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過越(すぎこし)またはペサハ(ヘブライ語: פֶּסַח, pesach)とは、ユダヤ教の宗教的記念日。家族が食卓につき、マッツァーやセーデル等の儀式的なメニューの食事をとって祝う。期間はザドク暦では第一のホデシュの14日。ユダヤ暦ではニサン月(政治暦7月、宗教暦正月)14日。ユダヤ暦は太陰太陽暦であり、初日のニサン月15日はグレゴリオ暦3月末から4月頃の満月の日となる。
聖書の出エジプト記12章に記述されている、古代エジプトでアビブ(ニサン)の月に起こったとされる出来事に起源を持つ。エジプトの地で奴隷になっていたイスラエルの民が、モーゼの先導でパレスチナの地に脱出した故事を記念する。
イスラエル人は、エジプトに避難したヨセフの時代以降の長い期間の間に、奴隷として虐げられるようになっていた。神は、当時80歳になっていたモーセを民の指導者に任命して約束の地へと向かわせようとするが、ファラオがこれを妨害しようとする。そこで神は、エジプトに対して十の災いを臨ませる[注 1]。その十番目の災いは、人間から家畜に至るまで、エジプトの「すべての初子を撃つ」というものであった。神は、二本の門柱と、かもいに、子羊の血がついていない家にその災いを臨ませることをモーセに伝える[1]。つまり、この名称は、二本の門柱と、かもいに、子羊の血のついている家にはその災厄が臨まなかった(過ぎ越された)ことに由来する。
この祭事は、元は遊牧民において冬の宿営地から夏の宿営地へと移動する際に行われていた厄除けのための祭事が起源であり過越とは関係のない祭であったが、上記のような出エジプトにおける過越の伝承と結び付けられてユダヤ教の祭となったと考えられている。種入れぬパンの祭(除酵祭)[2]もまた、起源は過越とは関係のないイスラエル人がカナンに定住するようになった時代の農業祭であったが、過越祭と除酵祭がともに種入れぬパンを食べる習慣を持ち、また祭の時期も近かったため、二つの異なる祭が併合されて一つの祭となったと考えられている[3]。
現在では行われないものと受け継がれているものがある[4]。
聖書の命令に従って、ユダヤ教では今日でも過越祭(除酵祭[2])を守り行っている。このユダヤ暦のニサン15日から始まる一週間はペサハと呼ばれるユダヤ教の三大祭りのひとつであり、ほとんどのユダヤ教徒がこれを祝う。
期間中は「ハガダー」という「出エジプト」にまつわる書物を読む習わしがある。この祭のあいだ、男子の多くは敬虔の証として「キッパー」という縁なしの帽子をかぶる。
ユダヤ人がモーゼに率いられてエジプトを脱出した時の状況を伝える「出エジプト記」は、エジプト王の追跡を受けたユダヤ人集団はパンに酵母を混ぜて膨らむのを待つだけの時間の余裕がなく、酵母を入れないパンをそのまま食べたと記録する。3月末から4月はじめの1週間、ユダヤの人々は、エジプトを脱出した時の記憶を忘れないよう、酵母でふくらませたパンを食べない。
過ぎ越祭の日の夕食には、以下のものが提供される。
過越祭の食卓で主催者の捧げる祈祷には「今年は異郷の地にあっても、来年こそはエルサレムで!」の文言が含まれる。ディアスポラで全世界に離散したユダヤ人は、数千年にわたって「来年こそはエルサレムで」の文言を毎年唱え続け、シオニズム運動の根拠となった。
洗礼者ヨハネは民衆に対し、イエス・キリストのことを「世の罪を取り除く神の小羊」であると紹介した。これは「苦難の僕」[14]のことであると解されている。その他の様々なヤハウェの預言者も、民の罪を贖う神の子羊(メシア、キリスト)をユダヤ教聖書(キリスト教旧約聖書)に預言している。[15]
そして、ナザレのイエスが不法に処刑された[16]のはニサン14日(過越の準備の日)であり、民を罪から贖うための犠牲の子羊はイエス・キリストであったと、神の霊感により様々な著者を通して書かれている。[17]。
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