Loading AI tools
ウィキペディアから
トゥール・ダルジャン(La Tour d'argent)は、フランス(パリ5区トゥルネル河岸通り15-17番地)に本店、東京(千代田区紀尾井町ホテルニューオータニ内)に唯一の支店を置く、1582年創業のフランス最古のレストラン。
400年を超える歴史、名物の鴨料理と比類なきワインコレクション、セーヌ川対岸・シテ島にノートルダム大聖堂を臨むパノラマで知られる。
歴代オーナーが、料理・ワイン、サービス、インテリアの全てに妥協なく最高レベルを追求、同国を代表するグランメゾンとして、永くフランス料理(Cuisine française)とレストラン・ガストロノミーク(restaurant gastronomique)を牽引した。
フランス料理文化の形成・発展、貴族文化が大衆化する過程に深く関与しており、同店の歩みは「フランス料理の歴史そのもの」と評価される。
ミシュラン・ガイド(Guide Michelin)では、一時降格されつつも60年間近く3つ星を維持したが、現在はパリ本店、東京店とも1つ星。
店名"La Tour d'argent"は、日本語で「銀の塔」の意。
1582年 料理人ルルトー(Rourteau)がセーヌ河岸に"Le restaurant L'Hostellerie de La Tour d'Argent"として創業
1582年3月4日 アンリ3世(Henri III (roi de France),1551-1589)初来店
17世紀中 ルイ14世(Louis XIV, 1638-1715)来店
1789年頃 フランス革命(1789-1795)勃発 本店が襲撃・略奪・占拠され、競売にかけらる
1802年 カフェ・アングレ(Café Anglais,1802-1913)創業(後にオーナー家間に血縁関係、「関連レストラン」の項目参照)
1830年 ルコック(Lecoq)がオーナーとなり、レストランを再建
年代不詳 パイヤール(Paillard)がオーナーとなる
19世紀半ば フレデリック・デレール(Frédéric Delair)がオーナー兼給仕頭となる
1867年 カフェ・アングレで「三皇帝の晩餐」(Dîner des Trois Empereurs)
1890年 フレデリックが顧客に供した鴨に番号をふるアイデアを考案
1911年 現オーナー一族テライユ家の初代アンドレ・テライユ(André Terrail)がオーナーとなる
1912年 本店で10万羽目の鴨が顧客に供される
1913年 カフェ・アングレ閉店
1914年 カフェ・アングレ所蔵のワインがトゥール・ダルジャンに引き継がれる
1914年7月 第一次世界大戦(1914-1918)開戦 アンドレ・テライユが動員され、一時閉店
1918年 第一次世界大戦終戦 アンドレ・テライユ復員、営業再開
1921年6月21日 皇太子裕仁親王(昭和天皇)来店(1回目)
1922年 隣地購入
1928年 アンドレ・テライユがホテル・ジョルジュサンク(Hôtel George-V)建設に関与
1936年 店舗拡張、現在の姿になる
1939年 第二次世界大戦(1939-1945)開戦 ドイツ軍占領に備え、地下カーヴの半分をセメントで塗り込める工事を実施
1940年6月 フランス敗戦・ドイツ軍パリ入城 本店建物がドイツ軍参謀本部に接収される
1945年 第二次世界大戦終戦
1947年 アンドレの息子、二代目クロード・テライユ(Claude Terrail, 1917年12月4日-2006年6月1日)が経営を引き継ぐ
1947年 ピエール・デクルー(Pierre Descloux)が本店シェフに就任
1947年 エールフランス(Air France)のパリ - ニューヨーク便就航、機内食提供
1948年5月16日 エリザベス2世(Elizabeth the Second, 1926-2022)とフィリップ (エディンバラ公)(Prince Philip, Duke of Edinburgh, 1921-2021)来店
1949年5月30日 本店で20万羽目の鴨が顧客に供される
1953年 "Marc-Annibal Coconnas"(Vosges à Paris)開店
1961年 本店で30万羽目の鴨が顧客に供される
1971年10月3日 昭和天皇来店(2回目)
1976年 本店で50万羽目の鴨が顧客に供される
1979年 "La Guirlande de Julie"開店
1981年8月 ドミニク・ブシェ(Dominique Bouchet, 1952年7月27日-)が本店シェフに就任
1983年9~10月 創業400周年
1984年秋 トゥール・ダルジャン東京開業(ホテルニューオータニ内、世界唯一の支店)
1985年 本店向かいに"Les Comptoirs de la Tour d'argent"(ブティック)開店
1989年 "La Rôtisserie du Beaujolais"開店
2003年 本店で100万羽目の鴨が顧客に供される
2006年 クロード・テライユ逝去、息子の三代目アンドレ・テライユ(André Terrail)<1代目と同名>が経営を引き継ぐ
2007年12月 "Les Comptoirs de la Tour d'argent"(代官山,直営ブティック)開店
2009年7月31日 "Les Comptoirs de la Tour d'argent"(代官山)閉店
2009年9月 本店所蔵の一部希少ワインをオークションで売却(1万8千本)
2010年 ローラン・ドゥラルブル(Laurent Delarbre)が本店シェフに就任
2016年 フィリップ・ラべ(Philippe Labbé, 1961-)が本店シェフに就任
2016年5月 本店所蔵の一部希少ワインをオークションで売却
2019年 ヤニック・フランケ(Yannick Franques)が本店シェフに就任
2020年~2024年のどこか 一部希少ワイン(80本)の盗難事件発生
2023年8月 約1年間の大改装を経て、本店1階にバー"Les Maillets d'Argent"、5階に宿泊施設"L'Appartement"設置
【創業期】 トゥール・ダルジャンの創業時期(1582年)は、アンリ2世 (フランス王)(Henri II de France,1519-1559)のカトリーヌ・ド・メディシス(Catherine de Médicis,1519-1589)との結婚(1533年)から約50年後。カトリーヌに従じた料理人が持ち込んだイタリア宮廷料理がフランス料理を洗練させていく時期にあたる。
【店名の由来】 "La Tour d'argent"(銀の塔)は、創業時の建物がルネサンス様式の塔で、塔壁にChampagne地方で産出された銀色に輝く雲母が含まれていたことに由来。[11]
【レストラン旗】 レストラン旗を掲げる唯一のレストランといわれる。現在でもこの旗が貴族文化の象徴と見做され、左翼グループの襲撃を受けたことがあるという。[12]
【フォークの導入】 アンリ3世(Henri III (roi de France),1551-1589)は、ヴァンセンヌの森での鹿狩りの帰途、同行する貴族・騎士等総勢45名と初めてトゥール・ダルジャンに訪れた(1582年3月4日)。その際、居合わせたフィレンツェから来たイタリア貴族3名がフォークを使用しているのを見かけ、フォークの柄に施された細工の美しさに魅了された。それまでフランスではフォークは発明されておらず、全ての人が手掴みで食事をしていた。フォークを気に入った王は、早速、臣下に宮廷で同じものを作らせるよう命じた。店主ルルトーは、王の次の来店までにフォークを調達、フランスのレストラン史上、初めてサービスとしてフォークが使用された。[13]
【決闘】 ルイ13世(Louis XIII, 1601-1643)の治世、トゥール・ダルジャンは、流行の先端を行く貴族の社交場として繁盛した。この時代、身分の高い荒くれ騎士は、大酒を飲み、気に入らないことがあれば、すぐに剣を抜いた。常連の貴族が、普段使っている厩舎やテーブルが塞がっていることに腹を立て、先客に手袋を投げつけ、決闘が始まったという。決闘した者の多くは地方貴族だったが、シャルル・ダルベール・ド・リュイヌ公爵(Charles-Honoré d'Albert de Luynes)のような大物廷臣も含まれていた。[5]
【フランス革命】 フランス革命(1789-1795)勃発時には、市民から貴族文化の象徴と見做され、バスティーユ牢獄と共に真っ先に襲撃・略奪・占拠され、建物は亡命貴族の所有物として競売にかけられた。[14]
【三皇帝の晩餐】 ロシア皇帝アレクサンドル2世(Александр Ⅱ, 1818-1881)と皇太子(アレクサンドル3世、Александр Ⅲ, 1845-1894)、プロシア皇帝ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)(Wilhelm I., 1797-1888)、プロイセン王国「鉄血宰相」(独:Eiserne Kanzler)オットー・フォン・ビスマルク(Otto von Bismarck, 1815-1898)首相は、パリ万国博覧会 (1867年)(Exposition universelle de 1867)の会期中の6月7日、カフェ・アングレに来店、歴史に残る「三皇帝の晩餐」(Dîner des Trois Empereurs)が催された。シェフのアドルフ・デュグレレは、全16品のコースを供し、サービスを執り仕切ったオーナーのクローディアス・バーデルは、マデイラ、シェリー、ブルゴーニュ、ボルドー4本、シャンパンの計8本を合わせた。会食は盛況で終了まで8時間を要したという。途中午前1時頃、アレクサンドル2世が好物のフォア・グラが出ないことにクレームをつけ、店主バーデルが「フランスの美食で6月にフォア・グラを供す習慣はありません。10月までお待ち頂ければ、最高のフォア・グラをお届け致します。決して後悔されることはありません」と約束。秋にデュグレレが3個のテリーヌ「三皇帝のフォア・グラ」を調理、使者を立てロシア皇帝離宮「ツァールスコエ・セロー」とドイツ・ベルリンに届けたという。[15]この時使用されたテーブルとメニューはトゥール・ダルジャンに引き継がれ、同店1階の展示スペース「食卓の小博物館」に再現されている。
【20万羽目の鴨】 1949年5月30日、20万羽目の鴨を祝う記念行事が行われ、共催した顧客の意向により、招待状を足に巻かれた鴨が屋上から放たれた。遠方の見知らぬ誰かに招待状が届き、その人が名乗り出れば、鴨を料理して振る舞う趣向だった。しかし、期待を他所に鴨は目前のセーヌ川に降りて水浴びを始めた。鴨はイベントを知るサンルイ島に住んでいたジャーナリストJ.J.アルモランがすぐさま船を出して捕まえ、翌日、アルモランに賞味されることになった。[16]
【フィーヌ・ナポレオン】 トゥール・ダルジャンが2本しか所蔵していない希少なフィーヌ・ナポレオンは、店のコレクションとしてリストから外していたが、かつてはコレクターが大金を積み買取りを申し出ない日は無かったという。[8]。
【インドからの帰還】 ポルト酒・マデーラ酒"インドからの帰還"(retour de l'Inde)は、帆船時代、船底に酒を積むことで、その重量により船を安定化、船の揺れや温度変化が熟成を促す効果を狙ったもの。美味しい酒に熟成させるには、世界を2周する必要があったという。[8]。
【来店しなかった英雄】 フランス第五共和政を樹立したシャルル・ド=ゴール将軍(1890-1970)は、生涯トゥール・ダルジャンに足を踏み入れなかった。軍人らしく食欲旺盛だが、総じて『食』への関心が薄く、早食いに過ぎて会食が不得手だったという。その嗜好は、シンプルな料理で知られるジャック・ぺパン(Jacques Pépin)の大統領専属料理人への起用に現れている。増井和子は、著書「パリの味」で「彼にとって120席程度の聴衆では、フランスの栄光を語るには不十分だったのだろう」と記している。[17]
■■■ 三皇帝の晩餐 ■■■
(Dîner des Trois Empereurs, 1867年6月7日, 於カフェ・アングレ)
【Menu】
(Potages)
(Relevés)
(Entrées)
(Digérer)
(Rôts)
(Entremets)
(Dessert)
【Vins】
■■■ イギリス連邦王国女王エリザベス2世とエディンバラ公爵フィリップ王配両陛下の晩餐 ■■■
(1948年5月16日晩餐, 於トゥール・ダルジャン本店)
【Menu】
【Vins】
■■■ 日本国天皇皇后両陛下をお迎えする光栄に浴して ■■■
(1971年10月3日晩餐, 於トゥール・ダルジャン本店)
【Menu】
―――――――――――――――
―――――――――――――――
―――――――――――――――
【Vins】
■■■ 創業400周年記念 アンリ3世晩餐会再現メニュー ■■■[18]
(1983年9~10月, 於トゥール・ダルジャン本店)
【Menu】
【Vins】
■■■ トゥール・ダルジャン謹製仔鴨料理、血入りソース添え(Caneton Tour d'argent) ■■■
【材料】(4人分のルセット)
【器具】
【加熱時間】 約1時間
【調理】
①鴨の下焼き
②ソースの調理
③鴨の切り分け
④ソースの仕上げ
⑤フィレ肉の調理
⑥仕上げ
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.