鹿児島空港 (かごしまくうこう 英語 : Kagoshima Airport 、IATA : KOJ , ICAO : RJFK )は、鹿児島県 霧島市 にある空港 。ターミナルビルは霧島市溝辺町麓 に位置する。空港法 第4条第1項第6号に該当する空港として政令で定める空港(国管理空港) に区分される。
概要 鹿児島空港 Kagoshima Airport, 概要 ...
閉じる
鹿児島市 の北東30kmに位置する。鉄道でのアクセスは悪いが、E3九州自動車道 溝辺鹿児島空港インターチェンジ に近いため高速道路を経由したアクセスは良好である。熊本県 南部(人吉市 、球磨郡 各町村、水俣市 )や宮崎県 南西部(小林市 やえびの市 )などの利用者も多い。鹿児島市街地からは空港連絡バス(九州自動車道経由)が日中約10分間隔で運行されており、鹿児島中央駅 からの所要時間は38分である。
鹿児島空港の国内線は日本エアコミューター のハブ空港 で、日本航空 、全日本空輸 、スカイマーク 、ジェットスター 、フジドリームエアラインズ 、IBEX 、ピーチ 、ソラシドエア などが就航している。鹿児島空港は多くの離島路線を抱えていることもあり、第二種空港 としては国内有数の規模である。海上保安庁 第十管区海上保安本部 鹿児島航空基地を併設している。
空港の立地は標高272mにある。有視界飛行 の小型機が、宣伝などの目的で最低安全高度以下の飛行許可を取って飛行し鹿児島空港に戻る場合は、着陸のために上昇するという他の空港ではあまり見られない状況が起きる[1] 。
平成29年国交省告示第832号により、地方空港では初めてとなるターミナルコントロール空域の再編が行われ、2017年10月12日より宮崎空港 の管制業務の一部(出発・進入、新田原飛行場 への管制)を鹿児島空港で行うことになった[2] 。それに伴い、鹿児島空港事務所内にターミナル空域管制施設が設置された[2] 。このほか、鹿児島県内で航空管制官・航空管制運航情報官を置かない種子島空港 ・屋久島空港 ・喜界空港 ・徳之島空港 ・沖永良部空港 ・与論空港 の6空港におけるリモート管制を行う鹿児島飛行援助センター(FSC) を設置する。
また、イギリスの航空・空港関係格付会社スカイトラックス 社「世界ベスト空港(World's Best Airport)」国内線部門(調査対象期間:2022年8月~2023年2月)において世界第7位 [3] に選ばれた。
利用者数
元のウィキデータクエリ を参照してください.
年間利用客数は国内5,041,011人、国際130,665人の計5,171,676人である(2014年度)[4] 。九州 では福岡空港 に次いで第2位、日本国内では、都市規模の大きい仙台空港 、神戸空港 、広島空港 を上回っている。
就航路線別旅客数
さらに見る 行き先, 旅客数 ...
(鹿児島空港発)2023年度就航路線別旅客数/順位
[5]
行き先 旅客数 国内線順位
東京国際空港
約244万人 上位0 5位
大阪国際空港
約0 66万人 上位42位
閉じる
鹿児島市鴨池時代の鹿児島空港
鴨池にあった当時の空港位置。赤い四角で囲まれた部分はターミナルビル周辺。この地図で滑走路は示されていない。1960年代の空中写真は国土地理院地図で閲覧可能'"`UNIQ--ref-00000017-QINU`"'。
1957年 (昭和32年)7月1日 - 旧・鹿児島空港(通称・鴨池空港。現在の鹿児島市 鴨池新町 付近)が開港[6] 。鹿児島タワーが3階建ての管制塔を使って、管制官4名体勢で管制業務を開始[1] 。滑走路(滑走路方位18-36、1200m x 30m)とその中央部にエプロンを結ぶ短い誘導路が1本あり、東側は護岸や防波堤、西側は境界柵で囲まれていた[1] 。開港開港当初から定期便として、極東航空が鹿児島-宮崎-大阪線(1往復/日)を開設しDC-3 が就航し、鹿児島-福岡(1往復/日)にはデ・ハビランド・ダブ が就航した[1] 。
1961年(昭和36年)9月23日 - 2月1日に全日本空輸に対して免許されていた沖縄線が週2往復で就航。使用機材はF-27。当時は国際線であった[7] 。
1962年 (昭和37年) - 全日空による沖縄線開設に伴い、CIQ を有する税関空港 として指定を受ける[1] 。第10管区海上保安本部の航空基地が設置される[1] 。
1964年 (昭和39年) - 1967年 (昭和42年) - 空港拡張整備工事が行われる[1] 。
1966年 (昭和41年)9月18日 - 全日空機鹿児島空港オーバーラン事故 が発生。
6月 - 様々な調査・検討を踏まえて、鹿児島県大型空港建設推進協議会において十三塚原に新空港建設の決定がなされた[1] 。鴨池空港の滑走路はオーバーラン 部分を含めて1200mであり、実質1080mと短い上、北側には進入表面限界ぎりぎりの高さで県立体育館があり、南側には1m余りの護岸があり、パイロットにとって大きな負担となっていた[1] 。また、滑走路東側には農耕地があり、正規のルート(護岸沿いに歩くルート)を通らず、滑走路を横切って近道をする農民その他が発生し、航空機の運航に支障を来すことがあった。さらには交通量の増加に伴い、滑走路の延長と大型機の運航が検討されたが、最大で1720m (オーバーラン部分120mを含む)が限界であることや環境面などの観点から移転が決断された[1] 。
同年の暮れにターミナル・レーダー管制業務が運用開始[1] 。
1972年 (昭和47年)3月31日 - 移転のため、閉港
国際線ターミナル
長崎税関 鹿児島空港出張所 : ビジネスジェット専用施設「桜島」も対応
福岡出入国在留管理局 鹿児島出張所(出入国監理官派遣) : ビジネスジェット専用施設「桜島」も対応
福岡検疫所 鹿児島空港出張所 : ビジネスジェット専用施設「桜島」も対応
鹿児島銀行 外貨両替機(1階) : 外貨両替は米ドル のみ対応(国内線ターミナル側有人窓口も対応可)
有料特別待合室ハイビスカス(3階)
礼拝堂(3階)
動物検疫所 門司支所 鹿児島空港出張所(空港外:JR嘉例川駅 へ向かう道路沿い案内看板あり) : 九州内福岡・長崎・鹿児島の3空港が併設対応し周辺対応施設が充実しているため食用馬や競走馬をはじめとした動物輸送チャーター便飛来が多い[13] [14]
国内線ターミナル
空港施設内に鹿児島空港内簡易郵便局が設置されている ※一時閉鎖中[15]
鹿児島銀行 鹿児島空港出張所があり外貨両替等窓口業務も行っている。
到着ロビー
1階 - 空港温泉足湯 おやっとさぁ
2階 - エアポートギャラリー、ワークブース テレキューブ (ラウンジ横)
3階 - 屋上・展望デッキ、ソラステージ
制限エリア外
制限エリア内
空港温泉足湯 おやっとさぁ
ソラステージ
ANAラウンジ
航空会社が2社以上記載の場合、最初に記載の航空会社の機材・乗務員による共同運航便(コードシェア便) である。詳細は 月刊時刻表 を参照。
国際線
国際線ターミナル
目前に霧島山 が見え、周囲には妙見温泉 など温泉が多い。
バス
空港ターミナルビル:県内各都市や県外各都市への直通バス が出ているほか、都市間バスの鹿児島 - 熊本線「きりしま号 」・鹿児島 - 福岡線「桜島号 」(一部便のみ)が乗り入れている。案内窓口及び券売機が設けられている。
鹿児島空港南バスストップ :九州自動車道 本線上に位置。過去には九州・本州各地を結ぶ長距離高速バスが発着していたが、鹿児島発着路線の大半が休止・廃止されたため、現在は福岡線のみの停車となっている。空港ターミナルビルまでは徒歩約15分。
鉄道
JR - 肥薩線 (アクセス路線ではなく、本数も少ないなど利便性は低い)
中福良駅 (直線距離約2キロ、実距離6.1キロ)滑走路の下の通路経由で歩いて行けなくもないが1時間は必要
嘉例川駅 (約4キロ、車で10分)
日豊本線 の国分駅 あるいは加治木駅 からの路線バスがあるが、いずれも鉄道との接続は考慮されておらず本数も多くない。なお国分駅前のほか鹿屋 方面からのバスが近隣の霧島市役所を経由しておりこちらも利用可能。
さらに見る のりば, 方面 ...
のりば
方面
種別
行先
6
加治木・姶良・加世田・枕崎・福岡
高速バス
一般路線バス
論地岡・バイパス経由 姶良ニュータウン
帖佐駅・イオン姶良経由 蒲生・楠田
新生町・帖佐駅・イオン姶良経由 蒲生・楠田
イオンタウン姶良
帖佐駅
加治木港
溝辺ふれあいバス
7
谷山・指宿・人吉・八代・熊本
高速バス
【きりしま号】熊本
皇徳寺・中山団地経由 谷山
平川・喜入経由 指宿・山川桟橋
8
鹿児島市内
高速バス
[ノンストップ]中央駅・天文館経由 市役所前 / 鹿児島本港(高速船ターミナル)
伊敷・中央駅・天文館経由 市役所前
吉野・天文館・中央駅経由 県庁・鴨池港
9
栗野・大口・水俣・霧島温泉郷・宮之城・出水・阿久根・蒲生・川内
一般路線バス
蒲生経由 川内(京セラ第二工場)
宮之城経由 出水・阿久根
幸田 / 栗野経由 大口・水俣
溝辺下十文字
[妙見温泉バス]嘉例川駅・妙見温泉 隼人駅
10
鹿屋・垂水・岩川・志布志・国分・京セラ国分・妙見温泉・隼人
一般路線バス
東九州道経由 鹿屋(東笠之原)
ホテル京セラ・牧之原・輝北経由 鹿屋(東笠之原)
ホテル京セラ・牧之原・岩川経由 志布志
姫城・国分駅 経由 京セラ国分
姫城・国分駅・検校橋経由 垂水港
閉じる
2014年初めまで現存していた旧空港ビル(鴨池)
旧空港ビル跡にオープンしたニシムタ スカイマーケット鴨池店
旧・鹿児島空港は1932年、鹿児島市の中心にほど近い鴨池地区(真砂本町 )に鹿児島市営水陸両用飛行場 として建設され、第二次世界大戦 中の1940年に海軍航空隊鹿児島基地 として改装された[6] 。1,500m×600mの滑走路と16,900平方メートルの格納庫を擁し、練習航空隊の教育などに使用された。1945年、戦争の激化により教育は中止され、度重なる空襲によって使用できなくなった[22] 。特別攻撃隊の基点としては鹿屋飛行場 と知覧飛行場(知覧特攻平和会館 )が著名であるが、本飛行場も使用された。1957年、鹿児島基地の跡地に鹿児島空港(通称・鴨池空港)が第二種空港として開港した。
1972年に空港が現在地に移転。跡地は日本住宅公団 により鴨池ニュータウンとして開発され、1996年には県庁や県警本部がこの一角に移転した[6] 。旧空港ビルは1978年 からスーパーマーケットのスーパーハルタ アポロ店[23] (2012年 1月15日 閉店)を含むテナントビルとして利用されていたが、老朽化のため解体が2013年に決定した[6] 。2014年始めに取り壊され、現在、跡地ではニシムタ スカイマーケット(2015年4月23日開業[24] )が営業している。スカイとあるように、かつての空港である名残を名前として残しており、店内にも旧鹿児島空港時代の写真などが展示されている。また、旧格納庫は南国交通 鹿児島営業所 の車庫として利用されていたが、車庫が2008年8月に鹿児島市小野町 へ移転したことから翌9月に取り壊された[6] 。
2019年 10月12日 11時20分頃、鹿児島空港発種子島空港 行き日本エアコミューター 3763便が、当空港を離陸してから12分後に乱気流に巻き込まれ、出発地の鹿児島空港へ引き返した。この便の乗客16人に怪我はなかったが、客室乗務員1人が骨折した。国土交通省交通局は重大インシデントとして本件を航空事故に認定、16日に運輸安全委員会の調査官2名が日本エアコミューターへ派遣した。なお事故当日、機体が揺れた地点は令和元年東日本台風 (台風19号)の強風域から外れていたが、北からの風は強いままであった。また鹿児島空港から東京羽田空港へ発着する便も多数の欠航も出ていた[25] [26] 。
東京線が最も大きなシェアを持ち、大阪線・中部線・奄美大島線・福岡線・那覇線と続く。ワイドボディ 機は、幹線を除くと東京線や大阪線に導入されたケースが多い。また、そうした背景から多数メモリアルフライトに使用された路線である。羽田〜鹿児島線におけるワイドボディ機のメモリアルフライトは下記の通り。
空港内には離島路線を担う日本エアコミューター の本社がある。同空港を拠点に奄美 、沖永良部 、与論 などの薩南諸島への路線を展開している。その主力であった唯一の国産旅客機YS-11 の国内ラストフライトの到着地である(2006年 9月30日 JAC3806便 沖永良部発鹿児島行)。
2002年4月から2006年4月の期間、スカイマークエアラインズ (現スカイマーク)によって羽田空港 便が就航していたが、就航から4年で撤退した。このとき、搭乗率が平均60%台(当時の羽田 - 福岡線に次ぐ利用率)という高い数字を維持していたにもかかわらず、羽田空港の新規発着枠を確保する目的で鹿児島からの撤退を決断したことで、6億を超える多額の出資を行った地元経済界から猛反発を受けた。撤退の背景には当時50億円の赤字を抱えたスカイマークが、より高い収益を確保すべく路線の集約をもって機材の回転数を上げる狙いがあったとされる。岩崎産業 が訴訟を提起するなど、同社が撤退した3路線の中でも最も激しい抗議があったのが鹿児島であった。
現在地は第二次世界大戦 中に海軍 航空隊・国分第二基地として、沖縄 方面への特攻 出撃などにも使用されていた場所である。滑走路 34方向に空港公園があり、戦時中の滑走路 の破片が展示されている。
食用馬の輸入量が日本一多い。大消費地である熊本に近いこと、動物検疫所があることが理由[31] 。
鹿児島県知事三反園訓 (当時)は、県が主導する「明治維新150周年記念プロジェクト」の一環として鹿児島空港の愛称を付けることを表明し[32] 、2017年7月4日、第2回総会において「鹿児島西郷(せご)どん 空港」もしくは「鹿児島西郷(さいごう)どん空港」とすることが提案された[33] 。しかし賛否両論となり、結論は持ち越された[34] 。
注釈
すべて日本エアコミューターの機材・乗務員で運航。ANA便は日本エアコミューターとのコードシェア扱い
別棟・同社の本社運航所より離着陸。両路線とも予約がなければ運航されない特別予約便(定期チャーター便)
エア・ナウル(アワー航空を経て、現在はナウル航空)が、外国航空会社として初めて就航(1972年12月)したが、機材やパイロット不足で就航率が悪く2日遅れなどの遅延も多く撤退した[20] 。なお、当時のチケットはオセアニア方面へ向かう旅行者向けに格安航空券として販売されていた。
当時のANAの紙の時刻表の上ではボーイング777-300による運用便だったが、この日のみボーイング747SRとなった。
出典
「航空管制五十年史:航空交通の安全ひとすじに」, 航空管制五十年史編纂委員会, 航空交通管制協会刊, 2003年3月, P184 「5-16 鹿児島空港」
“会社概要 ”. 鹿児島国際航空 (2015年5月9日). 2023年7月24日 閲覧。
伊藤久巳「飛べ!J Bird JAL MD-11就航」 - 月刊エアライン1994年6月号(イカロス出版)
JAL国内線にスタージェット就航!羽田→鹿児島デビュー・フライト 輝き始めたぞ!日本航空B777 - 月刊エアライン1996年7月号
阿施光南「皆が全日空トライスターにさよならを告げたフライト トライスターの輝きよ、永遠に」 - 月刊エアライン1996年2月号
阿施光南「さらば、スーパージャンボ!涙雨が演出したANA Boeing747classicのラストシーン」 - 月刊エアライン2006年5月号
ウィキメディア・コモンズには、
鹿児島空港 に関連するカテゴリがあります。