庫である紅葉山文庫に収蔵された。作成単位は原則として国で、蝦夷地や琉球についても作成されている。寛文9年(1669年)には、北条氏長を責任者として校訂事業が行われている。
幕府の国絵図事業は4回行われているが、1回目の慶長国絵図は慶長9年(1604年)から、主に西日本について作成された(その後、元和3年(1617年) - 寛永15年(1638年)にかけ、数度の補遺を行っている)。正保国絵図は、2回目にあたり、全国68ヶ国についてすべて収集され、主に軍事と交通関連の情報が記載されているほか、縮尺も1/21600(1里6寸)に統一される[4]など、実用性が意識されていた。
その後、元禄10年(1697年)から開始された元禄国絵図[5]では仕様の統一が図られ、天保6年(1835年)に開始され、唯一現存する天保国絵図[6]では、幕府が主体となって編纂に当たっている。
明暦3年(1657年)に、明暦の大火による被災により正保国絵図を焼失したことにより、幕府の願い出により、国絵図の再提出が行われてたことが、一部の国で確認されている[7]。
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