コレクション中、最古のワインは1845年のボルドー、オー・ド・ヴィでは1788年のコニャック"クロ・ド・グリフィエ"(Clos de Griffier)。希少ワインには、château d'Yquem(フランス語版)1871、château de Rayne-Vigneau(フランス語版)1874、château Guiraud(フランス語版)1893、chambertin-clos-de-bèze(フランス語版)1865、Château du Clos de Vougeot(フランス語版)1870、romanée-conti(フランス語版)1874、fine champagne(フランス語版)1797、cognac(フランス語版)1788、Champagne Roederer Cristal(フランス語版)(ニコライ2世 (ロシア皇帝)(Nicolas II)向け特別ヴィンテージ)、Pétrus(フランス語版)1947(26,000€)、château Haut-Brion(フランス語版)(27,000€)、ポルト酒・マデーラ酒"インドからの帰還"(Madère(フランス語版) retour de l'Inde)などコレクター垂涎のワインが含まれ、最も高価な銘柄の価格帯は60,000€以上といわれる。
2024年には、希少ワイン約80本(romanée-conti、Château Gruaud Larose(フランス語版)1870、Chambertin(フランス語版)1865、Château du Clos de Vougeot 1870等)の盗難事件が発覚、推定総額150万ユーロの損失が発生。2020年~2024年の4年間のどこかで持ち去られたものとみられている。[1]
フレデリック・デレール(Frédéric Delair)は、オーナー兼給仕頭として、メニューの中核をなすスペシャリテ"caneton Tour d'Argent"のルセットを考案。自ら顧客の前でデクパージュを行い、フォークに刺した鴨を銀皿に置かず、空中で切り分けることができたという。その料理・サービス法が顧客の支持を得て後世に残ることを確信、顧客に供した鴨に番号をふるアイディアを発案、現在まで承継されている。厳密・厳格、完全主義、ややエキセントリックな細部への拘り、沈着冷静、「広告」を嫌う人だったという。
クロード・テライユ(Claude Terrail, 2代目, 1917年12月4日-2006年6月1日)は、当初、演劇・映画俳優を目指していたが、学士号取得後、料理・ワイン・サービスの修行を経て、1947年父親の後を継ぎmaître de maisonに就任。ワインカーヴの充実に努めたほか、1951年"le salon George V"、1953年"l'Orangerie"設立など業容拡大に注力。1952年のミシュラン・ガイド降格については、「一層の独創力、一層の努力」の必要性を認識するうえで「店のためにはプラスだった」[2]と回想している。1980年レジオン・ドヌール勲章(Légion d'honneur(フランス語版))受章。第二次世界大戦時の経験を基に、息子アンドレに『危機の時代はいつでも訪れる。オープンできるのであれば、どんな時期でも、どんな時間でも、どんな状態でも、躊躇せずオープンするのだ。戦争が起きない限り、いつも開いている、それがレストランの使命なのだ』と繰り返し語り聞かせたという[3]。
1981年に本店シェフに就任したドミニク・ブシェ(Dominique Bouchet(フランス語版), 1952年7月27日-)は、ジョエル・ロビュション(Joël Robuchon(フランス語版), 1945-2018)門下、ロビュションのセーヌ川船上シェフ時代に入門、兵役の後、Hôtel Concorde La Fayette開業(1974年)メンバーで頭角を現し、1978年「ジャマン」(Jamin)シェフに抜擢され、ミシュラン3つ星獲得に貢献(その後3年間3つ星維持)、1981年トゥール・ダルジャンのシェフに就任(7年間ミシュラン3つ星維持)。1988年独立して「ル・ムーラン・ド・マルクーズ」(Le Moulin de Marcouze)のオーナーシェフ兼ディレクトゥール(2つ星獲得)。1997年ホテル・ド・クリオン(Hôtel de Crillon(フランス語版))のgrand chefに就任、"Les Ambassadeurs"(2つ星)を含むレストランの全体統括。その後、活動の場を米国、英国、ベルギー、オランダ、シンガポール、スイス、モロッコ、タイ、トルコ、日本、ウルグアイ、スイス、レバノン、イタリア、中国まで拡大。2001年日本航空のビジネスクラス機内食監修、同年国内に"Atelier DY5"設立、2004年"Dominique Bouchet"(パリ8区)開店、2009年コンサルティング会社"DB Conseil International"設立、2006年酒造会社福光屋とコラボレーション(フランス人シェフ初)、2013年7月"Dominique Bouchet"(銀座)開店(ミシュラン2つ星獲得)、2015年7月"Dominique Bouchet"(銀座)移転、2016年7月"Les Copains de Dominique Bouchet"(銀座)開店、2017年"Le Grill Dominique Bouchet Kanazawa"開店、2019年ウェスティン都ホテル京都の"Dominique Bouchet Kyoto Le Restaurant"、"Dominique Bouchet Kyoto Le Teppanyaki"を開店(監修)、同年"Les Trèfles Dominique Bouchet"(名古屋)開店。受賞歴は、1999年フランスの料理専門雑誌"Le Chef"の"Chef de l'année"選出、2002年レジオン・ドヌール勲章Chevalier受章、2007年芸術文化勲章(Ordre des Arts et des Lettres(フランス語版))Chevalier受章、2016年パリ市勲章(Médaille de la Ville de Paris(フランス語版))受章。
2010年本店シェフに就任したローラン・ドゥラルブル(Laurent Delarbre)は、一時トゥール・ダルジャンに居た後、Relais Louis XIII、Lasserre(フランス語版)、Ritz Paris(フランス語版)でSous-chef、Hôtel Astor Saint Honoré、Café de la Paix (フランス語版)でChefを歴任し、古巣にChefとして戻ってきた。
2016年本店シェフに就任したフィリップ・ラべ(Philippe Labbé(フランス語版))は、1981年からベルナール・ロワゾー(Bernard Loiseau(フランス語版))、ジャン・ミッシェル・ロラン(Jean-Michel Lorain(フランス語版))の下で働いた後、オーベルジュ・デ・タンプリエ(l'Auberge des Templiers(フランス語版))、兵役に就いた後、ジェラール・ボワイエ(Gérard Boye)のオテル・シャトー・レ・クレイエール(Hôtel-Château des Crayères(フランス語版))、ロジェ・ヴェルジェ(Roger Vergé(フランス語版))のムーラン・ド・ムージャン(Moulin de Mougins(フランス語版))、クリスチャン・ウィラー(Christian Willer)のオテル・マルティネス(Hôtel Martinez(フランス語版))など星付きレストランで従事。フランシス・ショーボー(Francis Chauveau)のオテル・カールトン(Hôtel Carton)、1996年~2001年プラザ アテネ(Plaza Athénée(フランス語版))で副料理長としてエリック・ブリファール(Éric Briffard(フランス語版))を補佐。2001年Château de Bagnols(フランス語版)(Beaujolais)でシェフに就任、ミシュラン2つ星獲得。2003年シェーブル・ドール(Château de la Chèvre d'Or(フランス語版))(Èze)でミシュランの2つ星維持、ゴー・エ・ミヨ19/20点獲得、2009年シャングリ・ラ・ホテルズ&リゾーツ(Shangri-La Hotels and Resorts(フランス語版))入り、2011年オープンしたシャングリ・ラ・パリ(Shangri-La Paris(フランス語版))の3レストランを統括、2012年"l'Abeille"でミシュラン2つ星、"Le Shang Palace"で 1つ星獲得。2013年ゴー・エ・ミヨ(Gault et Millau(フランス語版))誌の"cuisinier de l'année"選出。2014年9月シャングリ・ラ・ホテルズ&リゾーツ退社、"L'Arnsbourg"(Baerenthal)1つ星、2016年~2019年トゥール・ダルジャンのシェフの後、台湾でアジア人シェフのチームの訓練に従事。
2019年に本店シェフに就任したヤニック・フランケ(Yannick Franques)は、ル・ブリストル(Le Bristol Paris(フランス語版))のエリック・フレション(Eric Frechon(フランス語版), 1963-)、ホテル・ド・クリオンのクリスチャン・コンスタン(Christian Constant(フランス語版), 1950-)の下や、アラン・デュカス(Alain Ducasse(フランス語版), 1956-)のLouis XVで修業、シャトー・サン・マルタン(Château Saint-Martin, Vence)でミシュラン2つ星獲得、Réserve de Beaulieuで研鑽、2004年Meilleur ouvrier de France(フランス語版)(MOF)取得。2019年トゥール・ダルジャンExecutive Chefに就任。
本店、東京店とも、多くの著名ソムリエ(sommelier(フランス語版))を輩出している。本店のChef caviste sommelierだった林秀樹は、1986年から35年にわたりcavisteを務めたが、2021年12月に逝去。その後cavisteは置かず、地下のカーヴはsommelierが管理している。東京店開業時のChef sommelier熱田貴は、1991年独立して「東京グリンツィング」開店。1997年日本ソムリエ協会会長、2005年から名誉顧問。2000年フランス農事功労章(Ordre du Mérite agricole(フランス語版))受章、2006年現代の名工受賞、2011年黄綬褒章受章。
アンリ3世(Henri III (roi de France)(フランス語版),1551-1589)は、1582年3月4日に初来店。その後も度々訪れ、同店が貴族や上流階級の社交場として発展する契機となったほか、フランスの食卓におけるフォークの導入に直接関与した。(「エピソード」の項目参照)
アンリ4世(Henri IV (roi de France)(フランス語版), 1553-1610)は、大の鶏好きで、ルルトーの「あおざきのパテ」を所望、トゥール・ダルジャンに使いを走らせ、宮廷に取り寄せたという。
リシュリュー枢機卿(Armand Jean du Plessis de Richelieu(フランス語版), 1585-1642)は、トゥール・ダルジャンの当時のスペシャリテ「がちょうのプラム添え」、「ガリマフレ」(ブーレ・マレンゴの原型)や、「ぺルドゥリの砂糖煮」を好んだ[4]。卿は同店に40人の客を招き、主人は牛一頭を30種類の調理法で供した。また、卿は17世紀にフランスに入り始めたコーヒーを社交界で薦め、メニューに載せたトゥール・ダルジャンでも多くのオーダーがあったという。[5]
イギリス連邦王国エリザベス2世(Elizabeth the Second(英語版), 1926-2022)とフィリップ (エディンバラ公)王配(Prince Philip, Duke of Edinburgh(英語版), 1921-2021)はハネムーンでパリを訪れた際に来店(1948年5月16日)。フランス共和国駐箚グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国大使館は、事前に候補店を2軒に絞っていたが、最終決定は当日直前まで開示されなかったという。トゥール・ダルジャンは、両陛下を185,937羽目の鴨でもてなした。[6](「歴史的メニュー」の項目参照)
女優エリザベス・テイラー(Dame Elizabeth Rosemond Taylor(英語版), 1932-2011)は、夫が変わる度、新夫を伴い合計5回来店したという。
悪戯好きの俳優オーソン・ウェルズ(Orson Welles, 1915-1985)は、クロード・テライユの前で、わざとポタージュを食べるのにスープ・スプーンでなくデザート・スプーンを使った。悪戯に気付いたテライユは、少しの間厨房に下がった後、ウェルズに「いつものポタージュが作れないようなシェフは首にした」と嘘を言い、逆にウェルズを驚かせた。慌てたウェルズは厨房に飛んで行き、シェフのピエール・デクルーを抱締め、「君の将来は保証する。子供の面倒も見る」と詫び、何も知らず英語も話さないデクルーは、どうしたらよいか分からず、唖然としてテライユの顔を見たという。後で事実を知ったウェルズは、大笑いしてこの話を雑誌"The New Yorker"に寄稿した。[9]
女優シャーリー・テンプル(Shirley Jane Temple(英語版), 1928-2014)は、大雨の中、来店の脚にタクシーが捕まらず、ずぶ濡れになっていた。それを見かねたパリ市警の警官の厚意で、警察車両に送られてトゥール・ダルジャンに到着。クロード・テライユは、著書に「ドアマンが囚人護送車から客が下りてくるのを見たのは、それが初めてだった」と冗談めかし書いている。[11]
【創業期】 トゥール・ダルジャンの創業時期(1582年)は、アンリ2世 (フランス王)(Henri II de France(フランス語版),1519-1559)のカトリーヌ・ド・メディシス(Catherine de Médicis(フランス語版),1519-1589)との結婚(1533年)から約50年後。カトリーヌに従じた料理人が持ち込んだイタリア宮廷料理がフランス料理を洗練させていく時期にあたる。
【店名の由来】 "La Tour d'argent"(銀の塔)は、創業時の建物がルネサンス様式の塔で、塔壁にChampagne地方で産出された銀色に輝く雲母が含まれていたことに由来。[13]
【フォークの導入】アンリ3世(Henri III (roi de France)(フランス語版),1551-1589)は、ヴァンセンヌの森での鹿狩りの帰途、同行する貴族・騎士等総勢45名と初めてトゥール・ダルジャンに訪れた(1582年3月4日)。その際、居合わせたフィレンツェから来たイタリア貴族3名がフォークを使用しているのを見かけ、フォークの柄に施された細工の美しさに魅了された。それまでフランスではフォークは発明されておらず、全ての人が手掴みで食事をしていた。フォークを気に入った王は、早速、臣下に宮廷で同じものを作らせるよう命じた。店主ルルトーは、王の次の来店までにフォークを調達、フランスのレストラン史上、初めてサービスとしてフォークが使用された。[15]
【決闘】ルイ13世(Louis XIII(フランス語版), 1601-1643)の治世、トゥール・ダルジャンは、流行の先端を行く貴族の社交場として繁盛した。この時代、身分の高い荒くれ騎士は、大酒を飲み、気に入らないことがあれば、すぐに剣を抜いた。常連の貴族が、普段使っている厩舎やテーブルが塞がっていることに腹を立て、先客に手袋を投げつけ、決闘が始まったという。決闘した者の多くは地方貴族だったが、シャルル・ダルベール・ド・リュイヌ公爵(Charles-Honoré d'Albert de Luynes(フランス語版))のような大物廷臣も含まれていた。[16]
【三皇帝の晩餐】 ロシア皇帝アレクサンドル2世(Александр Ⅱ, 1818-1881)と皇太子(アレクサンドル3世、Александр Ⅲ, 1845-1894)、プロシア皇帝ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)(Wilhelm I.(ドイツ語版), 1797-1888)、プロイセン王国「鉄血宰相」(独:Eiserne Kanzler)オットー・フォン・ビスマルク(Otto von Bismarck(ドイツ語版), 1815-1898)首相は、パリ万国博覧会 (1867年)(Exposition universelle de 1867(フランス語版))の会期中の6月7日、カフェ・アングレに来店、歴史に残る「三皇帝の晩餐」(Dîner des Trois Empereurs(フランス語版))が催された。シェフのアドルフ・デュグレレは、全16品のコースを供し、サービスを執り仕切ったオーナーのクローディアス・バーデルは、マデイラ、シェリー、ブルゴーニュ、ボルドー4本、シャンパンの計8本を合わせた。会食は盛況で終了まで8時間を要したという。途中午前1時頃、アレクサンドル2世が好物のフォア・グラが出ないことにクレームをつけ、店主バーデルが「フランスの美食で6月にフォア・グラを供す習慣はありません。10月までお待ち頂ければ、最高のフォア・グラをお届け致します。決して後悔されることはありません」と約束。秋にデュグレレが3個のテリーヌ「三皇帝のフォア・グラ」を調理、使者を立てロシア皇帝離宮「ツァールスコエ・セロー」とドイツ・ベルリンに届けたという。[18]この時使用されたテーブルとメニューはトゥール・ダルジャンに引き継がれ、同店1階の展示スペース「食卓の小博物館」に再現されている。
本店向かいの"Les Comptoirs de la Tour d'argent"(1985-)のほか、代官山に同名ブティック(2007-2009)を展開。代官山店では、フランス直輸入のフォアグラ・紅茶・ジャム・チョコレートのほか、パリ本店のワインカーヴから移した4,000本を含む約10,000本のワインを販売していたが、2009年7月31日閉店。