鮫島博一

日本の海軍軍人、海上自衛官 ウィキペディアから

鮫島博一

鮫島 博一(さめじま ひろいち、1918年大正7年〉10月26日 - 2000年平成12年〉8月14日)は、日本海軍軍人及び海上自衛官海軍兵学校卒業(第66期)。第10代海上幕僚長、第9代統合幕僚会議議長

概要 鮫島(さめじま) 博一(ひろいち), 生誕 ...
鮫島さめじま 博一ひろいち
 
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生誕 1918年10月26日
日本 鹿児島県
死没 (2000-08-14) 2000年8月14日(81歳没)
日本 東京都世田谷区
所属組織 大日本帝国海軍
海上保安庁
海上警備隊
警備隊
海上自衛隊
軍歴 1935年 - 1945年(帝国海軍)
1952年 - 1954年(警備隊)
1954年 - 1977年(海自)
最終階級 海軍少佐(帝国海軍)
統合幕僚会議議長たる海将(海自)
除隊後 財団法人水交会会長
石川島播磨重工業顧問
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略歴

鹿児島県川辺郡東加世田村(のち万世町加世田市、現南さつま市)出身。旧制第一鹿児島中学四年修了後、海軍兵学校に入校。海軍時代は艦攻パイロットであり、飛行学生を首席で卒業。開戦から約7ヶ月は空母龍驤」に乗組み、ダッチハーバー空襲等の作戦に参加。しかし、その後は陸上勤務で、海軍航空技術廠ではテストパイロットとして水平爆撃用の照準器反跳爆弾の研究を続け、最後は陸上攻撃機連山」の開発にも加わった[1]

戦後は公職追放となり、追放解除後に海上保安庁から海上警備隊を経て海上自衛隊に入隊し、第1回幹部特別操縦講習員として操縦桿を握ったが、翌年駐米防衛駐在官となり、以後操縦桿を握る機会はなかった[1]。米国駐在官時代にP2V-7S-2Fの導入に尽力し、海自航空の基礎を作った[1]

帰国後は海上幕僚監部の防衛班長、業務班長、防衛課長、防衛部長と防衛畑を歩み、教育航空集団司令官、航空集団司令官を経て第10代海上幕僚長に就任。航空畑からは初の海上幕僚長。在任中に第十雄洋丸事件が発生し事態に対処する。

年譜

栄典

  • 勲二等瑞宝章 - 1988年(昭和63年)11月3日

脚注

参考文献

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