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日本の寝台急行列車 ウィキペディアから
銀河(ぎんが)は、日本国有鉄道(国鉄)および、その分割民営化後は東日本旅客鉄道・東海旅客鉄道・西日本旅客鉄道が、東海道本線の東京駅 - 大阪駅間で運行していた寝台急行列車である。また、最後の『寝台急行』でもあった[2]。列車名は、天体の銀河に因んでいる。
銀河 | |
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概要 | |
国 | 日本 |
種類 | 寝台急行列車 |
現況 | 廃止 |
地域 | 東京都・神奈川県・静岡県・愛知県・岐阜県・滋賀県・京都府・大阪府 |
運行開始 | 1949年9月15日[1] |
運行終了 | 2008年3月14日 |
運営者 |
日本国有鉄道(国鉄)→ 西日本旅客鉄道(JR西日本) 東日本旅客鉄道(JR東日本) 東海旅客鉄道(JR東海) |
路線 | |
起点 | 東京駅 |
終点 | 大阪駅 |
営業距離 | 556.4 km |
列車番号 | 101・102 |
使用路線 |
JR東日本:東海道本線(東海道線 (JR東日本)) JR東海:東海道本線(東海道線 (静岡地区)・東海道線 (名古屋地区)) JR西日本:東海道本線(琵琶湖線・JR京都線) |
車内サービス | |
クラス | A寝台・B寝台 |
就寝 |
開放A寝台(1号車) 開放B寝台(2 - 8号車) |
技術 | |
車両 |
24系客車(宮原総合運転所) EF65形電気機関車(田端運転所) |
軌間 | 1,067 mm |
電化 | 直流1,500 V(架空電車線方式) |
最高速度 | 110 km/h |
本項では、東京駅 - 大阪駅間で運転されていたその他の急行列車についても記述する。
1949年(昭和24年)9月に東京駅 - 神戸駅間で、これまで一等車・二等車のみで組成された夜行急行列車である15・16列車に「銀河」の愛称を与えて運転を開始したのが始まりである[1]。列車最後尾には特急列車並みの行灯式テールマークが取り付けられた[1]。
しかし戦前の名士列車に準えた豪華な編成が仇となって利用が伸び悩み、戦後混乱期の当時はまだ混雑する列車が多い中でがらがら状態で走っていたため非難を浴びることになり、わずか9日後の9月24日には三等車を連結するようになりテールマークも外された。
1976年頃より運行距離(営業キロ556.4 km)から特急列車化も考えられたが、東京駅 - 大阪駅間では有効時間帯の問題からさほど所要時間も変わらないことから「単なる値上げ」とも取られかねず、また繁忙期に運転されていた「銀河」の臨時増発列車は座席車中心で編成されていたこともあり、急行列車として存置された。
2000年代に入ってからは車両の老朽化や利用客の低迷が続き、2008年3月15日のダイヤ改正で廃止された[3]。JR西日本は廃止した理由を、新幹線や飛行機、高速バスが整備されるとともに、格安な宿泊施設が増えたことにより、宿泊設備を持つ列車の競争力が下がったためとしている[4]。
東京・大阪ともに朝7時前後に到着するダイヤであったため[4]、ターミナルから距離のある場所でも朝一番から活動可能であった。途中駅で停車時間を多めにとることなどで到着時刻を調整していた。列車番号は下りが101列車、上りが102列車であった[1]。
運転開始当初は1往復であったが、1968年10月に東京駅 - 大阪駅間で運行されていた寝台急行「明星」が統合されて「銀河」は2往復になった[1]。また、急行「なにわ」の廃止により、全車座席車で大阪駅発着の季節列車も1往復設定されていたが、1975年に1往復が特急列車に変更されて以降は、廃止されるまで定期列車は1往復が運転されていた[1]。
1998年7月からは臨時の「銀河」81号・82号のダイヤを利用して、285系電車「サンライズエクスプレス」による寝台特急「サンライズゆめ」が運転を開始し、しばらくは運転日が重複しないように考慮されていたが、その後は「サンライズゆめ」に変更された。
東京駅 - 品川駅 - 横浜駅 - 大船駅 - 小田原駅 - 熱海駅 - 〔沼津駅〕 - 〔富士駅〕 - (静岡駅) - 〔名古屋駅〕 - (岐阜駅) - 米原駅 - 大津駅 - 京都駅 - 新大阪駅 - 大阪駅
機関車は東日本旅客鉄道(JR東日本)の田端運転所配置でEF65形電気機関車が牽引した。スーパーエクスプレスレインボーの牽引指定機関車が充当されることもあった。特急ではなく急行のため、機関車にヘッドマークは装着されなかった。
客車はJR西日本の宮原総合運転所に配置される24系客車7両(繁忙期には9両)が使用された。全車寝台車で編成され、開放式のA寝台・B寝台のみを連結し、個室や座席車は連結されなかった。
A寝台は開放二段式・定員は28名で1号車とされ、喫煙室および更衣室があった。1号車以外はすべて二段式のB寝台で、定員は32名または34名であった。車内販売は営業していなかった。
電源車カニ24はトワイライトエクスプレス色の車両が連結されることがあり、ごくまれにEF65形レインボー色との組合わせも見られた。
なお、廃止時に使用された24系客車などはタイ国有鉄道から譲渡の依頼があり、日本から輸送して使用されている。日本からタイ王国に送られた客車は100両を超えているといわれている[5]。
夜行急行列車としては、従来、10系客車を含めた旧型客車(こちらの表では「鋼製制式客車」が該当する)が用いられることが多く、当然ながら運行当初よりそれらが用いられた。
しかし、たとえば運行当初でも当時では東海道・山陽本線でのみ用いられた旧一等寝台車"マロネ40・41形客車"[1]や、旧型車両末期の1970年代中庸には座席指定車としてかつての特急用三等車スハ44・スハフ44を用いるなど、編成をつぶさに見ると他の夜行急行列車のそれとは差異があった。
1976年2月20日から使用を開始した20系客車[1]は当時まだ寝台特急として用いられていたため、特急列車用の車両が急行列車に転用される初例となった。また、これ以降急行用の寝台車として主流であったオハネ10系寝台車の置き換えが20系客車を格下げする形で進められるようになった。
その後、1985年3月には14系客車に置き換えられたが、1年8ヶ月後の1986年11月には24系客車に再度置き換えられた[1]。
一時向日町運転所所属の581・583系への置換も検討され、イラスト入りマークや方向幕も準備されたが、最終的には見送られた。
運転士は各自社線内を担当していた。
東京と大阪を結ぶ主たる交通機関である東海道新幹線や航空会社各社の最終便より遅い時間に出発し、翌朝の新幹線の始発列車に乗るよりも早い時間に東京駅・大阪駅に到着できることから、これらの空白時間帯を埋める存在の一つとして有力な選択肢となっていたが、国鉄分割民営化後の1987年当時に8割程度あった乗車率も、2007年には4割程度まで落ち込んでいた[4]。
東京駅 - 大阪駅間という以前は夜行列車でも需要が見込めた区間や、上記の通り新幹線の走らない非有効時間帯を利用して移動できるメリットがあった。東京と大阪をB寝台利用で移動する場合、「のぞみ」の普通車指定席で移動した場合の運賃・料金の合計額とほとんど変わらないことが売りで、利用者層はビジネス客が多く利用していた[7]。
2000年代に入ってからは夜行列車の衰退の影響を受けゴールデンウィークやお盆・年末年始[8]など一部の期間を除けば低迷しており、2006年の平均乗車率は40%強であった[9][4]。乗車率が低下した要因として、東海道新幹線が早朝・深夜に運行されるようになったことや、ツアーバスを含む夜行バスの普及、ホテル宿泊料金の価格破壊などといった影響によるビジネス客の利用減少があった[7][4]。このため晩年は減車を余儀なくされ、A寝台・B寝台とも開放式寝台のみで寝台特急には連結されていた個室寝台がなかったことや、車両の老朽化もあり季節列車(臨時列車)への格下げや廃止説もたびたび浮上した。
2008年3月中旬のダイヤ改正で「あかつき」「なは」とともに廃止になる見込みと一部報道機関によって報じられた後に存続を求める声があり、大船駅の東海道線下りホームには利用を促すポスターも掲出されたことがあった。
1948年7月に「銀河」に続いて、東京駅 - 大阪駅間で運転を開始した急行列車。運転開始当初は臨時列車で、列車名が付与されていなかった。翌年1949年9月に定期列車化されたが、「明星」の列車名が付与されたのは1950年11月であった。1956年3月に三等寝台車が連結されるまでは座席車のみの車両で運転されており、同年11月からは二等寝台車も連結されるようになった。
1961年3月に「金星」が運転開始したことにより寝台列車化されたが、東海道新幹線の開業により利用客が減少、列車愛称統合もあり、1968年10月に「銀河」へ統合されて廃止[1]。
東京駅 - 大阪駅間で1949年9月から1964年9月まで運転されていた夜行急行列車。運転開始当初は列車名が付与されていなかったが、車両設備が「銀河」と差が無いためか関西では「流星」の列車名で呼ばれていた。1950年11月に正式に「彗星」の列車名が付与された。
1956年11月に「出雲」が東海道本線内で単独運転とするために「彗星」は不定期列車に変更されたが、1957年10月に全国の夜行急行列車に先駆けて寝台列車化された。1962年5月からビュフェ式食堂車オシ16形「サロンカー」が連結されていた。
1953年11月から1965年9月まで東京駅 - 大阪駅間で運転されていた夜行急行列車で、「月光」の運転開始により東海道本線の夜行急行列車は4往復に増発され、慢性的な輸送力不足は解消されるようになった。座席車は運転開始当初から連結されていたが、東海道本線でも電車運転が行われるようになると、1961年10月に座席車の連結が取りやめられ、寝台列車として運転されるようになった。
混雑が慢性化していた東京駅 - 大阪駅間の急行列車の混雑緩和を目的として、1958年10月から1961年9月までと、1962年6月から1964年9月まで運転されていた急行列車である。
運転開始当初はすべて座席車の不定期列車であったが、1959年9月に寝台列車化されて毎日運転の不定期列車となった。1961年10月に「銀河」「月光」「金星」が一斉に寝台列車化されたため、「あかつき」が廃止されたが、ビジネスマンから快適な寝台列車の人気が高かったため、1962年6月に不定期列車の「第2六甲」が寝台列車化されて「あかつき」に改称されて復活した。それでも「あかつき」は不定期列車のままであったが、1962年10月にようやく定期列車化され、東海道新幹線が開業する1964年10月に廃止されるまで運転されていた。
1961年3月に東京駅 - 大阪駅間で運転を開始し、定期列車として初めて電車で運転される夜行急行列車であった。「なにわ」と共通運用であったため、153系の運用効率が高まり、以降は客車で運転されている夜行急行列車の寝台列車化が進められることになった。1961年10月に客車化と同時に寝台列車化が行われ、東京駅 - 京都駅間では、下りは観光団体専用列車と、上りは「出雲」と併結運転されていたが、その後も単独運転になることはなく、1965年10月に東海道本線夜行急行としての「金星」は廃止された。
「いこま」「よど」「六甲」はいずれも1961年10月に東京駅 - 大阪駅間で運転を開始した急行列車。昼行1往復、夜行1往復がいずれも153系12両編成で運転されていた。なお、「いこま」の夜行列車は不定期列車であった。
1962年6月には「よど」「六甲」は夜行列車が廃止されて1往復になり、「いこま」は1965年10月に毎日運転の臨時列車として夜行列車の1往復のみの運転に変更され、東海道本線の座席夜行急行列車は削減が進められていった。1965年10月に「よど」「六甲」が廃止され、最後まで残った「いこま」についても1968年10月に廃止された。
列車名の由来は、「いこま」が大阪府と奈良県の府県境に位置する生駒山、「よど」が大阪湾に流れ注ぐ淀川、「六甲」が神戸市の東西に連なる六甲山地の最高峰である六甲山である。
1963年10月から1964年9月まで東京駅 - 大阪駅間で運転されていた夜行急行列車。東海道新幹線の開業によってわずか1年で廃止された。
当時の寝台急行は、寝台料金を払っても快適に旅をしたいという要望が強かったが、線路容量が一杯でこれ以上の増発ができる状態ではなかったため、「なにわ」の1往復を削減して「すばる」が運転されていた。
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← 神戸 東京 →
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← 神戸 東京 →
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「銀河」最終日編成 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
← 大阪 東京 →
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