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日本の男性アニメーター、キャラクターデザイナー ウィキペディアから
小田部 羊一(こたべ よういち、1936年9月15日 - )は、日本のアニメーター、キャラクターデザイナー。公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団評議員。アニメーター・銅版画家の奥山玲子は妻。
こたべ よういち 小田部 羊一 | |
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2019年 | |
プロフィール | |
生年月日 | 1936年9月15日(88歳) |
出身地 | 日本統治下台湾 台北州台北市 |
国籍 | 日本 |
職業 |
アニメーター キャラクターデザイナー |
活動期間 | 1959年 - |
ジャンル | アニメーション |
配偶者 | 奥山玲子(2007年死別) |
代表作 |
『アルプスの少女ハイジ』 『母をたずねて三千里』 『ポケットモンスターシリーズ』(アニメーション監修) |
その他 | 公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団評議員 |
日本統治時代の台湾・台北州台北市に生まれる[1]。小学校教員の父は、油彩を嗜んでいた[1]。幼少時より『ポパイ』や『桃太郎の海鷲』・『くもとちゅうりっぷ』などのアニメーション映画に親しんで育つ[1]。日本の敗戦後、家族とともに日本に引き揚げ、奈良市・新潟市・日立市を移り住む[1]。帰国後は手塚治虫(『新宝島』『ロストワールド』)や小松崎茂・山川惣治の作品に惹かれて頻繁に模写し、『せむしのこうま』『白雪姫』といった外国のアニメーション映画にも接する[1]。
中学生の頃に弟の油彩画の方が出来がよかったことから、線画や水彩画を描くようになる[1]。「漫画の修行」になると考え、東京芸術大学日本画科に進学する[2]。1958年に公開された東映動画(現・東映アニメーション)の『白蛇伝』を見て衝撃を受け、東映動画の定期採用に応募して合格し(ただし一次は不合格で二次募集)、1959年4月に入社する[2]。東京芸大は専門科(現在の研究科)に残る声もかかっていたが、それを断っての就職だった[2]。
入社年に公開された『少年猿飛佐助』では楠部大吉郎の班で動画を務める[2]。『安寿と厨子王丸』では原画補の奥山玲子のセカンドとして指導を受けた[3]。『わんぱく王子の大蛇退治』で原画補、『わんわん忠臣蔵』で原画に昇格する[3]。この間、1963年7月7日に奥山玲子と結婚する[4]。奥山は結婚・出産後も働く意向だったため、小田部は保育所への送迎のために自動車運転免許を取得した[5]。この際、勤務時間中に教習所に通ったことが会社から問題視され(出産後の奥山が会社から提示された「契約社員への変更」を断ったことが背景にあった)、小田部に解雇通告がなされる事態に発展する[5]。小田部は「虫プロに行く」とまで言ったが、労働組合の支援を得て減給降格処分で決着した[5]。当時、労働組合ではこの事件を「小田部問題」と呼んだ[5]。
このあと、『太陽の王子 ホルスの大冒険』『長靴をはいた猫』『空飛ぶゆうれい船』などの劇場作品に原画や作画監督(『空飛ぶゆうれい船』)として参加[6]。1971年9月、宮崎駿とともに東映動画を退社してAプロダクションへ移籍する[7]。これは『長くつ下のピッピ』のテレビアニメ化企画の要員として先にAプロダクションに勧誘された高畑勲が、宮崎と小田部を「不可欠な人材」として指名したためである[8]。宮崎が即決した[9]のに対し、小田部は悩んだ末に決断し、東映動画では妻の奥山が残ることで退社を容認する雰囲気になったと小田部は回想している(奥山からは「あなたたちは大変なときに逃げ出した」と恨まれたという)[10]。『ピッピ』には宮崎・高畑とともに意欲的に取り組んだが原作者の許諾が下りずに頓挫、代わって企画された『パンダコパンダ』を手がけた[11]。
ズイヨー映像に再度移籍して、1974年のテレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』では作画監督・キャラクターデザインとして参加する[12]。高畑の発案による「キャラクターデザイン」という職名を公式に名乗ったのは、日本のアニメーションでは小田部が最初であった[12]。
その後も多くの作品に携わるも、1977年に日本アニメーションを退社しフリーの活動を開始する。妻の奥山と2人だけのスタジオ「アトリエ羚」を主宰した。奥山玲子との共通ペンネームとして「あんていろーぷ」も使用した。海外作品にも、株式会社テレコム・アニメーションフィルムからの受託を受け、リトルズ(製作はDICエンターテイメント)の原画を担当。片渕須直らと共に参画。
1985年、東映動画時代の同期だった、当時の任天堂情報開発部長池田宏から誘いを受け[13]、1985年12月に開発アドバイザーとして入社、アニメーションのノウハウをテレビゲームに取り入れる。ファミリーコンピュータソフト『スーパーマリオブラザーズ』において、宮本茂が生み出したマリオシリーズのキャラクターデザインを更に磨き上げ、以降一連のシリーズにおいてキャラクターの公式イラストをデザイン(および監修)し続けた。2007年に任天堂を退社、再びフリーでの活動を開始する。同年、奥山と死別。
東京デザイナー学院アニメーション科や東映アニメーション研究所で講師を務める教育者としての顔も持つ。
2010年3月には、日本のアニメ史において1960年代から1970年代初頭を彩った東映動画の長編劇場アニメにて作画の中心的な役割を担った功績に対し、奥山とともに「東京国際アニメフェア2010」にて東京アニメアワード第6回功労賞が贈られた[14]。
2017年には病気で入院生活を送り、高畑勲から「大丈夫、治るから」と励ましを受け、小田部は言葉通りに復帰したが高畑は翌2018年4月に死去し、5月15日に三鷹の森ジブリ美術館で開かれた高畑の「お別れの会」では「納得できません。これはあべこべです」「他にかけがいのないパクさん。だから戻ってほしいのです。どうか戻ってきてください。心からのお願いです。」と述べて別れを惜しんだ[15]。
2019年、草創期のアニメ業界を描いたNHK連続テレビ小説『なつぞら』でアニメーション時代考証を担当し[16][17][18]、また、ヒロインは妻の奥山をヒントにしていると語っている[19]。
2019年7月、スイス国立博物館で開かれる「アルプスの少女ハイジ」の展覧会にてポスターを描き下ろした[20]。
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