JOHNNYS' ジュニア・スペシャル
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JOHNNYS' ジュニア・スペシャルは、1974年夏に「ジュニア・スペシャル」の名で結成され、ジャニーズ事務所に在籍していた男性アイドルグループ。1970年代の中期に活躍。表記は「JOHNNY'S」ではなく「JOHNNYS'」(「ジャニーの」ではなく「ジャニーズの」の意)が正しい。愛称は頭文字を取って「JJS」。旧グループ名は「ジュニア・スペシャル」。後に「VIP」(後述)というグループとなった。
メンバー
- 板野俊雄(リーダー。愛称・トシちゃん。1957年4月26日[1] - )
- 林正明(はやし まさあき、愛称・マーちゃん、ドラキュラ。1958年8月30日[1] - 2016年5月25日[2]、横浜市保土ケ谷区出身 川崎市出身[1])身長175cm。53kg(1976年2月)[1]。
- 堀越高等学校卒業。
- 1978年にJJSを解散後、同年7月21日にVIPのメンバーとして再デビューするも1979年5月13日に脱退。脱退後は、プライベートでソロのアコースティックライブ活動を数年間続けていた。
- 新宿の居酒屋で働き、不動産屋の社長の娘と結婚し男児一人をもうけ、妻の実家の家業である不動産業を手伝っていた。
- 2016年5月25日、ゴルフプレー中のカートを運転している際に急性心筋梗塞となり、逝去。57歳没。亡くなる前の5月14日もファンと交流し、三次会まで行う程、元気な姿を見せていた。
- 畠山久(はたけやま ひさし、旧芸名:畠山昌久(はたけやま まさひさ)、愛称・チャーリー、チャリ坊。1958年2月9日[1] - 2003年5月31日。東京都立川市出身[1])
- 堀越高等学校卒業。父親はスパニッシュダンスの先生。
- 1978年にJJSを解散後、同年7月21日にVIPのメンバーとして再デビューするも1979年5月13日に脱退。脱退後は渡辺プロダクションに移籍し、1980年に芸名を「畠 真之(はた まさゆき)」に変更し、短期間だけ俳優活動を行う。
- 1984年に劇団四季(研究所21期生)に入団。芸名を戻して活動し、1986年いっぱいで退団した。
- 1987年より「畠山 久(はたけやま ひさし)」に再び改名。以後、数多くのテレビドラマやミュージカルに出演した。
- 2003年5月31日、転移性胆管癌の為、45歳で死去。晩年は東京都大田区山王 (大田区)の元々は祖父が所有していた広い一戸建てで暮らしていた。
脱退メンバー
(前身グループ「ジュニア・スペシャル」のみに参加したメンバー)
概要
- 1974年夏、「ジャニーズ・ジュニア第1期生」が2つのグループに分割された。一つはフォーリーブスのコンサートのバックダンサーチームとして作られた3人組の「ジュニア・スペシャル」(板野俊雄、林正明、山縣孝良)。もう一方はジャニーズ・ジュニアの名義のまま、郷ひろみのコンサートのバックを担当した(小坂まさる、畠山昌久、近藤純市、鈴木寛、吉田義久、柏木孝夫)。
- 夏のコンサートを終えた同年9月、小坂と近藤が共にジャニーズ事務所からの脱退を宣言し、それまで住んでいたジャニーズの合宿所を退所する。その為、山縣がスペシャルから元のジャニーズ・ジュニアへ異動となり、同年10月に山縣、畠山、鈴木、吉田、柏木の5名に対して「ジャニーズ・ジュニア・エース」というグループ名が与えられたが、翌11月には山縣、鈴木、吉田、柏木の4名もジャニーズ事務所を退所してしまい、エースはわずか一ヶ月で消滅した。
- その後、ジュニア・スペシャルには井上純一が加入。すぐに続いて畠山昌久も加入して4人組になるが、井上が脱退し、最終的に「板野・林・畠山」という構成に落ち着いた。 一方、ジャニーズ事務所を辞めた6名のJr.はバーニングプロダクションへ移籍し、新グループ「メッツ」を結成してレコードデビューした。
- 1975年2月21日、グループ名も正式に「ジュニア・スペシャル」から「JOHNNYS' ジュニア・スペシャル」となり、『ベルサイユのばら』でレコードデビュー。
- 日本テレビ系の早朝子供番組『おはよう!こどもショー』にレギュラー出演。 「JJSの親子ゲームコーナー」というレギュラーコーナーを持ち、板野がレフェリー、林が紅組キャプテン、畠山が白組キャプテンの役だった。 また、番組内で歌も数曲披露しており、持ち歌には『パイの歌』、『らっぱっぱ』、『またですか?』、『ねずみ小僧次郎吉』などがあった。 同番組には、メリー喜多川の愛娘・藤島ジュリー景子も一緒に出演していた。
- 1978年にはJOHNNYS' ジュニア・スペシャルとしてテレビ番組出演等はあったものの、新譜のリリースはなかった。その後同年7月、「VIP」(後述)として再デビューし、JOHNNYS' ジュニア・スペシャルとしての活動は終了した。
エピソード
- 3人の中では林が一番人気があった。雑誌では、林と手塚さとみのツーショット[要曖昧さ回避]対談なども行われている。また、『月刊明星』の1975年4月号では桜田淳子と共に表紙も飾った。
- ファンによる親衛隊も多く誕生した。代表的なグループは「ガッツ」、「チーパー」など。「ガッツ」は最も大きいグループで、東京と大阪に存在した。また、ステージ用の応援コールも作られた(「J・U・N・I・O・R・ジュニア JJSファイト~!」など)。
- 女優の大島さと子は、かつて林正明の追っかけをしていた。放送作家の山田美保子も、大学時代はJJSの追っかけだった事実を自著で告白している。森公美子もファンであったことを公言している[3]。
ディスコグラフィ
シングル
# | 発売日 | A/B面 | タイトル | 作詞 | 作曲 | 編曲 | 最高順位 | 規格品番 |
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CBS・ソニー | ||||||||
1 | 1975年 2月21日 | A面 | ベルサイユのばら | 山口洋子 | 鈴木邦彦 | 馬飼野康二 | 12位 | SOLB-215 |
B面 | 愛しのオスカル | |||||||
2 | 1975年 5月2日 | A面 | 愛のちかい | 44位 | SOLB-276 | |||
B面 | 白鳥 | |||||||
3 | 1975年 8月21日 | A面 | さよなら愛 | 穂口雄右 | 67位 | SOLB-303 | ||
B面 | 恋はサフラン | |||||||
4 | 1975年 12月5日 | A面 | ハートの夢 | 安井かずみ | 井上忠夫 | 馬飼野康二 | 64位 | SOLB-349 |
B面 | 感じる夕暮れ | |||||||
5 | 1976年 2月21日 | A面 | 愛の飛行船に乗って | 山本寛太郎 | あかのたちお | 80位 | SOLB-363 | |
B面 | 新しい君を知るために | |||||||
6 | 1976年 4月21日 | A面 | サタデー・ナイト | 北公次 | B.Martin P.Coulter | 宮本光雄 | 83位 | SOLB-411 |
B面 | J.J.Sのテーマ | 石原信一 | あかのたちお | |||||
7 | 1976年 7月21日 | A面 | サンデー・キューピット | 伊藤アキラ | 井上忠夫 | 田辺信一 | 圏外 | 06SH-36 |
B面 | 絵本の少女 | |||||||
8 | 1976年 10月21日 | A面 | 太陽のあいつ | 岩谷時子 | いずみたく | 06SH-77 | ||
B面 | 焔のカーブ | 石原慎太郎 | 三保敬太郎 | |||||
9 | 1976年 12月21日 | A面 | 憧れのベイ・シティ・ローラーズ | 伊藤アキラ | T.Modern | いしだかつのり | 06SH-114 | |
B面 | ダンス・フォー・ミー | M.Freiser | ||||||
10 | 1977年 3月21日 | A面 | ツイスト110番 | おりも政夫 | 青山孝 | 06SH-135 | ||
B面 | 片想い日記 | 江木俊夫 | ||||||
11 | 1977年 7月21日 | A面 | ラストショー | 杉山政美 | 木森敏之 | 06SH-185 | ||
B面 | ネイビーブルー | |||||||
12 | 発売中止 | A面 | 伊藤アキラ | 中村弘明 | - | 06SH-248 | ||
B面 | あさひな知彦 | 長戸大幸 | いしだかつのり | |||||
アルバム
オリジナル・アルバム
発売日 | タイトル | 規格 | 規格品番 | |
---|---|---|---|---|
CBS・ソニー | ||||
1st | 1976年2月21日 | 夢のディスクジョッキー | LP | SOLL-207 |
2nd | 1976年12月21日 | 素敵な恋の招待券 | LP | 25AH-121 |
カバー・アルバム
ベスト・アルバム
発売日 | タイトル | 規格 | 規格品番 | |
---|---|---|---|---|
CBS・ソニー | ||||
1st | 1977年12月1日 | 集合!アイドルのすべて JJS全曲集 | LP | 25AH-315 |
Sony Music Direct / GT music | ||||
2nd | 2008年1月23日 | ゴールデン☆ベスト JOHNNYS' ジュニア・スペシャル | CD | MHCL-1275 |
参加楽曲
発売日 | 商品名 | 歌 | 楽曲 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1976年5月21日 | 元気ですか/ぼくの消息 | JOHNNYS' ジュニア・スペシャル | 「元気ですか」 | |
1976年7月21日 | フォーリーブス10周年記念PART1 | 「サタデー・ナイト」 | フォーリーブスのライブ・アルバム |
タイアップ
主な出演作品
テレビドラマ
バラエティ番組
映画
CM
- 味覚糖「ソフトいろいろ」
ミュージカル
- ライブ・ミュージカル 『少年たち ~フォーリーブス・不朽の名作~』 (1975年4月5日 - 5月5日)
- オリジナルミュージカルプレイ 『友情』 (「フォーリーブスリサイタル ’75」の中でのミュージカル、1975年)
- フォーリーブス結成10周年記念リサイタルVol.1『ライブ・ミュージカル 少年たちパートII ~ 青春の光と影 / フォーリーブス・ダイナマイトステージ』 (1976年3月)
- おはよう!こどもショー・ポケットミュージカル (共演:藤島ジュリー景子)
ステージ
- 第53回日劇ウエスタン・カーニバル ~ ばらとみかんとバイオリンと (1975年3月28日 - 3月31日、日本劇場)
- ジャニーズジュニアファーストコンサート (1975年4月5日 - 5月5日)
- ’75 サマーキャラバン ジャニーズ・ジュニア・コンサート (1975年7月25日 - 8月16日)
- 第54回日劇ウエスタン・カーニバル ~ ジャニーズ・ファミリー・フェスティバル (1975年8月27日、日本劇場)
- 第55回日劇ウエスタン・カーニバル (1976年3月24日 - 28日、日本劇場)
- JOE vs JJS + GANGS 1976 サマー・ビッグ・シティ・コンサート (1976年8月9日 - 23日)
- 第56回日劇ウエスタン・カーニバル (1976年8月24日 - 28日、日本劇場)
- ジャニーズ・ジュニア サマー・フェスティバル (1977年夏)
- ジャニーズ・ジュニア Jump up スターパレード’77 (1977年冬)
VIP
VIP(ビップ)は、「JOHNNYS' ジュニア・スペシャル」の後身に当たり、ジャニーズの歴史では極めて稀有の、女性が2人参加したグループ。
メンバー
脱退メンバー
概要
ディスコグラフィ
シングル
参加楽曲
発売日 | 商品名 | 歌 | 楽曲 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1978年 | 新・エースをねらえ! | VIP | 「いつもの街角」 | テレビアニメ『新・エースをねらえ!』関連曲 |
「歩き疲れて」 | ||||
「気になるお嬢さん」 | ||||
「おやすみゴエモン」 | ||||
「愛に包まれて」 |
タイアップ
曲名 | タイアップ | 収録作品 |
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青春にかけろ! | 日本テレビ系放映アニメーション『新・エースをねらえ!』オープニングテーマ | シングル「青春にかけろ!」 |
日本テレビ系放映アニメーション『新・エースをねらえ!』最終回エンディングテーマ | ||
明日に向って | 日本テレビ系放映アニメーション『新・エースをねらえ!』エンディングテーマ | |
きらめきの |
松竹映画『きらめきの季節』主題歌 | シングル「きらめきの |
おしえて下さい | 松竹映画『きらめきの季節』挿入歌 |
メンバーのその後
→「ジャPAニーズ」も参照
- 畠山は脱退後に事務所を移籍。1980年に「畠 真之(はた まさゆき)」に改名して俳優として活動。 1984年に劇団四季へ入団すると、再び「畠山昌久」の名に戻して活動していたが、しばらくしてから「畠山 久(はたけやま ひさし)」へと改名した。1993年には中野サンプラザで行われたロックオペラ「ハムレット」にレアティーズ役で出演し、X JAPANのTOSHI(当時)やデーモン小暮(当時)などと共演。2003年5月31日、転移性胆管癌により死去。45歳没。
- 林はVIP脱退の1ヶ月後から、プライベートでソロのアコースティックライブ活動を数年間続けていた。その後は結婚して男児を一人もうけ、妻の実家の家業である不動産業を手伝っていた。2016年5月26日、心筋梗塞により死去していたことが判明した。57歳没。5月28日に横浜市内で葬儀が行われた[2]。
- 板野と吉本は2019年9月4日、東京ドームで行われた二部制(第一部:芸能関係者、第二部:一般参列者)のジャニー喜多川「お別れの会」に参列した[4]。
脚注
関連項目
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