山形県鶴岡市出身。旧制山形県立鶴岡中学校在学中に学制改革が実施され、1949年に山形県立鶴岡第一高等学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)を卒業。なお同校は新制高等学校であるが、渡部は「私にとっての友達をつくる上で一番よかった時代は、やはり旧制高校に通っていたときだと思う」「旧制高校には各地域から選ばれた優秀な人間が集まってきていたので、周りを見渡せば『すごい』と思える人間ばかりだった」と回顧している[3]。
同年、上智大学文学部英文学科に入学。1955年、上智大学大学院西洋文化研究科修士課程修了、同科助手。同年、ドイツのヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学(通称ミュンスター大学)に留学。1958年、同大学よりDr.Phil (哲学博士号) を受ける。1958年、イギリス・オックスフォード大学ジーザス・カレッジ寄託研究生。
1960年上智大学英文科講師、助教授を経て教授。助教授の頃、フルブライト・ヘイズ法(旧フルブライト・プログラム。法制化された)によるアジアからの訪問教授プラン(VAPP)によって渡米、4つの州の6つの大学で半学期ずつ講義を行う[4]。1994年、ミュンスター大学名誉哲学博士(Dr.Phil. h.c.)。2001年退職、上智大学より名誉教授の称号を受ける。
他に主な役職としては、インド親善協会理事長、日本財団理事、グレイトブリテン・ササカワ財団(在イギリス日本財団)理事、野間教育財団理事、イオングループ環境財団評議員、エンゼル財団理事、「日本教育再生機構」顧問、「道徳教育をすすめる有識者の会」代表世話人[5]。
2017年4月17日、心不全により東京都杉並区の病院で死去、享年86[1]。
- 1958年(昭和33年) - ミュンスター大学で英文法の歴史を研究、ドイツ語で著した学位論文は現地で出版され、英語にも翻訳された。日本語版は『英文法史』として研究社から1965年に刊行された(絶版)。授与された学位は "Dr. phil. magna cum laude"「大なる称賛を以って 博士号」である(因みにこれはラテン語)[6]。
- 1976年(昭和51年) -『腐敗の時代』で第24回日本エッセイスト・クラブ賞受賞[7]。
- 1985年(昭和60年) - 第1回正論大賞受賞[7]。
- 1994年(平成6年) - ミュンスター大学から名誉哲学博士(Dr.Phil.h.c.)授与
- 2015年(平成27年)春 - 瑞宝中綬章受章[7]。
- 外国語教育の重要性を強調した。その一方で小学校での英語教育には反対していた。
- 英文学者として、夏目漱石のイギリス留学に注目し、当時の漱石には、留学をこなすだけの英語力があったのかと疑問を投じている。
- 盧溝橋事件は中国共産党の陰謀である、戦前の学校で習った歴史の見方の方が正しかったと主張[11] している。
- 南京事件に関しては、「ゲリラの捕虜などを残虐に殺してしまったことがあったのではないか、こういうゲリラに対する報復は世界史的に見て非常に残虐になりがちだ」[12] と殺害の事実は認めているものの、「ゲリラは一般市民を装った便衣兵であり、捕虜は正式なリーダーのもとに降伏しなければ捕虜とは認められない。虐殺といえるのは被害者が一般市民となった場合であり、その被害者は約40から50名。ゆえに組織的な虐殺とはいえない」と虐殺行為は無かったと主張している[13]。WiLL2007年4月号では、松井日記の南京についての記述を根拠に、「南京大虐殺は無かった」と主張している。
- 「ヒトラーやムッソリーニ、二・二六事件の青年将校らは共産主義者である」と主張している[14][15]。
- 慰安婦問題に関しては、朝日新聞の吉田清治や吉見義明に関連しての報道や日本の弁護士の日本政府への訴訟、日本政府の安易な謝罪などが重なったことが原因で騒動になったもので、国家による強制や強制連行はなく、捏造であることが証明されているとしている[16]。2007年、日本文化チャンネル桜社長(当時)の水島総が代表を務める「慰安婦問題の歴史的真実を求める会」がアメリカ合衆国下院による対日非難決議案(アメリカ合衆国下院121号決議)に対して作成した抗議書に賛同者の一人として署名した。抗議書が駐日アメリカ合衆国大使館へ手渡された同年7月13日、渡部は記者会見で「(対日非難決議案にあるように)朝鮮半島で20万人もの女性をかき集め、トラックで運べば暴動が起きる」と述べ、決議を非難した[17]。
- 沖縄戦における集団自決問題について、「実際には積極的に日本軍に協力した沖縄の人々が復帰後、左翼メディアに煽動され、歴史で騒げば金が出ると考え、堕落した結果である。」と述べた。また戦時中「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓をもっとも強く鼓吹したのは朝日新聞であったことは看過できないとしている[18]。
- 太平洋戦争に関するダグラス・マッカーサーの連邦議会証言について、小堀桂一郎などと共に「日本は自衛戦争をした、と述べた」と主張している[19]。
- 戦後の“反日的左翼”の起源を、公職追放など占領政策によって利益を得た「敗戦利得者」および「コリア系」の出自を持つ人々に求め、彼らが東京大学、京都大学などの主要大学、朝日新聞などにポストを占めることで戦後の教育界、言論界は歪められたとしている[20]。
- 満州にアメリカを関わらせなかったことは失敗であったとして、現在の対中外交にもアメリカを関わらせるべきであるとしている[21]。
- 原子力発電の熱烈な支持者であった。福島第一原発事故後は、その立場を一層、鮮明にした。「適度の放射線被爆は健康を増進する」[22] との研究から、転換域値は「おそらく、毎時50ミリシーベルトと毎時20ミリシーベルトの間にあるらしい」[23] と述べている。ラドン温泉[24] 等の例や宇宙飛行士・原発労働者の研究[25]、モーリス・チュビアーナ博士の研究[26]、「ICRPは21世紀に入ってから進んだ低線量研究の成果を反映していない[27]( トーマス・ラッキー博士)」、「ICRPの勧告は根拠がないから改めるべきだ(ウェード・アリソン)」等から、渡部はICRP基準に疑義を呈し、福島県の風評被害の根絶を訴えている[28]。ただし、ICRP勧告の癌リスクの統計的増大が始まるとされる100mSvという閾値は『年間』積算値である。渡辺氏が主張した50mSv/hの環境に24時間滞在した場合、積算線量は1200mSv=1.2Svとなり、同勧告で癌リスクが明確に増大する線量となる。ウェード・アリソン名誉教授は、同様の閾値を『月間』100mSvと主張しているが、これは毎時に直すと0.14mSvでしかない。仏語Wikipediaによると、モーリス・チュビアーナ(fr:Maurice Tubiana)は存命中にフランス原子力学会会長を務めている。彼の主張したとされる10mSv/hでは、年間被ばく量は87Sv=87,000mSVにのぼる。
- 皇位継承問題に関しては男系主義者の立場を採っている[要出典]。
- 2012年9月5日、渡部、三宅久之、すぎやまこういちなど保守系の著名人28人は、同年9月の自由民主党総裁選挙に向けて、「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」を発足させた[29][注釈 1]。同日、同団体は安倍晋三の事務所に赴き、出馬要請をした[40][31]。9月26日、総裁選が実施され、安倍が当選した。
- 参議院議員平泉渉が1974年、自民党政務調査会として「英語教育改革試案[41]」をまとめた。公聴会で意見を求められた事も有る渡部が、雑誌「諸君!」に批判文を掲載。元外交官で仏語に堪能な平泉が応じ、5回に亘って英語教育論が展開される。渡部の主張は、近代西欧文明を享受できたのは複雑な原文でも正確に読める、伝統的英語教育に依ったから。顕在力を養うのは、高校までに潜在力を仕上げた後の問題だ(平泉のアテネ・フランセ通いも同じ)。英語精読力の無い英米育ちの高校生は多い等というもの。経済界、PTAは平泉を支持し、現場の教師は批判的だった。論争の反響は大きく、各方面が取り上げた[42]。
- 1975年(昭和50年)4月から半年間、月刊『言語』誌上で上と神が同根か否かを廻って、大野晋と学問的な論争が続いた[43]。大野によると、上のミは上代特殊仮名遣の甲類で、神のミは乙類であるから、両者に関係が無い[44]。「神は上にあらず」[45] は白石、宣長以来の定説を覆す主張であった[46]。同一語源の語が意味の分化を生じたなら、それに従って語形の一部を変えるのが自然ではないか、大野説では日(甲類)と火(乙類)の同一語源を説明できない、口腔図の距離と音韻転化に関係が無い、 甲類が先で乙類が後の時系列か、等とする主張を渡部は、主に日本語以外の例で述べた[47]。論争の終盤で他の学者が渡部支持だった[48]、大野の反論は無かった[49]。これを以て、「上にいますから神」という白石・宣長以来の説は少しも妥当性を失っていない[50]、と渡部は述べている。
- 南京事件についての主張の関係で、現代史家の秦郁彦を批判した。秦は南京事件についての中公新書のなかで、曽根一夫『私記南京虐殺』(正続)を極めて高く評価し、至るところで利用して「類書にない特色を持つ」、「曽根氏の明快なる指摘に頼って」と主張した[51]。しかしこの曽根という人は南京に突入した部隊にはおらず、戦場の噂話(ホラの要素が多い)などを材料にして書き上げたものであった[52][53]。曽根の正体が暴かれた後も秦は「削除する必要は認めない」と居直り、改訂版を出した折も1箇所も修正していない[54]。そして渡部は秦から「大幅借用」問題を起こされる。これは1984年に出版された田中正明『南京虐殺の虚構』で渡部の「大げさな推薦文[注釈 2]にカチンと来」[56] た秦が、1年後に田中の「松井石根大将の陣中日記」改竄が明らかになったのを機に、田中・渡部らの「まぼろし派」を批判した[57]ことに始まるが[要出典]、自身「中間派」の秦は渡部を、「写真ぐるみゲルリッツ(ドイツ語版)を大幅借用したくらいだから、盗用や改竄には理解があるのかも知れない[58]」と、1年前の推薦文を事後の改竄事件から問題視した。渡部の『ドイツ参謀本部』では、初めに中央公論の編集者が、渡部の原稿にゲルリッツの参謀本部の本からの写真を入れた。どんな写真を入れるかは渡部の知る所ではなかったが、秦はその写真を見て、内容も盗用したのだろうと見做して批判した。その後、『ドイツ参謀本部』は、中公新書版に入った写真を換えて出すことをクレスト社社長の打田良助が勧め同社から出版された。その後、祥伝社の新書に移り、さらにワック社からハード・カバーで出版された。四社を転々としたが、盗用本などではないため、本文は一行も変わらず、変わったのは写真と体裁だけである[59]。『ドイツ参謀本部』は1974年の出版だが、当時「ゲルリッツの本を私自身が翻訳刊行しようと考え[60]」ていたと秦は語る。
- 1980年『週刊文春』誌上[要出典]で、小説家の大西巨人に対し、息子2人が血友病であり高額な医療費助成がなされていることから、「第一子が遺伝病であれば第二子を控えるのが社会に対する神聖な義務ではないか」などと主張した。
- 第一次教科書問題できっかけとなった報道が誤報であったとする立場から、朝日新聞や毎日新聞と激しく対立[61]。
- WiLL2008年7月号の日下公人との対談において、「…ですが美智子様が皇室に入られたために、宮中に仕えていた女性がみんな辞めてしまったそうです」と発言したことについて宮内庁より説明を求める抗議を受けている。宮内庁によれば、そのような事実はなく「その根拠,理由などを承知したく」渡部に要求している。また、同誌において渡部は「ですから、皇太子殿下が一番大切な時期にイギリスに4年も留学なさったというのは、長すぎます」と発言している点についても宮内庁は「当時の徳仁親王殿下が英国に留学なさったのは、昭和58年6月から昭和60年10月までの約2年間です」とその発言が正確性を欠いたものであることを指摘している[62]。
- 南京事件を調べていて反対尋問の重要性を認識したが、田中角栄の裁判では最重要証人に対しこの機会が与えられなかった。1984年『諸君!』誌上で「田中擁護論ではなく、日本の司法の犯罪に関するもの[63]」、即ち刑事免責を確約して得られた違法な嘱託尋問調書に証拠能力は無い、反対尋問を許さない地裁判決は憲法違反である、と問題提起を行った[64]。これに立花隆が『朝日ジャーナル』誌上で応酬する形で進む。秦野章、俵孝太郎、山本七平、小室直樹等が立花の批判の対象にされたが、渡部に対しても冒頭陳述の意味や「証拠能力」と「証拠の証明力」の区別を知らず、裁判記録さえ読むことなく自らの妄想を元に批判をおこなっていると主張した[65]。渡部は1985年、「幕間のピエロたち番外」という短期連載で立花と誌上討論を行った。十回ほど行った時点で角栄裁判の第二審が始まった為、渡部は第一審の議論をしても意味がないからと一方的に中止を申し入れた。すると立花は、「渡部氏は尻尾を巻いて逃げた」と書き立てた[66]。現時点では立花の主張は『論駁--ロッキード裁判批判を斬る』として読める。渡部は要望があればいつでも議論に応じる構えを見せている[67]。病気療養で活動を抑えている立花は『巨悪 vs 言論』のなかで渡部らの批判に対してまとめて、ロッキード事件から時間が経ち皆が忘れていることをいいことに論点ずらしをしている点、ロッキード裁判は丸紅による収賄に対する裁判でありロッキード社については周辺事項にすぎない点、ロッキード裁判は榎本敏夫が完全自供した時点で決着していると主張した。上告審は田中の死により公訴棄却となった(ので裁判は打切り)。が榎本首相秘書官の上告審で、嘱託尋問調書の証拠能力を否定したうえで、田中の5億円収受を認定した。渡部は「ロッキード裁判は、日本の裁判史上、最大の汚点である」と言い続けている[68]。
- 《シナは蔑称ではなく日本人が中国と呼ぶ方がおかしい。『日本書紀』の「中国」は「わが国(日本)」の意味で、山鹿素行の『中朝事実』も日本の朝廷のことだ[69]。自分の国をたたえて言う言葉を、他国に使う義理はない。天安門事件で中共の地金が現れた今(1989年)こそ、伝統的な「シナ」に戻す時ではないか[70]》。これに加地伸行が反論。《私は「中国」を美称と意識せず、原義などどうでもよい。王朝名でなく国体の表現であり、(秦漢の頃も)中国呼称が妥当。中国を強制する圧力など無い》[71]。両論を踏まえ宇野精一が感想を述べる。《出版社への圧力は私にも経験が有る。中国と言えば天下の中央の国、即ちわが国という感じが拭えないから、日本人として彼の国を呼称するのは適当ではないと考える。英語でも支那はChina、中国はMiddle Kingdomと訳される》[72]
- 幼少時代は、貧しいながらも父が本に関しては制限しなかったために、少年倶楽部を好んで読んでいた[73]。
- 幼少の頃から母親と2人の姉に過保護に育てられ、洋服のボタンも一人でははめることができなかった[74]。
- 自著[75] によると極貧の状態で大学を卒業し、奇跡的にヨーロッパの大学に留学し、学位を取ることができたと記述されている[注釈 3]。
- 留学してみると、博士論文はドイツ語かラテン語で書くことになっている。えらいことになったと思ったが悩んでいる時ではない。『独作文教程』を毎日、半日練習しドイツ語会話を丸暗記した。それを2,3カ月と半年で越えた。1年で学術的内容のレポートも褒められ、留学してから2年で博士論文を書き上げた。この速さから、教授に「君はまことに天才である」と大層な誉め言葉を戴いた。これは文法の威力と教授の誤解にあると渡部は語る。天才神話はひろまり、さまざまな恩恵に浴した[76]。
- 大学1年の夏休みに帰省すると、父親が失職していた。来年の授業料の見通しが立たない。学科で首席になり、授業料を免除してもらう(特待生)以外に道は無い。必死の覚悟で勉強した。おかげで授業料をその後は払うことなく卒業できた[77]。
- 留学した初めの頃は(専攻外の)ドイツ語が通じなかった。ウンターハルトング(楽しき語らい)に男女学生を誘って歓談上手に努力したので、2年後には応じきれないほど家庭から招かれた[78]。
- 大学の哲学科目に百点満点を取り、自信になった。学位論文にもハイデガー、グラープマンに言及・引用した事が好印象を与え、おそらくそんなこともあって、学位に「magna cum laude」という美称がついている、と渡部は語る[79]。
- ドイツの伝統ある官立大学で師事したのはシュナイダー教授であったが、生涯で僅か15人しか哲学博士を造らなかった。その4番目が Dr.phil.渡部である[80]。
- 1960年代何度か来日した、経済学者で思想家のフリードリヒ・ハイエクの通訳を務めていた[81]。
- 古書の蒐集家であり、専門の英語学関係の洋書だけで約1万点を所有。その蔵書目録はA4判600ページあり[75]、日本ビブリオフィル協会会長を務めた。
- 蔵書は15万冊を超える。そのため本の置き場に困り妻からは「うちには人権ではなくて本権がある」といわれたことがあった。意を決して70歳を過ぎて借金をしてその蔵書全てが収まる書庫を建設したが、晩年には、書庫スペースはほぼ埋まっていたとのこと。[82]なお(司馬遼太郎は処分しなければ25万冊、高島俊男は22万冊、井上ひさしは寄贈した本を自分の蔵書として数えて「僕の蔵書は二十万冊」[83]、谷沢永一は何度も処分したが「買い求めた本と雑誌は20万冊」[84]、立花隆は10万冊、丸山眞男は3万冊ともいわれる)[要出典]
- 田中角栄を巨悪と断じ、政界から葬り去ることを正義とする世相の最中「堂々と持論を発表されていた渡部先生を尊敬しています」と、著名な憲法学者から告白されたと述べている[85]。
- 地球物理学者で『ニュートン』編集長の竹内均は渡部のファンを自称し、その著書をくまなく読む。感心した個所を録音・記録し、原稿を書くヒントにしているという[86]。
- 著作はすべて初版で読んできたというほどの松本清張のファンである[87] が、『昭和史 松本清張と私』では松本の歴史観に対し違和感も表明している。
- 自民党の衆議院議員稲田朋美の全国後援会『ともみ組』会長を務める[88]。
- 映画「南京の真実」の賛同者[要出典]。
- 若い頃から音楽にはほとんど興味がなかったが、妻が桐朋学園音楽科の1期生でピアニストであることもあり、3人の子供が全員音楽家となっている(長女がピアニスト、長男がチェリスト、次男がヴァイオリニスト)[89][90]。
- 1985年6月のカウサ(CAUSA。アメリカ社会統一協会連合)第三回日本会議に出席、さらに、1985年8月5日の東京勝共講師団結成集会では基調講演を行っている[91]。また、自宅に無料配布される世界日報 (日本)は発行母体が統一教会という問題の有る団体だが、文鮮明絡みを除けば[92]「この四分の一世紀の間、日本のクオリティ・ペーパーであった」と2001年1月の世界日報25周年記念メッセージ[93] において6行で、他の4人とともに述べている。また一時「世界日報をおすすめします」と題する世界日報の広告にも登場し、同様の内容のコメントが他の3氏の物と共に掲載されていた[94]。
- アパグループが主催した第1回「真の近現代史観」懸賞論文の審査委員長を務めた。2008年10月31日に最優秀藤誠志賞に航空自衛隊幕僚長・田母神俊雄の論文「日本は侵略国家であったのか」を選考[95] した。論文内容は「侵略国家ではなかった」とし、日中戦争の原因を蔣介石に巻き込まれた濡れ衣であると主張するなど、渡部の近現代史論に近いものであった。その後、この論文は田母神が「政府見解と異なる主張をしたうえ、上層部の許可を得ずに外部に論文を提出した」などとして防衛大臣の浜田靖一に即日更迭処分を受ける一因[96] となった。
- 『フィロロギア 渡部昇一先生古稀記念論文集』土家典生・下谷和幸・今里智晃編、大修館書店 2001年
- 渡部玄一『ワタナベ家のちょっと過剰な人びと』海竜社 2013年。一家は音楽家(下記参照)
- 渡部玄一『明朗であれ 父、渡部昇一が遺した教え』海竜社 2020年3月。回想
評伝
- 松崎之貞 『「知の巨人」の人間学 評伝渡部昇一』ビジネス社 2017年11月。著者は担当編集者
- 『学びて厭わず、教えて倦まず “知の巨人”渡部昇一が遺した学ぶべきもの』
- 織田哲司 下永裕基 江藤裕之ほか編著、辰巳出版 2020年8月。門下生による著作案内
注釈
渡部推薦文「本書を読んで、今後も南京大虐殺を言い続ける人がいたら、それは単なる反日のアジをやっている左翼と烙印を押してよいだろう」[55]
但し別の著書では、生家は裕福な商人で自分で服を着替えたことがなく母親や祖母、姉にしてもらっていたという。また、新婚時代に妻に着替えを頼み驚かせたという[74]。
出典
『日本人の道徳心』「道徳09」(ベスト新書、2017年)
p.610 『渡部昇一 青春の読書』ワック 2015年
評論家の渡部昇一氏が死去 第1回正論大賞、「知的生活の方法」など著書多数 2/2 産経新聞2017年4月18日
WiLL2007年4月号『総力特集 テレビ・新聞を信用するな!』
『渡部昇一のマンガ昭和史―日本人が知っておきたい太平洋戦争』
“地方議員ら、米下院慰安婦非難決議に抗議”. 産経新聞. (2007年7月13日)
『WiLL』2008年7月緊急増刊号:狙われる沖縄[要ページ番号]
渡部昇一・稲田朋美・八木秀次『日本を弑(しい)する人々』PHP研究所、2008年、240頁。
p.15 『原発は、明るい未来の道筋をつくる!-原発興国小論』ワック 2012年
p.17 2百倍くらいの放射線量のあるラドン温泉で、ガン死亡率が半分以下というデータもある。
p.15 前掲書 高い放射線を浴びるNASAの宇宙飛行士の健康を追跡調査し、年間100ミリシーベルトが一番体に良いとデータで示した トーマス・ラッキー博士の研究
p.40 毎時10ミリシーベルト以下なら、どんなに細胞が傷ついても完全に修復させてしまうと、国際学会で発表し、キューリー賞が与えられている。チュビアーナ博士はフランス・アカデミー所属
p.16,38 ICRPは21世紀に入ってからの進んだ低線量研究の成果を反映しておらず、50ミリシーベルト以下は実験を伴っていない。
“発起人一覧”. 安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会. 2022年6月3日閲覧。
渡辺哲哉、神田知子「民主党最後の切り札 細野豪志を代表選から引きずり降ろした黒幕の名前」 『週刊朝日』2012年9月21日、18頁。
1.英語教育の成果は全くあがっていない 2.義務教育から英語を無くす。大学入試から外国語を無くす 3.志望者のみに高校で集中訓練し、5%(600万人)に英語の実用能力を養う
p.186 『国語のイデオロギー』渡部昇一 中公叢書 ,p.336 『古語俗解』文藝春秋 1983年
p.184-185 「……関係ない語であると判断される(大野)」『国語のイデオロギー』
p,9『岩波古語辞典』,p.103-108, 191-197『日本語をさかのぼる』大野晋 岩波新書
p.193 「大野説のいわゆる宣長以来の学説をひっくり返したと称する新しい語源説……」『国語のイデオロギー』,p.336 「これは新井白石・本居宣長・久米邦武などの大学者も気づかなかった大発見ということで」『古語俗解』
p.69,p.139,p.202,p.217等々 秦郁彦『南京事件』
著書『知の湧水』ワック、2017年、234頁より引用
p. 254『本当はこうだった南京事件』板倉由明 日本図書刊行会
著書『知の湧水』ワック、2017年、235頁より引用
「角栄裁判に異議あり!」『文藝春秋』1984年10月号
「角栄裁判は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」『諸君!』 1984年1月 「角栄裁判・元最高裁長官への公開質問7ヵ状」『諸君!』 1984年3月 「角栄裁判に異議あり!」『文藝春秋』1984年10月号
立花『ロッキード裁判批判を斬る1』朝日文庫、1994年6月15日。[要ページ番号]
渡部『致知』第181回「歴史の教訓」《立花隆氏よ 議論の土俵に出てこい》(『致知』2012年2月号)
p.120-122『朝日新聞と私の40年戦争』PHP 2015年
「中国をシナに戻すとき」『産経新聞』1989.8.21 9.23
「国体と国号」『産経新聞』1989.9.2 10.5
「渡部教授説におおむね賛成」『産経新聞』1989.10.5
渡部玄一『ワタナベ家のちょっと過剰な人々』131p
『95歳へ!―幸福な晩年を築く33の技術』飛鳥新社、2007年。[要ページ番号]
p.139-148『英文法をなでる』渡部昇一 PHP新書
p.280,285 『渡部昇一 青春の読書』ワック 2015年
p.276,278 『渡部昇一 青春の読書』ワック 2015年
p.65『朝日新聞と私の40年戦争』PHP 2015年
渡部玄一「ワタナベ家のちょっと過剰な人々」133p
『ふかいことをおもしろく』井上ひさし 2011年 寄贈する前は13万刷を所有(p.174『本の運命』)
p.255『雑書放蕩記』谷沢永一 震災後に何度目かの放出する前は13万冊
p.124『朝日新聞と私の40年戦争』PHP 2015年
p.87 『頭のうまい使い方へたな使い方』竹内均 1995年
青木慧『パソコン追跡勝共連合』(汐文社、1985年) P.393