甲良町
滋賀県犬上郡の町 ウィキペディアから
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甲良町(こうらちょう)は、滋賀県の東部(湖東地域)にある町。犬上郡に属す。滋賀県内にある地方自治体のうち、豊郷町に次いで面積が小さい町でもある。
滋賀県犬上郡のほぼ中央に位置し、北は彦根市、東は多賀町、西は豊郷町、南は愛荘町に接している[1]。町の総面積は13.63km2で県内で2番目に小さい[1]。
鈴鹿連峰(鈴鹿山脈)から琵琶湖に向かう緩やかな傾斜を持つ平坦な地形となっており、東部の標高は130メートル、西部の標高は115メートルほどである[1]。主産業は稲作主体の農業生産であり、犬上川左岸扇状地に開けた米作地帯となっている[1]。土地利用でも、田が648ha(47.6%)、畑が47ha(3.5%)、宅地が211ha(15.5%)、山林・原野が191ha(14.0%)、その他が234ha(17.2%)で、農用地が半分以上(51.0%)を占めている[1]。
町の東部には名神高速道路と国道307号、西部には東海道新幹線と近江鉄道が通っている[1]。
甲良町が属する犬上郡の気象データは観測されておらず、地域は彦根地方気象台の管轄区域に属しているため、西隣にある彦根市のデータが最も近い。よって、「彦根市#気候」を参照のこと。
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下之郷遺跡が発掘調査されたところ、古墳時代のものと分かり、そのころから集落があった。
法養寺遺跡も発掘調査により飛鳥時代の集落であった。
桂城神社(甲良町下之郷)の名や甲良神社(甲良町尼子)の祭神が武内宿禰であることから、古代は葛城氏の支配地であった。
その後、犬上氏の領地となる。
鎌倉幕府滅亡後、有力御家人・二階堂貞藤が蟄居させられた屋敷が下之郷にあった。
南北朝時代初期、近江源氏の佐々木道誉(京極高氏)が甲良荘に勝楽寺城を築いて本拠地とした。以降、京極氏の支配地となる。
その子孫が甲良荘尼子郷で尼子氏を称し、出雲国へ下向して戦国大名となった。
応仁の乱の頃には、京極高数が下之郷城を築城。その次男・多賀高忠が下之郷城主となった。
織田信長により、近江攻略戦で下之郷城落城・二階堂寶蓮院の破壊、比叡山延暦寺焼き討ち時に西明寺焼き討ちなどが行われる。
(二階堂宝蓮院の本尊・阿弥陀如来坐像は、信長により安土町の浄厳院に移される。)
戦国時代末期には、甲良荘藤堂村(現・甲良町在士)から藤堂高虎を産している。同時期には、日光東照宮の造営を始めとする土木工事を江戸幕府に任された宮大工で、甲良氏の祖である甲良宗広(甲良豊後守宗広)が、甲良荘法養寺村から出ている。
甲良町と全国の年齢別人口分布(2005年) | 甲良町の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 甲良町
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
甲良町(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
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医療圏は湖東保健医療圏(彦根保健所管内。彦根市・多賀町・甲良町・豊郷町・愛荘町の1市4町で構成)に属している。
救急告示医療機関(救急指定病院等)は以下のとおり。
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特記事項なし。
近世以前の人工物
近現代の人工物
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