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作家 ウィキペディアから
嵐山 光三郎(あらしやま こうざぶろう、1942年〈昭和17年〉1月10日[1] - )は、日本の編集者、作家、エッセイスト。本名は祐乗坊 英昭(ゆうじょうぼう ひであき)[1]。
父は、朝日新聞社社員から、多摩美術大学の教授に転じた、デザイナーの祐乗坊宣明。弟の祐乗坊進は造園コンサルタントで多摩美術大学講師。
静岡県浜松市に生まれ、1950年から東京都北多摩郡国立町(現:国立市)に育つ。国立学園小学校卒業。小学校時代の同級生に、後の外務省・軍縮大使の登誠一郎、朝日新聞社の宮本貢がいた。
桐朋中学校・高等学校を経て、1965年國學院大學文学部国文科卒業[1]。専攻は中世文学。また、笠井叡は高校の2年後輩で、大学時代に笠井から土方巽を紹介され、金粉ショーのアルバイトをやったこともある。大学時代の教師には丸谷才一、安東次男らがいた。ある民放テレビ局の入社試験に合格していたが、辞退している[1]。
1965年、平凡社へ入社。当時の平凡社は「国民百科事典」の売り上げが絶好調な時期であり、先代社長の下中弥三郎が他社において「争議活動」等で問題となった編集者を集めていたこともあり、編集部には奇人・変人・怪人が揃っていた。先輩編集者の谷川健一、林達夫、難波律郎、西巻興三郎らを知る。のち、『別冊太陽』と『太陽』のそれぞれ編集長を務める。『太陽』の「年賀状の図案特集」はヒット企画となった。また、編集者として檀一雄や澁澤龍彦と親交を深める。深沢七郎には、特に影響をうけ、師匠と呼んでいる。
「現代詩手帖」の編集長の桑原茂夫を知る。他に唐十郎、山野浩一、前田亜土、鎌田忠良、麿赤児、坂崎重盛、村松友視、篠山紀信、南伸坊、糸井重里、篠原勝之、鈴木いづみ、山際淳司らと知り合う。
広告会社から平凡社に入社してきた安西水丸を知り、1976年に合作絵本「ピッキーとポッキー」を刊行。40年間で70万部近くを売り上げるロングセラーとなる[2]。
放漫経営のため平凡社が経営危機となった1981年、馬場一郎編集局長をトップに、筒井泰彦(筒井ガンコ堂)、渡邊直樹ら平凡社時代の部下らを率いて独立し、青人社を設立[1]。翌年には『DoLiVe 月刊ドリブ』を創刊[1]。
雑誌「宝島」で連載された“チューサン階級の友”で人気を博し、「…なのでR」などカタカナやアルファベットを多用した、独特の文体でのエッセイを多数の雑誌に発表。椎名誠らとともに「昭和軽薄体」と呼ばれた。
タモリ司会のテレビ番組『今夜は最高!』に、『月刊ドリブ』の宣伝も兼ねて出演。これがきっかけで、1982年からは『笑っていいとも!増刊号』(フジテレビ)に編集長としてレギュラー出演した。
趣味は料理で、「素人庖丁記」(渡辺和博イラスト)を『週刊現代』に長年連載。
近代以前の文学者たちを主人公にしたポップな時代小説や、食べ歩き本、温泉などの旅行記などを発表。また、編集者時代を描いた自伝的小説『口笛の歌が聴こえる』『昭和出版残侠伝』も発表した。一方、母校の國學院大學講師も務めた。
近年は、文学者たちの暴食ぶりを評した『文人悪食』『文人暴食』など、近代日本の文学者たちを、新鮮な切り口から捉え直した本も多い。
作家・芸術家の赤瀬川原平、イラストレーターの安西水丸、南伸坊、渡辺和博、芸術家の篠原勝之などとは編集者時代からの友人でもある。共同で絵本を作ってきた安西が2014年3月19日に死去した際、朝日新聞に追悼文を寄稿した[3]。南による装丁・挿絵も多い。友川カズキは飲み仲間で、秋田弁が聞きたくて歌わせていた。適当な節回しの中で、代表曲の一つ「ワルツ」が生まれた。作家の石田千は元助手である。
20年来の阪神タイガースファンである。
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