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K.F.Cとは、かつて川口屋林銃砲火薬店(かわぐちやはやしじゅうほうかやくてん、後の株式会社川口屋[1]が展開した散弾銃及び装弾・銃砲用品ブランドである。
明治維新後の国内情勢がひとまず安定してきた明治10年代中頃(1880年代)、日本政府は江戸時代より火縄銃を手掛けていた鉄砲鍛冶や火薬商達に、銃砲火薬類の製造及び販売の免許を許可する事で、日本国内の銃器産業の振興を図っていた。村田経芳の下で村田式散弾銃の製造を本邦で初めて開始した松屋兼次郎や、後のSKB工業の創始者である阪場志業、モリタ宮田工業の創始者である宮田栄助らの鉄砲師と共に、この時期に銃砲火薬商としての免許を得た商人の一人に、川口亀吉(かわぐち-かめきち)が居た[3]。
川口は明治20年(1887年[4]、東京府・日本橋の馬喰町[5]にて銃砲火薬店を開業、屋号として川口屋(かわぐちや)を掲げ、村田銃の製造や欧米諸国の元折式散弾銃の輸入販売、銃砲に関連する部品や用品類の販売を行っていた。この川口亀吉による川口屋の創業が、K.F.C.ブランドの原点の一つである。
K.F.C.ブランドのもう一つの原点は、長野県諏訪郡岡谷(現・岡谷市)にて代々生糸商を営んでいた林家出身の初代・林国蔵(はやし-くにぞう、弘化3年(1846年)-大正5年(1916年)、國蔵とも)である。
林家は国蔵の父、林倉太郎(はやし-くらたろう)の代より製糸業にも進出し[5]、片倉兼太郎や尾澤金左衛門[注釈 1]らと共に開明社(かいめいしゃ)を設立して、岡谷一帯の製糸業の地盤を築いていた[6]。明治19年(1886年)、倉太郎の死去により国蔵が林家の家督を継承すると、中国(清)産の繭の輸入や炭鉱開発[7]、中央東線誘致など実業家として様々な活動を行うようになる[5]。
国蔵は明治24年(1891年)頃より東京に進出[5]、川口亀吉の川口屋とも誼を結ぶ事となるが、明治26年(1893年)に亀吉が死去すると、国蔵は亀吉が保有していた銃砲・火薬販売業の免許を継承し、本業の製糸業の傍ら東京日本橋区本銀町に「川口屋林銃砲火薬店」を経営し銃砲火薬販売にも進出する事となった[8][9]。
明治26年、川口亀吉より銃砲火薬商の免許を継承した林国蔵は、亀吉に敬意を表し旧・川口屋の屋号を川口屋林銃砲火薬店(かわぐちやはやしじゅうほうかやくてん)に改め[8]、店舗も馬喰町から本銀町へと移転した[5]。明治33年(1900年)時点では英語社名は「Kawaguchiya Firearms & Ammunetion」とされており、K.F.C.の呼称はまだ使われてはいなかった[10]。
川口屋林銃砲火薬店は発足当初は旧・川口屋の事業に基づき、英国製二連散弾銃の輸入販売や村田式散弾銃の製造販売などを行っていたが、明治39年(1906年)からは大日本帝國陸軍の造兵廠が平時の収益事業として行っていた爆薬(ダイナマイト)の払い下げ販売にも携わるなど、徐々に事業を拡大していった[8]。また、川口屋林銃砲火薬店は発足当初より村田式散弾銃の量産の為に多数の銃工を擁していたが、その多くが東京砲兵工廠にて軍用村田銃の製造に携わる事で製銃技術を磨いた職工達であった[3]。当時の工場長は入村惣太郎で、入村の門下には大正8年(1919年)に上野・不忍池畔にて開催された畜産工芸博覧会にてハンドメイドのサイドロック式水平二連散弾銃を出品し、陸軍造兵廠より金牌を受賞した本邦屈指の水平二連の名工、石川幸次郎が居り[11]、川口屋林銃砲火薬店は入村の指揮の下、輸入に頼っていた水平二連散弾銃の内国製化(国産化)にも乗り出し始めた。
川口屋林銃砲火薬店は明治44年(1911年)頃、W.W.グリーナー製の無鶏頭(インナーハンマー)・ボックスロック式、横安全装置[12]付水平二連散弾銃の国産化に成功、これを新聞広告を通じて日本全国に通信販売による販売を開始した[13]。この内国製グリーナーは大正11年(1922年)時点では響號(ひびきごう)の愛称が与えられており[14][15]、海外を中心に[16]極僅かな数が現存しているが、当時の時点でも1挺約40円と[13]、30番径の村田式散弾銃の約4倍[17]という高値であった。
大正年間に入ると、海外ではK.F.C. M12[18]とも呼ばれるグリーナー式横安全装置を備えた元折単身銃(単身単発銃)や、二十二年式村田連発銃のコイルばね式遊底を採用した新式村田猟銃なども製作されたが[19]、当時の川口屋林銃砲火薬店の競合店で類似した形態の銃砲製造を行っていた横浜の金丸銃砲店を例にとると、年間に製造販売される猟銃のほとんど全てが村田式で、水平二連や元折単身[20][注釈 2]は年間を通じても多くて4挺程度しか売れないという程度の市場規模でしかなかったという[21]。
川口屋林銃砲火薬店は大正3年(1914年)時点で日本全国の銃砲店・火薬店の筆頭格に発展していたようで、同年発行の『大日本銃砲火薬商名鑑 : 附・営業法規』の発行を手掛けており、同書内で林国蔵は緑綬褒章受賞[22]、川口屋林銃砲火薬店は宮内省御用達[23]といった往時の業績が記述されており、また当時の川口屋林銃砲火薬店は長野県の林本店を母体に、上十条に十條導火線製作所といった導火線事業の関連会社[24]を有しており、ロゴマークとしては「一+山(記号)+力」を重ね合わせた林国蔵の屋号紋をそのまま使用していた事[23]などを窺い知る事が出来る。この頃には『営業案内』と称する100頁以上にも達する大判の型録を通年発行するようになり、電報を用いて全国にカタログ販売を行う通信販売手法も確立、大正時代末には輸入元がアメリカ合衆国、イギリス帝国、ヴァイマル共和国(ドイツ国)、ベルギー王国の4ヶ国に拡大した[25]。
大正15年/昭和元年(1926年)頃には、空気銃を中心に自社製銃器の国外輸出も開始[4]。川口屋林銃砲火薬店(以後K.F.C.)は、これ以降遅くとも昭和5年(1930年)頃まで[注釈 3]には自社製の村田銃やグリーナー式水平二連銃などにKawaguchiya Firearms Compenyの頭字語であるK.F.C.のロゴを用い始めた。これがブランドとしてのK.F.C.の始まりである[26]。昭和6年(1931年)には新社屋が完成、昭和48年(1973年)に現社屋である川口屋ビルへの移転まで使用されたモダンなオフィスビルは[8]、長野県出身の建築家である柴田太郎の代表作の一つでもあった[27]。
K.F.C.は戦前には帝國陸軍及び帝國海軍の将校向けにコルトM1903等の海外製拳銃の輸入販売なども行っていたが[28]、同業他社の例に漏れずK.F.C.も第二次世界大戦に大きく社運を揺り動かされる事になる。
昭和12年(1937年)、支那事変(日中戦争)勃発に伴い日本国内が準戦時体制に入ると、翌昭和13年(1938年)に村田式散弾銃を始めとする猟銃は「不要不急の贅沢品」としてその輸入及び生産の一切が禁止された[3]。空気銃及び、狩猟用品や猟銃の補修部品の製造販売のみは辛うじて継続できたものの、主力事業の一角を失ったK.F.C.は軍需産業への協力にその活路を見出し、水平二連散弾銃にて培った製銃技術を応用して帝國海軍向けの信号拳銃である九七式信号拳銃や、マルティニ・ヘンリー銃を応用した索投擲銃の製造に携わった[29]。これらの軍用向け銃器にも引き続きK.F.C.のブランド名が用いられていたが、昭和14年(1939年)に欧州で第二次世界大戦が勃発すると敵性語としての英語追放運動の影響がK.F.C.にも波及し、大東亜戦争が勃発し日本国内が総力戦の戦時体制に移行した昭和16年(1941年)、川口屋林銃砲火薬店はついに軍用を含む全ての自社製銃器へのK.F.C.のロゴの打刻を中止し、やむなく旧商号である「川口屋」をロゴとして自社製銃器に打刻するようになった[29]。こうした状況は昭和20年(1945年)の日本の敗戦まで続く事になる。
昭和23年(1948年)[30]、K.F.C.は戦中も辛うじて存続していた空気銃の製造[3]を再開する形で製銃事業に復帰。戦後K.F.C.の販売網で販売された空気銃は、バーミンガム・スモール・アームズ(BSA、現:ガモ)のBSA・リンカーン・ジェフリーズ空気銃[31]のデッドコピーとも評価される[30]自社製のK.F.C.・アサヒ空気銃と、阪場銃砲製作所からOEM供給されたSKB・M3及びSKB・M53空気銃の三種類が知られている[4]。K.F.C.に限らず日本国内の空気銃事業は、昭和30年(1955年)の銃砲刀剣類等所持取締令改正によって、それまでの玩具としての扱いから猟銃と同じ武器としての扱いに移行した事により急激に市場規模が縮小していき、K.F.C.・アサヒ空気銃は同年中に製造を中止、K.F.C.の空気銃事業自体も昭和33年(1958年)の銃刀法施行による更なる規制強化や、シャープ・ライフルなどの空気銃を専業とする後発企業が台頭して来る中、昭和38年(1963年)(新)狩猟法の改正を待たずして、昭和35年(1960年)頃までに終了した[30][32]。
昭和25年(1950年)、連合国軍総司令部(GHQ)は連合国軍占領下の日本に対し、平和産業の一環として猟銃の製造再開を許可[3]。昭和26年(1951年)には高知県のミロク工作所が元折式単身銃により戦後の散弾銃市場に参入した。しかし、銃工の弥勒武吉及び井戸千代亀を創業者として擁したとはいえども、元々は捕鯨砲のメーカーとして創業したミロクは漁港関係以外に有力な販売網を持たなかった事から、戦前以来の猟銃業界の大手であったK.F.C.に自社の散弾銃をOEM供給し、全国展開を行う事としたのである[33]。ミロクが捕鯨の際に使用する事を目的とした鯨に標識を撃ち込む為の標識銃をK.F.C.側が高く評価し、猟銃製作への応用を打診した事も両社の提携の後押しとなった[34]。ミロクはK.F.C.と提携した翌年の昭和27年(1952年)には水平二連散弾銃、昭和36年(1961年)には上下二連散弾銃のK.F.C.・Oシリーズを発売した[33]。
ミロクからOEM供給された元折二連散弾銃は、海外ではボックスロック式水平二連は英国のアンソン・アンド・デイリー[35]、サイドロック式水平二連のK.F.C.・Fシリーズはホーランド・アンド・ホーランド[36]、上下二連のK.F.C.・Oシリーズはブローニング・スーパーポーズドの影響[37]を強く受けた設計であると評価され、そのどれもが非常に精緻な仕上げと品質を持つものとして認知されており、日本国内でも多数のセールスを記録した。
実例としては、米国のアウトドア誌「フィールド・アンド・ストリーム」が平成19年(2007年)に選出した「The 50 Best Shotguns Ever Made(今までに製造された散弾銃のベスト50)」では、ミロクがK.F.C.時代の昭和38年(1963年)にチャールズ・デーリー社を通じて北米輸出を行っていた[38]チャールズ・デーリー-ミロク上下二連[注釈 4]は、同年にオリン晃電社で製造が始まったウィンチェスター M101上下二連共々「それまでジャンク品と同義であったMade in Japanに対する米国人の認識を根本から覆した、ライジングサンの如き銃であった」という評価が与えられており[39]、米国人の銃器研究者であるチャック・ホークスは、チャールズ・デーリー-ミロク時代の水平二連にも高い評価を与えており、「チャールズ・デーリー-ミロク M500[注釈 5]は当時のリテール価格から考えても過剰品質に近い造りであり、今日の中古市場でも未だ過小評価気味の価格な為、程度の良いものがあれば購入に値するだけの価値がある。」と記していた[40]。
クレー射撃に於いては、K.F.C.が昭和38年(1963年)よりニュージーランドのアトラス・トレーディング社を通じてオセアニア方面への輸出を行っていたKawaguchiya Model OT[注釈 6][41][42]が、1963年のマッキントッシュ杯[注釈 7][43]トラップ射撃において、ニュージーランド選抜チームのジェラルド・F・メッセンジャーにより320枚満射という記録を叩き出している。メッセンジャーは1962年のニュージーランド北島選手権よりK.F.C. OTを用いて勝利を重ね[44]、1963年のニュージーランド選手権を制覇する[45]などの活躍を見せており、アトラス社は昭和40年(1965年)にはK.F.C. OT/OM/OS上下二連の他、K.F.C. M33単発単身銃の輸入を手がけていたが[46]、ミロクは同年3月よりオーストラリアのフラー・ファイアーアームズ社と提携してスターリング-ミロク[注釈 8]ブランドを立ち上げ[47]、以降オセアニア方面にはフラー社を通じての輸出に切り替えられたため、同年11月までにはアトラス社を通じた輸出は終了した[48][注釈 9]。
なお、実際にはサイドロックや両引引金モデルの水平二連を除いては[49]、K.F.C.の上下二連は昭和40年(1965年)の時点で撃鉄ばねに松葉ばね[50][51]、ボックスロック水平二連の単引引金モデルは昭和43年(1968年)の時点で撃鉄ばねにコイルばねを用いる[52]など、手本とされた銃にミロク独自の改良が加えられていた。
昭和35年(1960年)には、村田式猟銃向けの真鍮薬莢の納入実績があった旭大隈工業(AOA)と共同で紙製薬莢を用いた散弾実包の既製品(機械詰装弾)の発売も開始し[53]、同年以降10年間で猟銃所持者の数が3倍になるという空前の好況の中、K.F.C.は着実に業績を伸ばしていった[33]。
K.F.C.は戦前より海外の銃器メーカーの輸入代理店を数多く務めていたこともあり、海外メーカーとのライセンス契約でも強みがあった。昭和40年(1965年)、K.F.C.は戦前に軍用機関銃製造で実績があったパインミシン製造(シンガー日鋼)に製造委託し、反動利用式半自動式散弾銃のブローニング・オート5を国産化[54]したK.F.C.・パインオート(単にK.F.C.オートとも)の販売を開始。パインオートは当時本家のオート5にもまだ存在しなかった外装式の交換チョークを国産散弾銃で史上初めて[55]採用していた[56]事が最大の特徴で、本家オート5との部品の互換性も高かった事から[57]、オート5の銃身を交換チョーク化する目的で、パインオートの銃身のみを替え銃身として転用する用途でも後年まで重宝された。
なお、この時採用された外装式交換チョークは全絞り(フルチョーク)・半絞り(ハーフチョーク)・スキートの3種類が用意され[2][55]、シンガー日鋼が後年製造した全ての半自動散弾銃の銃身で採用されたが、K.F.C.のオリジナルではなくイタリアのブレーダが昭和28年(1953年)に発売した反動利用式オートのブレーダ・アルテアで、散弾銃史上初めて[58]採用された交換チョークシステムであるクイックチョークシステム[59]と非常に類似したものであった。
K.F.C.の銃器事業の絶頂期は第18回オリンピック競技大会(1964年東京オリンピック)が開催された昭和39年(1964年)前後で、雑誌広告[60]だけでなくテレビCMを打てるだけの実力を持っており[61]、昭和43年(1968年)には旭精機と共同出資で樹脂薬莢を用いた機械詰装弾メーカーである東京カートリッジ株式会社も設立[53]、火薬卸売部門も昭和38年(1963年)に日本火薬卸売業会理事、次いで昭和46年(1971年)には同理事長にK.F.C.の林英男が就任するなど[62]、文字通り日本の銃器業界で最大手の地位を確かなものとしていた。
しかしその一方で、K.F.C.を通じて販売されるミロク製元折二連散弾銃は、弥勒武吉と井上千代亀の頭文字にちなんだミロク本来のブランド名であるB.C. Mirokuを直接名乗る事は許さず、代わりにB.C. My luckというロゴの表記のみで妥協せざるを得ない状況を強いていたのも事実であり、ミロクはK.F.C.が国内向け散弾銃の増産を指示する中、「将来を見越した」経営戦略として昭和41年(1966年)に米国ブローニング・アームズ、昭和46年(1971年)にはベルギーのファブリック・ナショナルと相次いで業務提携を行い、「時期の到来を待つ」という、K.F.C.にとっては不穏な動きを見せ始めていた[33]。
昭和47年(1972年)、ミロクは日本油脂と合同で独自の販売会社であるニッサンミロク株式会社を設立し、K.F.C.との提携関係は遂に破談に至った[33]。海外展開もブローニング・アームズとミロク-ブローニングとも呼ばれる強固な協業関係を新たに構築、事実上同社が設計した銃器のほとんどをOEM供給する体制となり、同社の販売網の下で全世界に向けた展開を行うこととなった[63]。
以後、ミロク製作所が製造する元折二連散弾銃の多くは国内でも「B.C. Miroku」ブランドで販売される事となり、K.F.C.は主力商品であったK.F.C.・Oシリーズ上下二連のみならず、水平二連の殆どと元折単身銃のラインナップが一挙に失われる事態となった。水平二連は辛うじてK.F.C.・MKシリーズが引き続きミロクより供給されたが、K.F.C.は同年以降装弾事業を除いては事実上シンガー日鋼のみが銃器事業の頼みの綱となった。
K.F.C.は同年中にイタリアのピエトロ・ベレッタと技術移転契約を結び、同社のガス圧作動方式半自動散弾銃であるベレッタA300ガスオート[64]をシンガー日鋼を通じて国産化し、K.F.C. M100ガスオート(単にK.F.C.ガスオートとも)として販売を開始した。K.F.C.ガスオートは高い信頼性で世界的な評価を得ていたベレッタA300に、K.F.C.オート以来の外装式交換チョークを組み合わせるというユニークな構成でそこそこの販売実績を収めたが、機関部左側面には「UNDER LICENCE OF BERETTA」と大書しなければならないという、ある種珍妙な状況を強いられる事にもなった[65]。なお、本家A300シリーズが内装式交換チョークを採用するのは1980年登場のベレッタA302以降であり[66]、K.F.C.ガスオートは交換チョークが利用可能なA300として日本市場で一定のシェアを獲得する事に成功した。
しかし、K.F.C.やシンガー日鋼の技術陣はベレッタA300のライセンス生産は飽くまでも次期モデルの登場までの繋ぎと考えていたようで、日本国内全体の散弾銃の販売実績が急速に下降していく事になる昭和50年(1975年)以降、独自設計のガスオートの技術開発を積極的に進めていく事になる。昭和51年(1976年)、K.F.C.は当時の社長である林久男(はやし-ひさお)の指揮の下、管状弾倉の内側にガスピストンを配置する(インナーピストン方式)ベレッタA300の構造を基礎として、銃身と管状弾倉の間に小型のガスピストンを配置し、ショートストロークピストン方式とした新型のガスオートの基本概念[67][68][69][70]、レミントンM1100などガス圧作動方式の半自動散弾銃で一般的に用いられているロッキングブロック方式の作動機構に、M1ガーランドなどの軍用制式小銃で用いられるロータリーボルト方式の要素を加える事で遊低レバーの抜け止め機能[注釈 10]を実装した新型の遊底[71][72][73]、一般的な半自動式散弾銃と同じ機能性を持ちながら部品点数を減少させた新型の送弾機構[74][75][76][77]や引金機構[78][79]などの日本及び米国特許や実用新案を取得し、これらの特許を元にした新型ガスオートであるK.F.C. M250 ニュー・オートローダーを完成させ、昭和52年(1977年)より欧州向け及び日本国内向けに出荷を開始した。
管状弾倉を持つガスオートのガスピストンの構造は大きく分けて2つあり、管状弾倉の外側にドーナツ型のガスピストンを持つもの(レミントンM1100[80]、SKB M1900ガスオート、ウィンチェスターM1400[81]、ウィンチェスター・スーパーX・M1[82]など)と、管状弾倉の先端に円筒形のガスピストンを持つもの(フジ スーパーオート、ブローニング・B-2000[83]、ウェザビー・センチュリオン[84]、ベレッタA300、ブローニング・ゴールド[85]など)に大別されるが、前者は散弾実包の種類毎に異なる装薬量に合わせてガス圧を自動調整する機構を組み込む事が難しく、後者はガス圧の自動調整機構の実装が比較的容易な反面管状弾倉の延長が難しい[注釈 11]という欠点がそれぞれ存在している。また、どちらの構造もガス圧が作用するピストンとガス圧により前後する遊底の配置が直列ではないため、複雑な形状の連結桿[注釈 12]を用いなければならず、経年劣化による金属疲労の蓄積や極端な強装弾の使用などにより過度の負荷が掛かるなどの要因で連結桿の強度が弱い部分が折損しやすい欠点が存在している。強度や耐久性を重視して連結桿を強固にすると、重量が嵩む事になり遊底全体の慣性質量が増加して射撃の反動が大きくなる要因ともなる。K.F.C.ニュー・オートローダーはこのどちらの構造とも異なり、銃身と管状弾倉の間に小型のガスピストンを配置する事で遊底とガスピストンの配置が直列になると共に、連結桿(ピストン桿)も細長い棒状のものを用いてショートストロークピストン式とする事で耐久性の向上と軽量化による反動の低減が指向されている。このような構造は軍用制式小銃では豊和工業の64式7.62mm小銃やソビエト連邦のSKSカービンと類似しており、半自動式散弾銃ではベレッタA300の前身であるベレッタM60/61がほぼ同じ構造を採用していた。M1ガーランドのピストン桿の構造[86]をほぼ踏襲したベレッタM60/61[87]では、装弾重量34グラム以下の散弾実包では回転不良を起こしやすい欠点が存在していたが[88]、K.F.C.ニュー・オートローダーは軍用銃やベレッタM60と異なり、ピストン桿を二分割の伸縮構造としていた[89]。このピストン桿はK.F.C.では「ホリゾンタル・ストローク・アクション・バー」と称されており、伸縮部分の継ぎ目には多数のワッシャーが配置され[90]、射撃時にはピストン悍の伸縮に応じてこのワッシャーが衝突球のように作用して伸縮に伴う衝撃を増減させる事で、ガス圧の多寡に関わらず軽装弾から重装弾まで支障なく回転する構造を実現していた。ガスピストンが玉突き式にガス圧を遊底に伝達する構造は軍用銃ではM1カービンがタペットピストン式として実用化しており、K.F.C.はこの概念を応用したものとみられている[91]。
なお、このような構造は2010年代現在ではベネリ・アルミ・SpAのベネリ M4 スーペル90がほぼ同じ構造[注釈 13]をベネリ・ARGOシステム[92][93]として採用している。
昭和55年(1980年)、銃刀法の強化に伴い散弾銃の国内出荷数が最盛期(1968年)の7%程度まで縮小するという壊滅的な需要縮小が発生し[94]、翌昭和56年(1981年)には競合他社であるオリン晃電社やSKB工業なども次々に倒産していった[3]。K.F.C.の元社員である松倉幹男によると、K.F.C.自体は昭和55年を最後に更なる衰退が予測される銃器事業そのものに既に見切りを付け始めており、銃器・装弾以外の事業に活路を見出す事を模索する状況であったという[95]。
しかし、K.F.C.とシンガー日鋼の銃器部門は海外市場への進出に一縷の望みを託し、同年に戦前以来となる北米市場への輸出を開始する。K.F.C.の要請を受けたシンガー日鋼は、M250ニュー・オートローダーと共にK.F.C.・Eシリーズ及びK.F.C.・FGシリーズ元折上下二連散弾銃[96][97]をOEM製造し、K.F.C.を通じて国内向け出荷の他、北米市場への輸出も行ったが、K.F.C.は昭和61年(1986年)には北米市場からの撤退[98]を余儀なくされ、昭和末期にK.F.C.はシンガー日鋼と共に国内の散弾銃事業からも全面撤退した。
銃器事業末期には従来より採用していた外装式交換チョークの構造に、他社の内装式交換チョークの要素を折衷して内装式の欠点の克服を図った新型の交換チョーク機構[99]や、将来的な装填数増加を認める法令改正を見込んだ可変式の装填数制限構造[100]なども開発されたが、銃器事業の縮退が余りにも急激であった事から、それらが生かされる事はなかった。
平成元年(1989年)5月[62]、川口屋林銃砲火薬店は株式会社川口屋へと商号を変更し、名実共に銃器事業から脱却した企業へと転身した[8]。川口屋の銃器部門に最後まで協力を続けたシンガー日鋼は、K.F.C.の銃器事業撤退後に本業であるミシン事業へと回帰したが、平成11年(1999年)に親会社である米国シンガー社の倒産に連鎖する形で消滅した。
川口屋の創業以来の産業向け火薬・爆薬卸売業は社名変更後も暫くは継続されたが、平成12年(2000年)10月に日本化薬へと火薬卸売部門を売却し、同部門からも事実上全面撤退した[62]。川口屋の火薬卸売部門は日本化薬に売却された後、同社の子会社である株式会社カヤテックとして存続している[101]。
川口屋の主力事業は2010年代現在、1970年代末に松倉幹夫らが先鞭を付けた展示会事業[95]などが中心で、創業以来の火薬販売事業は僅かに発煙筒事業や聖火トーチ事業が残るのみとなっているが、平成30年(2018年)時点で全国火薬類保安協会の正会員としては引き続き在籍している[102]。
なお、現在の事業内容は不明であるが「川口屋林銃砲火薬店」という商号自体は、東京都あきる野市に所在する川口屋福生事務所の所在地を本拠とする形で2018年現在も残置されている[103]。
明治時代より村田式猟銃などの真鍮薬莢・黒色火薬を用いる銃器を販売していたK.F.C.は、口巻器(ロールクリンパー)、口締器[注釈 14]、雷管詰替器、フェルトワッズ(送り)などの手詰装弾(ハンドロード)用品や、負革や装弾ベルトなどの狩猟用品、狩猟・射撃用ベストやハンチング帽などの衣類、洗矢などの銃器の手入れ用品などを欧米から輸入していたが、昭和30年代中盤にはこれらの殆どを国産化しており[2]、鼓型空気銃弾などの空気銃用品もK.F.C.・アサヒブランドで販売が行われた[104]。
村田式猟銃に用いられる真鍮薬莢は、昭和20年(1945年)の敗戦までは帝國陸軍造兵廠からの器材の払い下げにより設立された帝国薬莢株式会社(TYK)[105]より供給を受けていたが[26]、戦後は昭和25年(1950年)より日邦工業(NPK)[106]、昭和32年(1957年)には旭精機工業(旧・旭大隈工業、AOA)[107]がそれぞれ参入し、真鍮薬莢の供給を引き継いでいた。
黒色火薬や無煙火薬、銃用雷管は昭和12年(1937年)の支那事変(日中戦争)勃発までは東京第二陸軍造兵廠(板橋火工廠)などが製造するものが販売されていたが[26]、同年以降は日本化薬や日本油脂(昭和金属工業)などが製造するものが供給されるようになった。特に日本油脂が昭和18年(1943年)以降供給したツバサ印無煙火薬は同社の猟用黒色火薬と並び、大戦末期から終戦直後の市井の狩猟家が入手可能な唯一のものであった[108]。
このような背景の中、K.F.C.の装弾事業に最も強い協力を行ったのが昭和33年(1958年)より紙製薬莢の製造を開始していた旭精機であった。旭精機は紙製薬莢の発売と同時にK.F.C.と共同で機械詰装弾(ファクトリーロード)の研究開発を開始し、2年後の昭和35年(1960年)に国産初の紙製機械詰装弾であるAOA エキストラ(射撃用)及びAOA ヒットマスター(狩猟用)が発売され[53]、昭和39年(1964年)までにはトラップ射撃用強装弾のAOA エキストラスーパー、スラッグ装弾のAOA ピューマロケットもラインナップに加わった[60]。
日邦工業も昭和38年(1963年)に紙製機械詰装弾(NPK ダイヒット、NPK マーキュリー)に参入。昭和43年(1968年)には日本油脂及び米レミントンと共同開発する形で国産初の樹脂製機械詰装弾を発売、SKB工業も旭化成と三井物産との三社提携で旭SKB株式会社を設立して樹脂製機械詰装弾への参入を伺う状況の中[109]、これらに対抗すべくK.F.C.と旭精機は樹脂製機械詰装弾の生産を専門とする新会社である東京カートリッジ株式会社を同年中に共同設立した[53]。東京カートリッジはベルギーのニュー・ラショウセイ社から製造設備を購入する形で生産体制が整備され、その生産能力は月産で最大100万発[53]に達するものであった。同社製の樹脂製散弾実包は全てK.F.C.ブランドを冠し[注釈 15]、AOAブランドの紙製散弾実包と共にK.F.C.の販売網で販売された[109]。K.F.C. エキストラ及びK.F.C. ヒットマスターの年間出荷弾数は、昭和41年(1966年)時点で1000万発を越えていたという[2]。
昭和46年(1971年)にダイセルが米オリン・コーポレーション[注釈 16]との技術提携という形で設立した日本装弾株式会社(現・サイトロンパイロテクニクス)[110]等の同業他社が、既に海外で樹脂製散弾実包の製造実績のある海外メーカーからの直接の技術移転により、海外メーカーのライセンス生産という形で散弾実包を国内製造していたのに対して、東京カートリッジ製のK.F.C.装弾は原則として国内で独自の技術開発が行われていた。
K.F.C.は樹脂製散弾実包発売の3年前の昭和40年(1965年)には独自の樹脂製カップワッズを開発し[111]、旭精機が製造していたK.F.C.装弾にK.F.C. セットワッズという名称で全面採用していた[2]。この樹脂製ワッズは散弾と火薬が装填されるカップ部分と衝撃を吸収するクッション部分が独立した構造で、日邦工業が採用していたレミントン型[112]や日本装弾が採用していたウィンチェスター型[113]のカップとクッションが一体となった形状のワッズと比較して製造コストが嵩む反面、カップ内に挿入されたクッションが射撃と同時に縮む事でカップの容積が増大し、カップ全体に全ての散弾が確実に保持される事から、銃腔が汚れにくく散開パターンもより安定したものが得られるという利点があった[2]。
K.F.C.はスラッグ弾の開発でも特筆に値する足跡を残している。K.F.C.は戦前はドイツ製のシュテンドバッハ・アイデアル鼓型弾頭を輸入販売し[114]、戦後は独自のフォスター型ライフルドスラッグ[注釈 17]であるK.F.C. ロケット実弾を製造販売[2]。紙製機械詰装弾発売以降はK.F.C. ピューマロケット装弾として販売が行われていたが[2]、昭和45年(1970年)に自社のロケット弾の命中精度を更に高める目的で、樹脂製クッションワッズを組み合わせた新型のスラッグ弾の開発を行った[115][116]。この時開発された樹脂製クッションワッズは特許資料内では尾翼ワッズと呼称されており、薬莢に装填される際にはロケット弾と尾翼ワッズはそれぞれ独立した部材であるが、発射の圧力で尾翼ワッズが圧縮されると反動を吸収すると同時に、ロケット実弾の後端の孔に尾翼ワッズの突起[注釈 18]が差し込まれてロケット弾と尾翼ワッズが一体化した構造になって飛翔するというもので、スラッグ弾頭の後部に凧の尾となるワッズを取り付けて飛翔を安定させる概念自体はドイツのブリネッキスラッグで既に確立されたものであったが[117]、独ブレネケ社が自社のブリネッキスラッグに樹脂製ワッズの採用を始めるのは、K.F.C.による特許取得の5年後の昭和50年(1975年)以降であり[118]、K.F.C.の特許内に含まれている数種類の尾翼ワッズのうち「細長い棒状の尾翼ワッズ」に相当する構造の採用は、昭和60年(1985年)のロットウェル製410番マグナム・スラッグが初出で、12番など大口径スラッグ弾にまでこの構造の採用が広まりプラムバタスラッグとして定着したのは、平成18年(2006年)にブレネケ社がブリネッキスラッグの発展型として特許取得[119]して以降の事である[120]。
K.F.C.は創業当時からの事業である爆薬・火薬卸売事業の中で、土木工事で行われる発破に関する幾つかの技術開発を行っている。
多くは爆薬設置の省力化[121]、低コスト化[122][123]に関するもので、火薬卸売事業を通じて大成建設など大手ゼネコンとのパイプを有していたK.F.C.は、銃器事業が斜陽に差し掛かっていた昭和61年(1986年)には新型の光波測距儀の開発[124]なども手掛けている。
など多数。当時のK.F.C.のカタログや価格表に依ると、村田式猟銃が当時の日本円で15円から30円前後、響號などの内国製水平二連・元折単身銃が20円から40円前後の価格帯であったのに対して、輸入品は比較的安価なベルギー製水平二連でも50円から100円前後、オート5は150円から200円台、英国製水平二連は250円から500円と大変に高価であった[25]。明治時代末の1円は2010年代現在の1円の約3800倍の価値であり、村田式猟銃でも当時の技術労働者の月収に相当する価格である[168][169]。
後にSKB工業となる阪場銃砲製作所は、戦後まもなくの時期から中折式空気銃で猟銃製造に復帰。K.F.C.の販売網で全国展開を行い、同時期に発足した初期のシャープ・ライフルとも資本関係があったとされている[176]。阪場銃砲製作所の空気銃製造は銃刀法改正で空気銃の法規制が大幅に強化される昭和30年代初頭には終了し、K.F.C.の販売網からも離脱していったが、それと時を同じくして昭和31年(1956年)に英国のウェブリー・アンド・スコット社製ボックスロック式無鶏頭水平二連銃[177]を参考に、SKB ローヤル水平二連[178]を発売。その安価さと頑丈さから晃電社や日本猟銃精器(NRS)といった先行メーカーを水平二連からの撤退に追い込み、ミロク製水平二連を擁するK.F.C.との2強体制が確立することとなった[179]。
なお、K.F.C.オートはカタログにラインナップされていた普及価格帯の製品以外にも、本家ブローニング・オート5におけるグレード6(通称金ブロ)やグレード5・グレード4(通称シルバーグレイ)に相当する極めて高級なモデル[54]の注文生産も受託していたものとみられ、海外を中心に僅かな数の現存品が残されている。K.F.C.オートの金象嵌[226]、シルバーグレイ[227][注釈 43]共に現存品の製造番号は10000台であり、販売開始後ごく初期の段階にしか存在しなかったとみられる。K.F.C.オートは国内では1972年よりベレッタA300ベースのK.F.C.ガスオートに置き換えられるが、欧州向け輸出は1976年頃まで継続されていたともいわれる[228]。シンガー日鋼はオート5のライセンス生産にあたり、オート5の構造上の弱点であった「銃身後退の衝撃で先台が割れる」事象を軽減するため、先台の内部に衝撃吸収材を配置するなど独自の改良も行っていたという[229]。
YGCは昭和36年(1961年)に大阪に設立されたミロクの半自動銃製造部門(現・香北ミロク)[230]。昭和38年(1963年)よりオート5を参考にヤマモト・オートポインターの製造販売を開始し、昭和47年(1972年)以降はオート5のOEM製造を直接手掛けることとなる。
K.F.C.のガス圧利用式半自動散弾銃は、ほとんどのモデルでK.F.C.オートの外装式交換チョークが転用できたことが特色である。
なお、シンガー日鋼が製造した上下二連はK.F.C.が独力で設計したものとみられ、銃身下部には「Manufactured by Singer Nikko Co.Ltd. Under Agreeve by K.F.C.(K.F.C.との合意の下、シンガー日鋼株式会社が製造した)」と打刻されていた[249]。
ミロクとの提携解消後、空白となった水平二連銃や空気銃のラインナップを埋める為、1978年時点ではウェブリー・アンド・スコット社製エアライフルや、スペインのアヴェリーノ・アリエータ社製サイドロック水平二連銃などを輸入販売していた[235]。
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