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ホセ・フロイラン・ゴンザレス(Jose Froilan Gonzalez, 1922年10月5日 - 2013年6月15日)は、アルゼンチンの元レーシングドライバー。1954年のル・マン24時間レース覇者。
ホセ・フロイラン・ゴンザレス | |
---|---|
基本情報 | |
フルネーム | ホセ・フロイラン・ゴンザレス |
国籍 | アルゼンチン |
出身地 | 同・アレシーフェス |
生年月日 | 1922年10月5日 |
死没地 |
アルゼンチン 同・ブエノスアイレス |
没年月日 | 2013年6月15日(90歳没) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1950-1957,1960 |
所属チーム |
'50,'51,'52-'53,'56 マセラティ '51 タルボ・ラーゴ '51,'54,'55,'58,'60 フェラーリ '56 ヴァンウォール |
出走回数 | 26 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 2 |
表彰台(3位以内)回数 | 15 |
通算獲得ポイント | 72 1⁄7 (77 9⁄14) |
ポールポジション | 3 |
ファステストラップ | 6 |
初勝利 | 1951年イギリスGP |
最終勝利 | 1954年イギリスGP |
最終戦 | 1960年アルゼンチンGP |
F1においては、草創期における「名脇役」の1人とされ、太った体格と豪快な走りから、「大草原の猛牛」を意味する「パンパス・ブル」(The Pampas Bull )の異名を取った。2008年の時点でF1最多優勝記録を持つフェラーリに、初勝利をもたらしたドライバーでもある。
スポーツカー・レースにも出場しており、1954年のル・マン24時間レースにおいてモーリス・トランティニアンとのコンビでフェラーリ375を駆り、優勝した。
元々は、アルゼンチン国内でレース活動を行っていた。1950年、開催初年度となるF1世界選手権において、第2戦モナコGP・第6戦フランスGPの2戦にプライベーターのマセラティから参戦。どちらもリタイヤだったが、初参加となったモナコGPでは予選で3位の成績を残している。
1951年開幕戦のスイスグランプリにおいては、プライベーターのタルボから参戦。予選13位からリタイヤに終わった。
1951年シーズン中盤、ピエロ・タルッフィ負傷に伴い、代役として第4戦フランスグランプリにフェラーリから出場。このレースで2位に入り、初の表彰台を獲得した。この走りに対し、フェラーリは続く第5戦イギリスグランプリでもゴンザレスを起用することとなった。
与えられたマシンは前年型だったものの、ゴンザレスは迎えたイギリスグランプリの予選でポールポジションを獲得。決勝でも、ファン・マヌエル・ファンジオとの争いを制し、 ポールトゥーウィンで初優勝を飾った。この勝利は、フェラーリのF1初優勝としても記録されることとなる。
その後、残る3戦もフェラーリから出走。2勝目はならなかったものの、3レース全てで表彰台に上がり、ランキング3位となった。
1952年はチームの選択に翻弄され、最終戦イタリアグランプリのみの出走となった。マセラティから参戦したこのレースでは、予選5位からレース前半をリードし、初となるFLも記録。しかし、ピットインの間にアルベルト・アスカリに先行され、2位に終わっている。
1953年はマセラティから本格参戦したが、No.1ドライバーであるファンジオの陰に隠れる形となり、第5戦フランスGPでは「燃料を半分だけ積んでハイスピードで飛ばし、フェラーリの撹乱を誘う」という役割も担わされている。出走した5戦中、3位3回・4位1回・FL2回の成績が残っていたが、3戦を残してチームから離脱した。ランキングは6位。
1954年は、フェラーリに舞い戻り参戦。復帰初戦となる開幕戦アルゼンチングランプリでは、地元で予選2位からファステストラップを記録し、3位表彰台を獲得している。第5戦イギリスグランプリでは、予選2位から優勝。3年前に初勝利の舞台となったシルバーストン・サーキットにおいて、自身2勝目を挙げた。
しかし第6戦ドイツグランプリにおいては、予選中に同胞のオノフレ・マリモンが事故死。決勝ではショックから集中力を切らし、 マイク・ホーソーンにマシンを譲りレースを終える一幕もあった[1](結果的には2位)。しかし、続く第7戦スイスグランプリではポールポジションを獲得(決勝は、ハンス・ヘルマンとのシェアドライブで2位)。この年は、最終的にランキング3位となった。
1955年は、地元である開幕戦アルゼンチングランプリのみの出走となる。予選で自身3度目のポールポジションを獲得したが、酷暑の中で体力を消耗し交代。最終的には、トランティニアン、ジュゼッペ・ファリーナとの3者でのシェアドライブながら、2位となっている。
1956年以降は本格的なF1参戦はなく、地元であるアルゼンチングランプリを中心とした、散発的な出走のみに留まることとなる。
1956年は、開幕戦アルゼンチングランプリにマセラティ、第6戦イギリスグランプリにヴァンウォールから出走したが、どちらもリタイヤ。1957年は、フェラーリから開幕戦アルゼンチングランプリのみに出走し、5位の成績を残した。
その後、1958年・1959年には1戦も出走しなかったが、1960年は開幕戦のアルゼンチングランプリのみフェラーリから参戦。しかし予選11位・決勝10位という成績に終わり、これがF1最後のレースとなった。
引退後は静かな余生を送っていたが、一時期病気を患った影響で、体格はスリムに変貌している。
草創期におけるF1ドライバーの多くが鬼籍に入る中、80歳を超えなお健在であったが2013年6月15日永眠。90歳没[2]。
年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1950年 | マセラティ/アキッレ・バルツィ | 4CLT/48 | GBR | MON Ret |
500 | SUI | BEL | FRA Ret |
ITA | NC (56位) |
0 | |||
1951年 | タルボ・ラーゴ/フロイラン・ゴンザレス | T26C-GS | SUI Ret |
500 | 3位 | 24 (27) | ||||||||
マセラティ/エンリコ・プラーテ | 4CLT/48 | BEL DNA |
||||||||||||
フェラーリ | 375 | FRA 2* |
GBR 1 |
GER 3 |
ITA 2 |
ESP 2 |
||||||||
1952年 | マセラティ | A6GCM | SUI | 500 | BEL | FRA | GBR | GER | NED | ITA 2** |
9位 | 6 1⁄2 | ||
1953年 | ARG 3 |
500 | NED 3* |
BEL Ret |
FRA 3 |
GBR 4** |
GER | SUI | ITA | 6位 | 13 1⁄2 (14 1⁄2) | |||
1954年 | フェラーリ | 625 | ARG 3 |
500 | BEL 4* |
GBR 1 |
GER 2* |
SUI 2 |
ITA 3* |
ESP | 2位 | 25 1⁄7 (26 9⁄14) | ||
553 | FRA Ret |
|||||||||||||
1955年 | 625 | ARG 2* |
MON | 500 | BEL | NED | GBR | ITA | 17位 | 2 | ||||
1956年 | マセラティ | 250F | ARG Ret |
MON | 500 | BEL | FRA | NC (55位) |
0 | |||||
ヴァンダーヴェル | VW 2 | GBR Ret |
GER | ITA | ||||||||||
1958年 | フェラーリ | D50 | ARG 5* |
MON | 500 | FRA | GBR | GER | PES | ITA | 21位 | 1 | ||
1960年 | 246 | ARG 10 |
MON | 500 | NED | BEL | FRA | GBR | POR | ITA | USA | NC (45位) |
0 |
年 | チーム | コ・ドライバー | 車両 | クラス | 周回数 | 総合順位 | クラス順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1950年 | オートモビル・ゴルディーニ | ファン・マヌエル・ファンジオ | ゴルディーニ・T15S | S 3.0 |
95 | DNF | DNF |
1951年 | アンリ・ルーボー | オノフレ・マリモン | タルボット-ラゴ・T26 GS | S 5.0 |
128 | DNF | DNF |
1953年 | スクーデリア・ランチア | クレメンテ・ビオンデッティ | ランチア・D20 コンプレッサ | S 8.0 |
213 | DNF | DNF |
1954年 | スクーデリア・フェラーリ | モーリス・トランティニアン | フェラーリ・375 プラス | S 5.0 |
302 | 1位 | 1位 |
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