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日本の出版社 ウィキペディアから
株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が漢字の八のように末広がりになった旧字体「[注 1]」を用いる(大正末期創業のため)。
教育家の下中彌三郎が設立。1923年に株式会社となる。創業当初に刊行された『現代大衆文学全集』や『世界美術全集』からはじまり、『東洋文庫』や『別冊太陽』にいたるまで、学術的成果を一般読者に還元する出版物を多く出している。
平凡社は1914年に小百科事典『や、此は便利だ』の刊行で創業したが、その後、昭和初期の円本ブームの波にのり、『現在大衆文学全集』を刊行した。1927年から1931年までの間に30種、700巻以上の円本を刊行し「円本全集の総本山」と呼ばれた。『現代大衆文学全集』の刊行により、それまで「新講談」と呼ばれ、やや蔑まれていた大衆小説を、大衆「文学」という文学の一角を占めるものとして読者の認識を改めさせたと評されている[1]。
しかし、ブームの沈下により、1931年には経営破綻寸前となった[2]。
そこで下中自らが企画編集した『大百科事典』全28巻を刊行し(1934年に完結。編集長は木村久一)、起死回生の成功を収める。その後、戦後に刊行した『世界大百科事典』(編集長は林達夫)がロングセラーとなり、百科事典の出版社としての地位を確立した。1967年の『国民百科事典』は、全7巻で1万円という安さからベストセラーとなった。
しかし、百科事典の売り上げに頼り、他の多くの書籍や月刊誌『太陽』ほかの雑誌は赤字という放漫経営を行っていたため、1981年に経営危機に陥り、本社ビルを売却する事態に至った。240名の社員のうち80名が退職し、営業部長(前、雑誌部長)の馬場一郎、『太陽』編集長の嵐山光三郎らは退社して青人社を設立した(のち1999年に倒産)。1981年時点で編集中であった新版『大百科事典』(編集長は加藤周一)は、1984年に完成にこぎつけたものの、もはや百科事典の時代ではなかった。編集部長の小林祥一郎が主導し1983年に創刊されてわずか13号で終わった月刊女性誌『Free』の大きな失敗と、大型継続企画の『日本歴史地名大系』全50巻も、さらに経営の足を引っ張った。
人文書においてはこの前後の時代に、とくに社会史、文化史、思想、芸術などの分野で優れた出版活動を続け、また荒俣宏『世界大博物図鑑』全7巻のようなヒット作も生まれたが、経営の全体を支えるには至らず、1996年には日立製作所との合弁会社「日立デジタル平凡社」を設立し、なおもデジタル百科に活路を見いだそうとして致命的な失敗を重ね(合弁会社は2000年4月解散)、さらなる人材の流出をまねいた。その後は経営規模をスリム化して出版の方向性を模索、百科事典的な知性や雑誌『太陽』の伝統を活かしつつ、一般書籍を中心とする出版社へと脱皮していった。
現在では『別冊太陽』『平凡社ライブラリー』『東洋文庫』『平凡社新書』などのシリーズのほか、多様な一般書と、学術的成果を一般読者に還元する人文書などを刊行する。白川静の「字書三部作」(『字統』『字通』『字訓』)や「白川静全集」も著名。2014年には創業100周年を迎えた。
なお、「平凡」は戦後、平凡出版(現・マガジンハウス)によって改めて芸能情報の月刊誌として創刊されたが、これは平凡社から雑誌名の譲渡(実質のれん分け)を受けたことによるもので、平凡社との直接の資本関係は持っていない。この平凡出版は「平凡」からスピンオフした「週刊平凡」「平凡パンチ」なども発刊していた。
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