神戸港
兵庫県神戸市にある港湾 ウィキペディアから
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神戸港(こうべこう)は、兵庫県神戸市にある港湾。港湾法上の国際戦略港湾に指定されている。 日本の主要な国際貿易港(五大港)の一つで、スーパー中枢港湾の指定を大阪港と共に受けている。1868年1月1日(慶応3年12月7日)に開港。港湾管理者は神戸市。
神戸港 | |
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左端の神戸空港も神戸港の泊地内にある
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所在地 | |
国 | 日本 |
所在地 | 兵庫県神戸市 |
座標 | 北緯34度40分39.17秒 東経135度13分36.97秒 |
詳細 | |
開港 | 1868年1月1日(慶応3年12月7日) |
管理者 | 神戸市 |
種類 |
国際戦略港湾(港湾法) 旧スーパー中枢港湾(政令指定) |
泊地面積 | 9,171ha |
陸地面積 | 2,109ha |
係留施設数 | 233 |
出典 | 2016年[1] |
統計 | |
統計年度 | 2019年[2] |
発着数 |
6,634隻(外航) 24,671隻(内航) |
貨物取扱量 |
5,151万トン(外貿) 4,249万トン(内貿) |
コンテナ数 |
218万TEU(外貿) 68万TEU(内貿) |
輸出入総数 |
2,292万トン(輸出) 2,858万トン(輸入) |
主要輸出・輸入品 |
産業機械、化学工業品、自動車、自動車部品(輸出) 石炭、衣類・身廻品・はきもの、化学工業品、化学薬品(輸入) |
港則法・関税法上は、尼崎西宮芦屋港・大阪港・堺泉北港と合わせて阪神港の一部とみなされ、阪神港神戸区となる(港則法上は特定港に指定されている)。
六甲連山がそのまま大阪湾へ落ち込む急峻な地形によって、水深が急激に深くなる特徴から「天然の良港」として知られる日本を代表する国際貿易港である。神戸市の海に面する行政区は7区あるが、神戸港は港湾区域・臨港地区とも摂津国側の6区に展開しており、六甲連山から外れる播磨国側の垂水区は含まれない(須磨区は播磨国の一部を区域に含むが、海に面する臨港地区は摂津国)。東は尼崎西宮芦屋港に隣接する。
その歴史は、かつての都であった奈良や京都に近接し、日本国内の東西航路や大陸との交易の拠点として古くから栄え、大輪田泊(おおわだのとまり)や兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれた兵庫港に始まるが、兵庫港が神戸港の港域に含まれるようになったのは1892年(明治25年)10月1日である。最期まで神戸を兵庫だと言い張った江戸幕府の最末期に神戸港が兵庫の名のもとに開港したため混同されがちであるが、神戸港開港後の24年9ヶ月間も兵庫港は依然として不開港であり、神戸港に飲み込まれる形で一体化された。
東京港の開港が横浜港の猛烈な反対によって1941年(昭和16年)まで実現しなかった東日本と違なり、西日本では神戸港開港の8ヶ月後に大阪港が開港した。商業や工業の集積で神戸を圧倒する大阪だったが、当時の大阪港は河港だったため外国船の入港が1871年(明治4年)を最後に途絶えてしまい、神戸港は西日本最大の国際貿易港の地位を確立した。神戸港は大正期に貿易額で横浜港を上回ったが、昭和初期には海港に生まれ変わった大阪港に追い上げられ、神戸・大阪・横浜の3港が三つ巴の状態となった。
戦後は「山、海へ行く」で知られるベルトコンベアによる土砂運搬により、大規模な埋立地を造成。鶴甲ベルトコンベヤによる土砂運搬で埋立造成された摩耶埠頭は1967年に東京港品川埠頭と並んでいち早くコンテナリゼーションに対応し、1970年代には海上コンテナの取扱個数が世界一になった。須磨ベルトコンベヤによる土砂運搬ではポートアイランド(当時、世界最大の人工島)、六甲アイランド、神戸空港島が埋立造成された。時期を同じくして老朽化した歴史的な地区ではメリケンパーク、神戸ハーバーランド、かもめりあといった再開発が行われ、日本のウォーターフロント開発の先駆けとなった。現在はメリケンパークの東、旧居留地の南に隣接する新港第1 - 第2突堤およびその基部で再開発が行われている。
2017年現在の神戸港における港勢は次の通りである。
コンテナ取扱量は国の国際コンテナ戦略港湾政策などの後押しもあり、拡大を続けて2018年は過去最多となった[3]。しかしアジア勢、特に中国各港の急拡大で、1980年に世界4位であったコンテナ取扱量は2020年に67位と大きく順位を落としている[4]。
奈良時代に五泊の一つとして大輪田泊が整備される。これが記録に残っている上での神戸港の始まりである。
遣隋使・遣唐使の時代を経て平安時代末(12世紀)、平清盛によって「大輪田泊(おおわだのとまり)」(神戸市兵庫区)の修築が行われて人工島「経が島」が建設されて日宋貿易の拠点となる。その後、僧・重源による改修を経て鎌倉時代に国内で第一の港として「兵庫津(ひょうごのつ)」と呼ばれた。室町時代に、兵庫津は日明貿易の拠点として再び国際貿易港としての地位を得る。
江戸時代には、鎖国政策の下で兵庫津は西廻り航路の北前船や内海船の要港、朝鮮通信使の寄港地として栄えて1万人前後の人口を誇る。また、灘五郷として酒造りが活発になった所でもある。
1863年(文久3年)、江戸幕府の軍艦奉行であった勝海舟は海防のための幕臣の教育施設として「海軍操練所」の設立を、呉服商網屋吉兵衛が私財を投じて竣工させた「船たで場(ふなたでば)」を利用することを考え当時の将軍であった徳川家茂に建白した。翌1864年(元治元年)、明治維新に多大な功績を残した坂本龍馬が塾長を勤めた諸藩の志士のための「海軍塾」と共に開設されたが勝の更迭と同時に「神戸海軍操練所」と「神戸海軍塾」は閉鎖になった。同じ年に建てられた海防の要・和田岬砲台が、今も神戸市兵庫区に現存している。開港100周年の1968年(昭和43年)には「海軍操練所」があった場所に「史蹟 旧海軍操練所跡」碑が建立された。
1858年(安政5年)、日米修好通商条約(および日米修好通商条約を含む安政五カ国条約)により1863年1月1日(文久2年12月7日)に開港が定められたが朝廷の反対によりロンドン覚書によって5年後の1868年1月1日(慶応3年12月7日)、「兵庫津」より東にある「海軍操練所」があった辺りを事実上の「兵庫港」[5]として開港が実現した。兵庫(神戸)開港にいたる経緯については、両都両港開市開港延期問題、文久遣欧使節、兵庫開港要求事件、神戸外国人居留地#兵庫開港、柴田剛中も参照。
開港から2日後の1868年1月3日(慶応3年12月9日)に王政復古の大号令が発せられ、鳥羽・伏見の戦い後の1868年2月2日(慶応4年1月9日)には兵庫奉行の柴田剛中ら一行が海路江戸へ逃れた。神戸を兵庫だと言い張って来た江戸幕府が立ち去り、兵庫運上所は事実上閉鎖状態となったが、1868年2月12日(慶応4年1月19日)に新政府によって仮再開され、1868年2月27日(慶応4年2月5日)に神戸運上所と改称された。
兵庫奉行の遁走から2日後、1868年2月4日(慶応4年1月11日)に神戸事件が発生。神戸港は一時的に占領状態となり、新政府が対応に当たったが、新政府は神戸と兵庫を明確に区分しており[6]、対応に当たる役所を兵庫津の島上町や切戸町に設置したことが、のち兵庫鎮台→兵庫裁判所→兵庫県の県名につながる。神戸事件の対応に当たった新政府は、神戸村南東部における外国人居留地造成工事がまだ相当の工期を要する問題への対処として、1868年3月30日(慶応4年3月7日)、神戸・二ツ茶屋・走水・花隈・宇治野・中宮・北野・生田宮の8村におよぶ宇治川 - 生田川(旧河道。付け替えは3年後)間の山麓から海岸まで(造成中の居留地を除く)という広範囲を外国人雑居地に指定した。遅れに遅れた居留地造成工事は1868年8月14日(慶応4年6月26日)にようやく完工し、1868年9月10日(慶応4年7月24日)に永代借地権の第1回競売が行われた。
神戸港に8ヶ月遅れて開港した大阪港は、当時河港だったため使い勝手が悪く、大阪港は明治4年(1871年)を最後に外国船の入港がなくなった。大阪に拠点を置いていた外国人貿易商らの多くは、天然の良港であることに加えて、居留地外においても外国人の居住が可能な(実際には山麓部に集中した)神戸へ移転した。同年からの仲町部、1874年(明治7年)からの兵庫新市街の整備によって神戸 - 兵庫間が市街化され、兵庫港でも1872年(明治5年)に和田岬に和田岬灯台が設置され、1875年(明治8年)に新川運河が開削されたが、兵庫港は不開港のままであった。1892年(明治25年)の勅令[7](神戸港の港域拡張)により、同年10月1日から神戸港の一部となった兵庫港にも外国船が入港できるようになった。
一方、国際港都となり人口が急増した神戸では、1890年(明治23年)にコレラが大流行して1000人余りの死者を出した。これを踏まえて、議会の紛糾や日清戦争による中断を経ながらも、1900年(明治33年)には国内で7番目となる近代水道が整備された[8]。布引五本松堰堤からもたらされる清澄で硬度が低い水は、「赤道を越えても腐らない水」と世界中の船乗りから好評であった[9]。
政府の富国強兵策による近代化で工業が貿易と共に興り、しだいに大阪と共に阪神工業地帯を形成していく。日清戦争(明治27-28年)後には香港・上海を凌ぐ東洋最大の港となって商社「鈴木商店」などに代表される海運業が隆盛、ロンドン・ニューヨーク・ハンブルクと並ぶ世界四大海運市場として世界に名を知られるようになっていった。
1933年、第1回みなと祭りが開催。中突堤付近を打ち上げ場所として花火大会が行われた。戦前の花火大会は、1935年の第3回みなと祭りで幕を閉じるが、1948年の第16回みなと祭りで再開され、入港数の増加を理由に中断する1960年まで続いた。1971年には、第1回みなとこうべ海上花火大会が開催されている[10]。
第二次世界大戦時は、イタリア極東艦隊やドイツ海軍などの、枢軸国の仮装巡洋艦やUボートなどの活動拠点として横浜港とともに機能した。
第二次世界大戦での敗戦により、神戸港は連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) に接収された。朝鮮戦争では、アメリカ第1海兵師団の主力が1950年9月11日に神戸港で乗船し、4日後の仁川上陸作戦に加わった[11]。
1951年(昭和26年)、占領は解除となるが朝鮮戦争やベトナム戦争の影響から撤収は段階的なものとなり、最後までGHQに接収されていた新港第6突堤が返還されたのは1974年(昭和49年)のことである。返還の翌年、神戸市議会の全会一致により「核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議」を採択、寄港する外国軍の艦船に非核三原則に基づく「非核証明書」の提出を義務づけた。
アジア最大のマザーポート(ハブ港)としての地位は戦後も揺るがず、日本の高度成長期の発展を支えた。1967年(昭和42年)に日本初のコンテナターミナルを備えた摩耶埠頭が竣工、9月にコンテナ専用船が日本で初めて着岸した[12]。外債の発行など財源を工夫しながら時代の先を読んで実施した港湾整備が奏功し、同年には全国の輸出額の27%を占めるトップ級の地位を確立した。アメリカのニューヨーク港・オランダのロッテルダム港と並ぶ、世界有数の国際貿易港として栄え[12]、1973年から1978年にはコンテナ取扱個数で神戸港が世界一となった[13]。
しかし、1980年代から1990年代にかけて香港・高雄・シンガポール・釜山にコンテナ取扱個数で抜かれ、1976・1977年には48%に達していた神戸のコンテナ貨物に占めるトランシップの率が1982年から20%台にまで低下するなど、徐々に陰りが見え始めた[14]。
1995年(平成7年)1月17日には、阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)によって甚大な被害を受けるが、約2か月後の3月20日には、摩耶埠頭でコンテナの積み下ろしが再開される。2年後の1997年(平成9年)3月31日には全面復旧し、5月19日に神戸港復興宣言が出される。
しかし、東アジア諸港から集荷していたトランシップ貨物はアジア諸港へのシフトが進んでいる最中であり、これが震災によって拍車がかかることとなる[14]。1994年に6位だった国際順位は2000年以降20位以下となり[14]、釜山港にハブ機能を譲り渡した格好となった。大型化する船舶のための十分な水深を実現できなかったことが神戸港衰退の直接的な要因であるが、その背景には、震災後に復旧以上の支援は行わないとの国の方針(後藤田ドクトリン)が出されたこともあって、傷ついた港を国際ハブ港の条件を満たす仕様に改良することを目的に当初計画されたドラスティックな工事が復興予算の都合により実現できなかったことなどがある[15]。
神戸港の全コンテナ取扱個数に占めるトランシップ貨物の比率は、震災直前の1994年 (平成6年)で31.6%あったが、2007年 (平成19年)の時点では、震災前の4%にまで落ち込んでいる[16]。内航フィーダー貨物およびローカル貨物は震災前の貨物量もしくはそれ以上の貨物量に復活しているが、前述のトランシップ貨物量の減少により、平成19年の総貨物量は震災前の1994年(平成6年)実績の75%である。
港湾施設の面では、順調に復興を遂げた神戸港ではあるが、震災の経験を記憶するために、港の一角には震災当時の状態を保存した神戸港震災メモリアルパークが設置されている。
なお、1907年(明治40年) - 2003年(平成15年)には、船舶との貨物提携輸送を行うために、貨物駅の小野浜荷扱所 - 神戸港駅が港に設けられて運行されていた。
神戸港は大阪港と連携しながら、コンテナ物流面での国際競争力強化を図るスーパー中枢港湾の指定を受け、ポートアイランド2期コンテナターミナルの一部(PC14-18バース)を対象に、行政支援策が注入されている。
外航客船には、もっぱら神戸ポートターミナルに着岸させていた。2006年(平成18年)1月11日から中突堤旅客ターミナルに税関・入管・検疫の出入国機能を設けて、着岸できるようにしている。
2007年と2009年には、神戸ビエンナーレという現代美術を軸にする芸術文化の国際的な展覧会が、神戸港を含む神戸の中心地などで開催された。震災からおよそ10年を経て、見事に復興を遂げた神戸が、被災地というイメージを取り払い、さらなる飛躍を図るとともに、芸術文化の街として活性化することを目的としている。
2009年より新たな試みとして「神戸スウィング・オブ・ライツ」が8月3日から23日まで神戸市中央区、ハーバーランド・モザイク周辺で開催された。これはジャズのリズムに合わせ、色とりどりのサーチライトやレーザーが神戸港を照らす音と光のイベントで、香港で行われている光と音楽の祭典「シンフォニー・オブ・ライツ」を参考にしたもので、主として新型インフルエンザから立ち直った神戸の姿を全国にアピールし、風評被害により減少した観光客数の回復の実現のためである。
神戸港一帯は2010年にみなとオアシスとして登録され、神戸ポートターミナル、波止場町TEN×TENの2施設を基本施設とするみなとオアシスKOBEとして観光・交流エリアともなっている。
同年、日本国政府が神戸・大阪両港を「阪神港」として国際コンテナ戦略港湾に選定するなど[17]、物流を再び神戸港に取り戻そうとする動きが見られ[14]、地方港の輸出入貨物を神戸・大阪港に集める施策などにより神戸港のコンテナ取扱個数は2016年に阪神大震災前に近い水準まで回復、クルーズ船の誘致も進められている[18]。
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