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実験と数学的解析に基づく定量的研究であり、広義では学問全般 ウィキペディアから
科学(かがく、英: science[1][2][3], natural science[1][2][3]、仏: science, sciences naturelles、独: Wissenschaft, Naturwissenschaft[4]、羅: scientia)とは、一定の目的・方法の下でさまざまな現象を研究する認識活動、およびそこからの体系的知識[5]。一般に、哲学・宗教・芸術などとは区別される[5]。現在、狭義または一般の「科学」は、自然科学を指す[5][6]。広義の「科学」は、全学術(またはそこから哲学を除いたもの[7])を指すこともある[5]。
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「科学」(science)という語はラテン語の scientia (知識)に由来し[8]、「知識」全般を指すこの言葉は早くはフランス語に取り入れられ、17世紀初期には英語としても定着した[9]。古代では科学と哲学に区別はなく、これが分化したのは近世(特にF・ベーコン以降)だった[10]。
近代自然科学の成立以前は、自然についての理論的・哲学的学説は、自然哲学(philosophy of nature)か自然学(physica)と言った[11]。自然科学は「実験と数学による解析」という方法によって成立しているのに対し、古代~中世の自然哲学にはこの方法が欠けており「いくら自然を眺めていても、そこから自然科学が生まれることはなかった」と言う[12]。
人類は太古の昔から、自分たちをとりまく自然界の現象や自身の人体の構造について関心を抱き続けてきた。歴史上、古代オリエント、古代インド、古代中国をはじめとするさまざまな文明圏において、これらの関心対象を説明するための知識や経験が蓄積され、学問として体系化されていった[13][14][15]。古代に形成された学問の諸体系のなかでも後世に大きな影響力を残したのが古代ギリシア・古代ローマの自然哲学である。中世においてはイスラム科学が最も先進的な地位を占めていた。後進ぎみだったヨーロッパは、イスラム諸国から科学や技術を輸入し、長い年月をかけて追いついた歴史がある[16]。
20世紀の歴史学者ハーバート・バターフィールドは、17世紀のヨーロッパにおいて、自然現象を単に眺めて考察するという状態から一歩進んで、自然法則が作用する環境をさまざまな撹乱要因を取り除いて人為的に作り出す試み、すなわち実験(冒険)という手法を採用して、実証的に知識体系を進歩させていくという知的営為が形成されたとする。バターフィールドはこれを「科学革命」と名付け、人類史上における一大画期であるとして高い評価を与えた[17]。
科学革命の時代以降、科学的方法が次第に形成され、科学の具体的な方法論・手法・記述法などについて、各分野の科学がその対象の性質に応じてふさわしいものを地道に発達させてきた。ただしどのような方法なら科学的と見なせるのかという境界線は必ずしも明らかなわけではなく、科学者らは議論を重ねてきた歴史があり、現在でも議論は続けられている。学校教育の影響で、1回の実験で科学が成り立つと考えがちだが、実際にはさまざまな実験で科学が成り立っている[18]。
数世紀におよぶ議論は混沌としていたが、20世紀前半の科学哲学者カール・ポパーが反証可能性の概念を提示し、それを条件とすることで理論・科学理論が科学に属するかそうでないかを線引きできることを示してみせた。混沌とした議論に悩まされ続けていた科学者らの中には反証可能性の概念や反証主義をひとつの解決策として歓迎する人が多かった。現在でも、科学と疑似科学とを区分する基準としてこれを採用する人は多い[19][注 1]。
ただしこうしたポパーの科学観に対しては1960年代から批判が加えられるようになった。その代表は科学史家トーマス・クーンのパラダイム論である。パラダイム論によれば、観察は、データを受動的に知覚するだけの行為ではなく、パラダイムすなわち特定の見方・考え方に基づいて事象を能動的に意味付ける行為である。従って、パラダイムそのものは個別の観察によって反証されるのではなく、別のパラダイムの登場によって「パラダイムシフト」の形で覆される。
また、科学に属する諸学問は科学であるが、科学そのものは科学的ではなく一種の思想であるとする意見もある。分類可能性と予測可能性は厳格なカオスを除いては一体不可分であり、もとより科学は過去の知見を元に未来を予測する性向を強く持つ。このため「科学的」でさえあれば未来の予測は正しいとの確信を招きがちである。このような確信は、論理の前提とすべき命題の不知、確率的現象やカオスの存在によりしばしば裏切られる。
科学の根本的な原理については一部の著名な科学者や科学哲学者らによって活発な議論が行なわれたわけだが、科学の具体的な方法論・手法・記述法などについては、各分野の科学がその対象の性質に応じてふさわしいものを地道に発達させてきた。
例えば、物理学や無機化学は、対象のもっぱら無機的・機械的なレベルでの振る舞いに限定して着目し、実験で同一の現象が再現されることを重視しており、その記述は、一般法則や全称命題が中心である。天文学や考古学など、実験や冒険による実証が極めて困難な領域においては、十分な観察と分類にもとづき学問を成立させており、これらの学問も科学的な知見として尊重されている。
生体によって引き起こされる現象を扱う医学、薬学、心理学や、人々の巨大な社会集団を扱う経済学、社会学は、考察対象とする生体や社会そのものが根本的に複雑性や複合性を内包している。これらにおいては個体差が重要な要素となったり、対象が情報を記憶することで内部状態を変化させていったりするものであり、現象の再現性を問うこと自体が困難である場合が多い。そのため、物理学や無機化学におけるような決定論的な手法のみならず、統計論的な手法やその他の手法も適用されている。
『世界大百科事典 第2版』では「科学とは今日通常は自然科学を指す。人文科学,社会科学という呼び方もある」となっている[1]。(「17世紀以降ヨーロッパで近代科学が展開されると、それ以前の伝統的自然哲学は、実験的・実証的根拠をもたない思弁であるとして否定されるようになり、自然哲学ということばもあまり使われなくなった」とも言う[11]。)
日本では物理学、化学、生物学などを「理学」と呼んでいるが、もともと英語に「理学」に相当する概念は無い。 第一次世界大戦と第二次世界大戦では、科学者は国家によって動員され、化学兵器や核兵器の開発に加担し、戦争の帰趨に影響を与え、多くの人々の命を奪ってしまう悲惨な結果を生んでしまった。アインシュタインは「科学技術の進歩というのは、病的犯罪者の手の中にある斧のようなものだ」[20]と述べた[21]。特に科学者が加担し開発した原爆によって大戦中に数十万人が命を落とした、という事実は科学界に重くのしかかり、戦後に原爆開発の経緯が次第に明らかになるにつれ、それに加担した科学者の責任を問う声が、科学界(科学者集団)の中からも、その外からも上がった。また冷戦時代にも、核戦争によって人類が滅亡しかねない状況が何度も起き、やはり科学者の活動の行為責任・社会的責任についての問いは提起されつづけ、(たとえ政治家、国家権力者からそそのかされたり、資金を提供されたり、職を提供されても)研究に着手する前に、それがどのような(悲惨な)結果を人類にもたらすか慎重に検討し、悲惨な結果をもたらす可能性が高い研究はあらかじめ絶対に止めるべきだ、科学に携わる者には責任がある、研究をするということにも行為責任がある、結果として多くの人が死んだらそれはそれを研究してしまった者の責任だ、悲惨な結果を生むと予測できなかった、などという嘘や言い訳は通用しない、あらかじめもっと倫理をふまえた上で研究対象を選ぶべきだ、などといった指摘も科学者からされるようになった。日本ではこのような議論を踏まえ、1980年に科学者達が「科学者憲章」を発表した。
今日では、科学は社会から遊離した純粋な知的営為として位置づけることは困難となっている。科学的、政治的、経済的、文化的な価値がどのように科学の研究と技術革新に影響するのか、また科学やテクノロジーがどのように社会・政治・経済・文化に影響を与えているのか、それら相互の関係を研究する領域が科学技術社会論であり、科学者も参加して研究が行われている。
佐々木力によれば、「科学」という語は、中国では、科挙で試される学問「科挙之学」の略語として、すでに12世紀頃には使われていたようである[22]。日本では、「科学」は様々な学問(個別学問、分科の学)という意味で用いられていた。明治時代に science という語が入ってきた際、啓蒙思想家の西周がこれを様々な学問の集まりであると解釈し、その訳語として「科学」を当てた[23]。当初は「科學」と旧字で表記されていたが、新字体の採用により「科学」と書くことになり、現在に至っている。
中国においても、用語に若干の違いはあるものの、science の訳語として「科学」が使われている。また、中学校教科としての「科学」は日本の「理科」に当たるものである。
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