観音正寺
滋賀県近江八幡市にある寺院 ウィキペディアから
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観音正寺(かんのんしょうじ)は、滋賀県近江八幡市安土町石寺にある天台宗系単立の寺院。山号は繖山(きぬがささん)。本尊は千手観音。西国三十三所第32番札所。観音寺城跡の、琵琶湖の東岸、標高433mの繖山(きぬがさやま)の山頂南側の標高370m付近に位置する。
本尊真言:おん ばざら たらま きりく
ご詠歌:あなとうと導きたまえ観音寺 遠き国より運ぶ歩みを
伝承によれば、推古天皇13年(605年)に聖徳太子がこの地を訪れ、自刻の千手観音を祀ったのに始まるというが、その話は二通りある。
一つは、聖徳太子が神崎郡(かんざきのこおり)を訪れた際、葦原の繁る水域に人魚が出現し[注 1]、自分は前世は堅田の漁師だったが、殺生を重ねた業によりこの姿になり苦しんでいる。願わくば、千手観音の像を堂に収めて自分の菩提を弔ってもらいたいと懇願したのである。こうして聖徳太子はその願いを受けて当寺を建立し、自ら千手観音像を作って本尊としたのが建立のいきさつとする[3]。
『西国三十三所観音霊場記図絵』ではこう伝えており、後に人魚は成仏し(仏果を得)、死骸は浜辺に浮いていると太子の夢枕に報告したので、回収させて当寺に納めさせた、とある[3][4][5]。当寺にはその人魚のミイラと称するものが伝えられていたが、1993年(平成5年)に火災で焼失した[6]。
もう一つは、聖徳太子がこの地を訪れた際に天人が繖山の巨岩の上で舞っていたのを見て、その岩を天楽石と名付け、聖徳太子自ら妙見菩薩を始めとする五つの仏をそこに刻んだという。次いで聖徳太子は天照大神と春日明神のお告げによって、山上に湧く水で墨をすって千手観音を描いたところ、釈迦如来と大日如来が現れて霊木で千手観音像を作るようにとの啓示を受けた。こうして聖徳太子は自ら霊木で千手観音像を彫り上げ、天楽石を奥の院として当寺を建立したというものである。
実際の創建時期については不明であるが、遅くとも11世紀の平安時代には既に存在していた。また、元弘3年(1333年)に足利高氏に攻められた六波羅探題北方北条仲時が後伏見上皇・花園上皇および光厳天皇を連れて東国に下ろうとした際に、両院(上皇)や天皇の宿舎に充てられたとする伝承がある[7]。その場所は現本堂の地であり、禁裏屋敷と呼ばれていたという。
観音正寺が位置する繖山には、鎌倉時代以来近江国南半部を支配する佐々木六角氏の居城である観音寺城があったが、六角高頼が観音寺城を居城として以来、寺は六角氏の庇護を得て大いに栄えた。寺伝によると最盛期には72坊3院の子院を数えたとされる。しかし、六角定頼が当主の時や永禄年間(1558年 - 1570年)に六角義賢が観音寺城の拡張工事を行った際に、山上の寺域は次第に観音寺城に取り込まれることとなり、遂に寺は麓の観音谷に移ることとなった。この移転以前の境内としては、本谷道を参道とし、伝後藤邸跡地にある石段を真っすぐに上がり、現在境内となっているところ(後に拡張のため埋められた)をも超えて伝三井邸(西側の方の)跡地に至り、山の頂上に近いそこにかつての本堂である観音堂があったとする見解がある[7]。
麓に移ったばかりの寺であったが、永禄11年(1568年)9月12日の観音寺城の戦いで織田信長に敗北した六角義賢・義治父子が観音寺城を捨てて甲賀郡に退却した時の混乱で焼失した。しかし、慶長2年(1597年)には再び山上に堂舎を建てることとなり、かつての参道を埋めて境内地を確保し、山頂近くに観音正寺を再興させ、現在庫裏が建っているところに観音堂を完成させた。
江戸時代に入り、西国三十三所の霊場として栄えた観音正寺は、天保12年(1841年)には塔頭として、定円坊、本乗坊、松林坊、宝泉坊、観泉坊、松寿坊、徳万坊、光林坊、教林坊の10か坊が存在していたが、明治時代に入ると教林坊を残して廃絶した。そして教林坊も後には独立している。
1880年(明治13年)に観音堂を建て替えることとし、観音堂は滋賀県犬上郡甲良町にある念称寺に本堂として移築された。そして1882年(明治15年)、彦根城の欅御殿を本堂として貰い受けて境内に移築した。
しかし1993年(平成5年)、本堂が失火により焼失。交通の不便な山中にある寺院のため消火活動もままならず、重要文化財に指定されていた明応6年(1497年)の銘がある秘仏の本尊千手観音立像と「人魚のミイラ」も焼失した。現在ある木造入母屋造の本堂は2004年(平成16年)に再建されたものである。
新たに造立された本尊千手観音坐像は仏師松本明慶の作。旧本尊が1メートル足らずの立像であったのに対し、像高3.56メートル、光背を含めた総高6.3メートルの巨大な坐像である。観音像はインドから輸入した23トンもの白檀で作られている。白檀は輸出禁制品であったが、観音正寺の住職がインドを20回以上訪れ、度重なる交渉の末に特例措置として日本への輸出が認められたものである。なお、無傷で火災を逃れた前立本尊は新たに秘仏とされ、2022年(令和4年)に公開されている。以降は33年ごとの公開とする予定である。
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