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日本の志士・政治家 ウィキペディアから
木戸 孝允(きど たかよし、天保4年6月26日〈1833年8月11日〉- 明治10年〈1877年〉5月26日)は、日本の幕末の長州藩士、勤王志士、明治時代初期の政治家[1]。号は松菊、竿鈴[2]。 明治維新の元勲として、大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられる[3][4]。幕末期には桂 小五郎(かつら こごろう)の名で活躍した。
長州藩出身[5]。同藩藩医和田家の生まれだが、7歳で同藩藩士桂家の養子となる[2][6]。1849年に吉田松陰の門弟となり[2][4]、1852年には江戸に留学して斎藤弥九郎の道場で剣術を学び[2]、また洋式の砲術や兵術、造船術、蘭学などを学んだ[6]。
1858年の安政の大獄以降、薩摩藩、水戸藩、越前藩など諸藩の尊王攘夷の志士たちと広く交わるようになり[7]、高杉晋作や久坂玄瑞らと並んで藩内の尊王攘夷派の指導者となった[2]。1862年以降には藩政の要職に就く[4]。1864年の池田屋事件及びその直後の禁門の変により、但馬出石で8か月の潜伏生活を余儀なくされた[2]。高杉晋作らが藩政を掌握すると帰藩し、1865年に藩主より「木戸」の苗字を賜った[7]。1866年には藩を代表して薩長同盟を締結している[2]。
新政府成立後には政府官僚として太政官に出仕し、参与、総裁局顧問、参議に就任[7]。1868年(慶応4年=明治元年)に五箇条の御誓文の起草・監修にあたり明治維新の基本方針を定めた他、版籍奉還や廃藩置県など、封建的諸制度を解体して近代社会(市民社会・資本主義社会)と中央集権国家確立をめざす基礎作業に主導的役割を果たした[7][6]。1871年には岩倉使節団に参加し、諸国の憲法を研究した[7]。1873年に帰国したのちはかねてから建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では資本主義の弊害に対する修正・反対や、国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進した。また内政優先の立場から岩倉具視や大久保利通らとともに西郷隆盛の征韓論に反対し、西郷は下野した[8]。
憲法制定を建言していたが、大久保利通に容れられず、富国強兵政策に邁進する大久保主導政権に批判的になり、政府内において啓蒙官僚として行動[7]。1874年には台湾出兵に反対して参議を辞した[7]。翌年の大阪会議においては将来の立憲制採用を協議して政府に復帰したが、大久保批判をすることが多かった[2]。地方官会議議長や内閣顧問などを務めたが、復職後は健康が優れず、西南戦争中の1877年(明治10年)5月26日に出張中の京都において病死した。西南戦争を憂い「西郷よ。いいかげんにしないか」と言い残したという[2]。
その遺族は、華族令当初から侯爵に叙されたが、これは旧大名家、公家以外では、大久保利通の遺族とともにただ二家のみであった。
天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩城下呉服町(今の山口県萩市)に長州藩の藩医である和田昌景の長男として生まれる。和田家は毛利元就の七男・天野元政の血を引くという。母はその後妻であった。前妻が生んだ異母姉が2人いる。実子としては長男であるが、長姉に婿養子・文讓が入り、また長姉が死んだ後は次姉がその婿養子の後添えとなっていたため、小五郎は次男として扱われた。
天保11年(1840年)、7歳で向かいに住んでいた藩士桂孝古の末期養子となり、藩の大組士に列して禄(90石)を得た。翌年、桂家の養母も亡くなったため、生家の和田家に戻って、実父母・次姉と共に育つ。
少年時代は病弱でありながら、他方で悪戯好きの悪童でもあり、萩城下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて快哉を叫ぶという悪戯に熱中していた。ある時、水面から顔を出し船縁に手をかけたところを、業を煮やしていた船頭に櫂で頭を叩かれてしまう。小五郎は、想定の範囲内だったのか、岸に上がり額から血を流しながらもニコニコ笑っていたという。このときの額の三日月形の傷跡が古傷として残っている。
10代に入ってからは、藩主・毛利敬親による親試で2度ほど褒賞を受け(即興の漢詩と『孟子』の解説)、長州藩の若き俊英として注目され始める。
嘉永元年(1848年)、次姉・実母を相次いで病気で失い、悲しみの余り病床に臥し続け、周囲に出家すると言ってはばからなかった。
嘉永2年(1849年)、明倫館で兵学師範となっていた吉田松陰に山鹿流兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松陰は「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる(松陰が三歳年上))。
小五郎18歳の嘉永4年(1851年)、実父の和田昌景が72歳で没。銀10貫(当時のレートで金170両に相当する)と、継続的な不労収入が見込める貸家などの不動産を相続した。和田家(20石)と残りの動産(銀63貫余り)・不動産は義兄の文譲が継いだ。
弘化3年(1846年)、長州藩の剣術師範家のひとつの内藤作兵衛(柳生新陰流)の道場に入門している。嘉永元年(1848年)、元服して和田小五郎から大組士・桂小五郎となり、実父に「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」ことを言い含められ、それ以降は剣術修行に人一倍精を出して腕を上げ、実力を認められる。嘉永5年(1852年)、剣術修行を名目とする江戸留学を決意し、藩に許可され、藩に招かれていた神道無念流の剣客・斎藤新太郎の江戸への帰途に随行し、財満新三郎・佐久間卯吉ら5名の藩費留学生たちと他1名の私費留学生とともに私費で江戸に上る。
江戸では三大道場の一つ、練兵館(神道無念流)に入門し、新太郎の指南を受ける。免許皆伝を得て、入門1年で塾頭となった。大柄な小五郎が、得意の上段に竹刀を構えるや否や「その静謐な気魄に周囲が圧倒された」と伝えられる。小五郎と同時期に免許皆伝を得た大村藩の渡辺昇とともに、練兵館の双璧と称えられた。
幕府講武所の総裁・男谷信友(直心影流)の直弟子を破るなど、藩命で帰国するまでの5年間練兵館の塾頭を務め、剣豪としての名を天下に轟かせる。大村藩などの江戸藩邸に招かれ、請われて剣術指導も行った。また、近藤勇をして「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と言わしめたといわれる[9]。
安政4年(1857年)3月、江戸・鍛冶橋の土佐藩上屋敷で開催された剣術大会で坂本龍馬と対戦し、2対3で小五郎が勝利した史料が、2017年10月30日に発見された[10]。
マシュー・ペリーが最初に来航した嘉永6年(1853年)、海防の必要性を実感した幕府は大船建造禁止令を撤回し、雄藩に軍船の建造を要請した。さらに江戸湾防衛のための砲台(お台場)建設を伊豆代官江川英龍に命じた。ペリーが浦賀に入港する時には、長州藩は大森海岸の警備を命じられており、その際に小五郎は藩主毛利慶親の警固隊の一員に任じられ、実際に警備にあたった。海外の脅威を目の当たりにした小五郎は、その後直ちに練兵館道場主の斎藤弥九郎を通して江川英龍に弟子入りし、海岸線の測量やお台場建設を見学し、兵学・砲術を学ぶことにした。それとほぼ同時期に、藩に軍艦建造の意見書(『相州海岸警衛に関する建言書』[11])を提出した[12]。この提言を受け、嘉永7年1854年に藩主毛利慶親は洋式軍艦を建造することを決定し、さらに安政3年(1856年)に長州藩は恵美須ヶ鼻造船所を開設、君沢形(スクーナー)軍艦丙辰丸と、バーク型軍艦庚申丸が製造された。
小五郎は練兵館塾頭を務める傍ら、ペリーの再度の来航(嘉永7年1854年)に大いに刺激され、すぐさま師匠の斎藤弥九郎を介して伊豆・相模・甲斐など幕府領5か国の代官である江川英龍に実地見学を申し入れ(江戸時代に移動の自由はない)、その付き人として実際にペリー艦隊を見聞する。
吉田松陰の「下田踏海」に際しては自ら積極的に協力を申し出るが、弟子思いの松陰から堅く制止され、結果的に幕府からの処罰を免れる。しかし、来原良蔵とともに藩政府に海外への留学願を共同提出し、松陰の下田踏海への対応に弱っていた藩政府をさらに驚愕させる。倒幕方針を持つ以前の長州藩政府が、幕府の鎖国の禁制を犯す海外留学を秘密裏にですら認める可能性は乏しく、小五郎はそれまで通り練兵館塾頭をこなした。
など、常に時代の最先端を吸収していくことを心掛ける。安政2年(1855年)に獄中の吉田松陰に宛てた手紙で「当今の急務、得民心、国力をため、兵を練る是也」「兵に至ては一日も早く西洋銃陣に変革致度存候。一日々々と送る時は遂失家、失国、巨大の大損に相成申候」と述べ、人心掌握・富国強兵の必要性を訴えている[13]。
安政5年(1858年)3月、長州藩上屋敷において開催された蘭書会読会で兵学書の講義を行った大村益次郎(この時点では村田蔵六)と知り合う。その後交流を深め、大村を長州藩士に迎えるよう尽力した。大村が実際に長州藩士となったのは、万延元年(1860年)。文久元年(1861年)正月に大村は国入りしている。
安政5年(1858年)8月、長州藩江戸藩邸の大検使役に任命される。吉田松陰が人材登用のために小五郎を藩上層部に熱心に推薦したことによるもの。同年10月に結婚のため萩に戻る。同年12月24日に松陰の自宅を訪ね、老中間部詮勝の暗殺計画を諫めたため、松陰はこれを断念するも、別の計画(伏見要駕策)を立案したため松陰は野山獄に投獄される。松陰は松下村塾生たちの諫言は聞き入れなかったが、小五郎の言葉には「桂は厚情の人なり。この節同士と絶交せよと。桂の言なるをもって勉強してこれを守るなり」として聞き入れている。
安政6年(1859年)、長州藩江戸藩邸の藩校である有備館の御用掛に任じられ[14]、後輩藩士の育成にも大きく関わった。同年10月27日、吉田松陰が処刑される。小五郎は、伊藤博文らと共に遺体をひきとり、埋葬した。
万延元年(1860年)7月2日、大村益次郎と連名で「竹島開拓建言書草案」を幕府に提出する。ただしこの時の竹島は、現代で言う「鬱陵島」であると考えられている[15]。
万延元年(1860年)7月、水戸藩士の西丸帯刀らと丙辰丸の盟約を結ぶ。小五郎・西丸はそれぞれ藩内に働きかけるが、藩の中枢部を動かすには至らず、長州藩内では公武合体を推奨する航海遠略策が藩論として採用されたため、小五郎は「破」の計画の延期を提案したものの、機を逸することを恐れた水戸側は長州の後援なしに「破」を実行することとした。
文久2年(1862年)1月15日、坂下門外の変が起きる。その事件に関わるはずだったが遅刻して参加できなかった水戸浪士川辺左治右衛門が小五郎のもとを訪ね、切腹死してしまう。坂下門外の変との関わりを幕府から追及された小五郎であったが、航海遠略策により幕府や朝廷に注目されていた長井雅楽の尽力によって釈放される。
文久2年(1862年)、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、周布政之助・久坂玄瑞(義助)たちと共に、松陰の航海雄略論を主張し、長州藩大目付・長井雅楽が唱える幕府にのみ都合のよい航海遠略策を退ける運動を開始する。長井の策は勅許なしでの条約締結による開国を是認するものであり、天皇をおろそかにする政策だと考えたからである。同年6月、江戸から上京してくる長州藩主毛利敬親を中山道中津川宿にて待ち受け、京都の情勢を報告し、藩論を転換するよう説得する(中津川会議)[16]。このため、長州藩要路の藩論は破約攘夷・開国攘夷(勅許なしでの通商条約は一旦破棄し、その後正式に勅許を得て開国し、国の力をつけてから攘夷を実行する)に決定付けられる。同時に、異勅屈服開港しながらの鎖港鎖国攘夷という幕府の路線は論外として退けられる。これにより長井雅楽と、小五郎の義弟(妹治子の夫)である来原良蔵が切腹する(来原は同年8月、長井は翌年2月)。来原良蔵自決の報せを聞いたとき、小五郎は顔を覆って泣き、周囲の者ももらい泣きしたという。
文久2年(1862年)6月、勅使大原重徳が江戸へ赴き、勅書として
を幕府に要請した(文久の改革)。このうち1.が小五郎の、2.が岩倉具視の、3.が島津久光の進言が基になったとされる。この勅書に応じ翌文久3年に家茂は上洛したが、このことにより天皇>将軍という格付けがさらに印象づけられた。
これらの働きを評価され同年7月、藩の右筆役政務座副役となる[14]。さらに京都で学習院御用掛に任命され、朝廷や諸藩を相手に外交活動を行う[17]。
文久2年(1862年)8月、江戸に向かう道中で金谷に滞在中の薩摩藩士五代友厚を訪ね、文久の改革で江戸に滞在中の島津久光の動向を聞く。長州藩主毛利敬親は、久光が江戸に到着する前に江戸を離れ、すれ違いになったため、代わりに世子毛利元徳を久光に会わせるためである。18日に品川に到着した毛利元徳は、20日に勅使大原重徳と久光に対面したが、それ以上の進展は無く、21日に久光は江戸を発っている[18]。
文久2年(1862年)閏8月、会津藩士秋月悌次郎に面会し、京都の事情等について情報を伝える[19]。悌次郎からの書簡七通[20]によると、度々会う約束を交わしたほか、複数の会津藩士を交えて小五郎の意見を聴いたこと、小五郎の意見を書面にしてほしいなどの要望が読み取れる[21]。
同じく閏8月、周布政之助とともに、政事総裁職になった松平春嶽に面会。幕府に攘夷実行を迫るよう伝えた。その後、横浜のイギリス商会で軍艦購入の交渉を行った。後に井上馨らが担当して購入し、壬戌丸と名付けられた。
文久2年(1862年)9月、対馬藩士大島友之允と面談、対馬藩主宗義和に関わるお家騒動の解決の斡旋を行う。先代対馬藩主宗義章の正室慈芳院が、長州藩10代藩主毛利斉熙の娘であった縁もあり、以降幕末史において対馬藩は長州藩と深い関係を保つ。
同じく9月、横井小楠と会談。横井の開国論が戦略論であり、小五郎らの攘夷論が戦術論であることを確認しあい、基本的には一致すること(開国を目的とする攘夷論)を了解しあった[14]。
文久3年(1863年)3月、水戸藩士吉成勇太郎らを上京させた。
同じく3月の末頃、宍戸璣(当時は山県半蔵)とともに勝海舟を訪問し、海外に関する意見を聞く。勝は「海軍興隆は、護国の大急務、後世の基本成るべし。今後れたりとて、手を下さざる時は、後また今の如く。終に興起の基立つべからず。今用に応ぜざるとも、後世の国益を思はざるは、丈夫の事にあらず」と伝えた[23]。
同年4月下旬、対馬藩士大島友之允とともに再び勝海舟を訪問し、朝鮮問題を論じる。対馬藩は、地理的に最も朝鮮に近い位置にあり、また2年前の文久元年にロシア軍艦対馬占領事件が起きたばかりということもあり、海外情勢は切実な問題であった。勝は「当今亜細亜州中、欧羅巴人に抵抗する者なし、これ皆規模狭小、彼が遠大の策に及ばざるが故なり。今我が邦より船艦を出だし、弘く亜細亜各国の主に説き、横縦連合、共に海軍を盛大し、有無を通じ、学術を研究せずんば、彼が蹂躙を遁がるべからず。先最初、隣国朝鮮よりこれを説き、後支那に及ばんとす」と述べた[24]。翌年の元治元年(1864年)には、大島は朝鮮進出の建白書を提出している。明治の最初期に木戸が征韓論を主張したのは、この時の論が基になっていると考えられる。
欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行という基本方針が長州藩開明派上層部において定着し、5月8日、長州藩から英国への秘密留学生が横浜から出帆する(日付は、山尾庸三の日記による)。この長州五傑と呼ばれる秘密留学生5名(井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助)の留学が藩の公費で可能となったのは、周布政之助が留学希望の小五郎を藩中枢に引き上げ、オランダ語や英語に通じている村田蔵六(大村益次郎)を小五郎が藩中枢に引き上げ、開明派で藩中枢が形成されていたことによる。
5月12日、小五郎や高杉晋作たちのかねてからの慎重論(無謀論)にもかかわらず、朝廷からの攘夷要求を受けた幕府による攘夷決行の宣言どおりに、久坂玄瑞率いる長州軍が下関で関門海峡を通過中の外国艦船に対し攘夷戦争を始める。この戦争は、約2年間続くが、当然のことながら、破約攘夷にはつながらず、攘夷決行を命令した幕府が英米仏蘭4カ国に賠償金を支払うということで決着する。
5月、藩命により江戸から京都に上る。京都で久坂玄瑞・真木和泉たちとともに破約攘夷活動を行い、正藩合一による大政奉還および新国家建設を目指す。
文久3年(1863年)8月18日、八月十八日の政変が起こる。三条実美ら急進的な尊攘派公家と長州藩士が京都から追放された(七卿落ち)。長州藩士は京都留守居役3人を除いて在京を禁じられたが、小五郎は変名を使い京都内を潜伏しながら情報収集と長州藩復権工作を続けたものの、奏功せず一旦帰藩する。
元治元年(1864年)1月、藩命を受けて上京、対馬藩邸などに潜伏し関係諸藩(因幡、備前、筑前、水戸、津和野など14藩に及ぶ)との外交活動を続ける。同年5月、正式に京都留守居役に命じられ、藩を代表して外交活動を行う。
元治元年(1864年)6月、池田屋事件が起こる。小五郎は会合への到着が早すぎたため、一旦池田屋を出て対馬藩邸に向かったため難を逃れたという説と、池田屋より屋根を伝い逃げたという説がある。この事件により、追い詰められた過激派尊攘志士たちは慎重派の小五郎や周布・高杉らの意見を聞かず、暴発が避けられなくなってしまう。
禁門の変の際、小五郎は因州藩を説得し長州陣営に引き込もうと目論み、因州藩が警護に当たっていた猿が辻の有栖川宮邸に赴いて、同藩の尊攘派有力者である河田景与と談判する。しかし河田は時期尚早として応じず、説得を断念した小五郎は一人で孝明天皇が御所から避難するところを直訴に及ぼうと待った。しかしこれもかなわず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、幾松や対馬藩士・大島友之允の助けを借りながら、潜伏生活に入る。その後会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになり、但馬の出石に潜伏する。
京都潜伏中に作ったとされる都々逸が残されている。
さつきやみ あやめわかたぬ 浮世の中に なくは私と ほととぎす — 桂小五郎(木戸孝允)
但馬出石出身で対馬藩出入りの商人広戸甚助の協力で、小五郎は出石に逃げのびた。出石では広戸家の親戚宅や檀那寺である昌念寺[27]や養父市の西念寺[28]などを転々とし、さらには当時松本屋という屋号だった城崎の湯宿に年をまたいで2度潜伏している。
昌念寺に潜伏していたときに知り合った出石藩士の堀田反爾について、木戸は明治3年7月の日記に「八日朝、大久保参議来談、堀田反爾来る。但州出石藩の人、余七年前、京都戦争後、しばらく出石に潜伏す。この時最善寺に相会す。しかるといへどもその時余の長州人たるを知らざるなり」と述べている。出石での滞在中は、甚助の妹にあたる広戸すみ子が身辺の世話をし、のちに「何時も揚げ豆腐の焼いたのが、御好みであつた」と食物の嗜好について述懐している[29]。
小五郎は、甚助を長州藩への使いに出し、大村益次郎に居場所を知らせた。小五郎の居場所は、大村のほか伊藤博文と野村靖のみが知る極秘事項とされた。高杉晋作は大村宛に「桂小の居所は、丹波にてござ候や、但馬にてござ候や、また但馬なれば何村何兵衛の所にまかりあり候や」 と手紙を書いて小五郎の居場所を尋ねている。大村や野村は、小五郎に手紙を出し、藩の内外の状況を知らせるとともに、すぐに帰藩するよう伝えている。高杉は、大村宛の手紙を認めた翌月に、下関の豪商入江和作に宛てて「そのうちちょっと但馬城崎湯に罷り越したく存じおり候」と具体的な地名を交えて伝えており、小五郎の居場所を知る人物より情報を得ていた可能性がある[30]。
京都から下関に逃げのびていた幾松と甚助が小五郎を迎えに行ったが、道中甚助が旅費の50両を博打ですっかり使い切ってしまった上、逃亡するということがあった。残された幾松は一人、持っているものを売って旅費とし、旅を続けた。幾松が慶応元年(1865年)3月2日に出石に到着し、再会を果たした小五郎は、幾松と広戸すみ子をともなって城崎の松本屋へ移り、同21日には出石へ戻ったという[31]。
小五郎は、慶応元年(1865年)4月8日に幾松と広戸甚助をともない、長州へ向けて出石を発ったが、同16日に甚助が大阪で捕縛されたため、弟の広戸直蔵が引き継ぐかたちで帯同した[31]。
朝敵となって敗走した長州藩に対し、さらに第一次長州征討が行われようとした時点で、長州正義派は藩政権の座を降りた。不戦敗および三家老の自裁、その他の幹部の自決・処刑という対応で藩首脳部は責任を取った。国泰寺の会談において長州藩を代表した吉川経幹を前にして永井尚志は質疑をしていたが、途中で手帳を出すと名前を確認しながら「桂小五郎と高杉晋作はどこにいるのか」と尋ねた。吉川は死にましたと返答をしてこの件は処理された。
その後、長州俗論派政権が正義派の面々を徹底的に粛清し始めた。しかし、高杉晋作率いる正義派軍部が反旗を翻し、軍事クーデター(功山寺挙兵)が成功したため(元治元年(1864年)12月~元治2年(1865年)3月)、俗論派政権による政治が終わった。その後、高杉晋作・大村益次郎たちによって、出石より帰国した小五郎は長州藩の統率者として迎えられる。
後に伊藤博文は小五郎が長州に迎えられた時の様子を「山口をはじめ長州では大旱(ひどいひでり)に雲霓(雨の前触れである雲や虹)を望むごときありさまだった」と語っている。慶応元年(1865年)5月27日に政事堂内用掛国政方用談役心得となり、長州政務座に入ってからは、武備恭順の方針を実現すべく軍制改革と藩政改革に邁進する。同時期に、藩主より「木戸」の苗字を賜った。以降、この項目では木戸と称する。
長州藩は土佐藩の土方楠左右衛門・中岡慎太郎・坂本龍馬らに斡旋されて薩摩藩と秘密裏に薩長同盟を結ぶ。木戸が復帰する以前から、大宰府に移動した三条実美らの周辺にいた中岡慎太郎らにより、幕府からの割拠を目指す薩長二藩の提携を推進する動きがあり、慶応元年(1865年)閏5月に木戸と西郷の会見が用意された。しかし,西郷が上京を急いだため実現せず、木戸は「果たして薩摩の為めに一杯喰わされたのである。もうよろしい。僕はこれから帰る」と憤慨するが(土方久元『薩長同盟実歴談』)、薩摩藩名義で銃を購入することを提案し、井上馨・伊藤博文を長崎に派遣した。井上・伊藤は小松帯刀の斡旋で、外国商人トーマス・ブレーク・グラバーから銃器を購入、井上はそのために薩摩入りも果たしている。その返礼として9月8日、毛利敬親父子は島津久光父子に宛てて親書を送り、両藩は実質的に和解した。
西郷は12月に黒田清隆を山口に派遣し、代表者の入京を求める。木戸は薩摩に入ったことのある井上を送ろうとしたが、高杉晋作や井上・伊藤は木戸に上京を求めた。諸隊の問にも薩摩への警戒心が根強く残っていたため木戸は難色を示したが、井上らの強い説得により結局木戸が代表となり、御楯隊の品川弥二郎らを伴うかたちで27日に三田尻を出港、翌慶応2年(1866年)1月7日に京都に入った[32]。
慶応2年(1866年)1月22日に京都で薩長同盟が結ばれて以来、木戸は長州の代表として薩摩の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛・黒田清隆らと薩摩・長州でたびたび会談し、薩長同盟を不動のものにして行く。薩長同盟の下、長州は薩摩名義でイギリスから武器・軍艦(ユニオン号・長州藩での名前は乙丑丸)を購入した。
長州藩の武備恭順や大村益次郎たちによる秘密貿易を口実として、幕府側(会津藩・新撰組)は第二次長州征討(四境戦争)を強行してくる。
開戦後、木戸は英仏の両公使と馬関で会談した。フランス公使ロッシュは「長州が降伏を望むなら斡旋する」と言い、イギリス公使パークスは木戸に和議を勧めた。これに対し木戸は、「さきに攻めてきたのは幕府ですから、幕府のほうが停戦を求めてきたら考慮します」と、和議の勧告をきっぱりと拒絶した。『幕府の大軍に包囲されているにもかかわらず、この長州の代表者はいささかの弱みも見せず、毅然とした態度を崩そうとしない』『どうやらこの木戸という男に脅しは通用しない』と、長州藩の本気をパークスは悟って、以後、和議に触れることはなかったという。
薩長同盟を介した秘密貿易で武器や艦船を購入し、近代的な軍制改革が施されていた長州軍の士気は、極めて高かった。長州訪問中の坂本龍馬が感激して薩摩に「長州軍は日本最強」と手紙をしたためたほどであった。
大島口・芸州口・石州口の3カ所で極めて短期間のうちに幕府軍を撃破し、残りの小倉口も高みから徹底抗戦し続けていた肥後藩士たちの戦意喪失により、長州側の勝利が確定する。この結果、浜田藩(幕府領・石見銀山含む)と小倉藩の主要部分は明治2年(1869年)の版籍奉還まで長州藩の属領となる。
木戸の代理として広沢真臣が勝海舟と宮島[34]で停戦交渉を行っていた頃の慶応2年(1866年)8月末、木戸は下関でイギリス公使パークスらと会談していた。長州藩が四か国連合との条約に違反して、下関を要塞化していたことに対して説明するためである。イギリスの抗議は実は形式的なものに過ぎず、パークスは下関の武装は当分見逃す気でいたとされている。
慶応2年(1866年)10月に薩摩藩から黒田嘉右衛門(清綱)が正使として長州藩を訪れたので、その返礼の正使として同年11月、副使の河北一を伴って薩摩を訪れた。この時に、薩長間で進められていた下関に貿易商社を設立する計画について、正式に破談を告げた[35]。その原因は関門海峡を閉鎖するか(薩摩側)否か(長州側)の主張の違いにあるとされている。
この時の薩摩入りの心境を、入薩詩「東天雲雨悪 西海屡揚波 一舸不避険 逆風入薩摩」と詠んでいる。
慶応2年(1866年)9月に長州征討の停戦合意が成立したものの、長州藩は朝敵とされたままだった。慶応3年(1867年)5月に四侯会議が開催され、長州問題と兵庫開港問題が論じられたが、最終的には兵庫開港および長州寛典論(藩主毛利敬親が世子広封へ家督を譲り、十万石削封を撤回、父子の官位を旧に復す)が奏請され、明治天皇の勅許を得ることが決定した。これを受け、同年12月8日に二条斉敬が主催した朝議にて毛利敬親・定広父子の官位復旧が決定し、長州は朝敵を赦免された。
翌12月9日に開かれた小御所会議により新政府が成立し、明くる年の慶応4年=明治元年(1868年)1月25日、木戸が総裁局顧問に拝命され、明治新政府の最初期のかじ取りを任されることになる。
戊辰戦争においては、徳川慶喜個人に対しては比較的寛大な措置をとることを容認したものの、江戸総攻撃に関しては「巣穴(江戸城)の駆逐が急務」と発言し、江戸総攻撃は必須であると主張した。江戸開城後の徳川家に対する処置としては、家名存続は容認するものの、処分は旧幕府の抵抗勢力を駆逐した後に決めればよいと主張し、石高はなるべく減ずるようにし(当初東征大総督府(西郷隆盛)が出していた徳川家に100万石程度を与えるという案に対しては、「百万石余とは余程の御寛大」と述べ反対の姿勢を示した)、多くても尾張藩62万石の少し上を限度とすべき(どうしても不足なら田安慶頼に別に20万石与える)と主張した。会津藩に対しても、「会津藩を討伐しなければ新政府は成り立たない」と大久保に述べるなど厳格な姿勢を示した。
明治新政府にあっては、右大臣の岩倉具視からもその政治的識見の高さを買われ、明治元年(1868年)1月にただ一人総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となる。太政官制度の改革後、外国事務掛・参与・参議・文部卿などを兼務していく。
明治元年(1868年)以来、数々の開明的な建言と政策実行を率先して行い続ける。五箇条の御誓文、マスコミの発達推進[注 1]、封建的風習の廃止、版籍奉還・廃藩置県、人材優先主義、四民平等、憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、資本主義の弊害に対する修正・反対、教育の充実、法治主義の確立などを提言し、明治政府に実施させた。
なお、軍人の閣僚への登用禁止、民主的地方警察、民主的裁判制度など極めて現代的かつ開明的な建言を、その当時に行っている。
国の基本方針である国是を明確にすることは、新政府発足当時からの重要事項だった。政府内では由利公正と福岡孝弟が条文を作成し、検討と修正を重ね、岩倉具視に提出を繰り返している。総裁局顧問に任官した木戸は、慶応4年3月に建言書を提出して、内容の具体化の急務を説いた。第一段階として由利が、第二段階として福岡が作成していた案を、木戸が最終的に修正したものが、同年3月14日に布告された五箇条の御誓文である。
以下がその内容となる。
五箇条の御誓文の布告の翌日には、億兆安撫国威宣揚の御宸翰が告示され、木戸はその起草も行った。
慶応4年(1868年)7月17日に発せられた江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書おいて、木戸は岩倉が作成した草案をもとに起草・監修にあたり、天皇が江戸で政務を執ることを宣言し地名も江戸から東京に改められた。9月8日、慶応が明治に改元された。9月20日、天皇が京都を出発して東京に行幸し、木戸も随行している。
明治元年(1868年)10月に箱館五稜郭が榎本武揚等の旧幕勢力に占領された報せを受け、その対策として大久保利通が「徳川軍を派遣して、停戦交渉させよう」と提案し、木戸が「現徳川家当主の徳川家達は幼い(当時6歳)ので、代わりに謹慎中の徳川慶喜を派遣しよう」と応じた。慶喜に手柄をたてさせることで、罪を許す名目にしたいという考えである。木戸は大村益次郎と相談の上、岩倉具視を通じて慶喜の後見人勝海舟に慶喜を説得させることにし、勝もそれを引き受けることにしたが、結局三条実美の猛烈な反対で立ち消えとなった。
慶応3年(1867年)12月、第二次長州征討で長州藩が占領していた豊前・石見を朝廷に返還するよう藩に提案した。長州藩は、慶応4年1月に豊前・石見の返上願を出し、それをうけた新政府は、長州藩の預地とするよう指示した。
木戸は、まだ戊辰戦争の最中で江戸開城の2か月ほど前の慶応4年(1868年)2月、三条実美、岩倉具視に版籍奉還の建白書を提出し、今後の日本の建設について、「700年来の封建性を解体し、全国300の藩主にその土地・人民を朝廷に還納させ、今後は日本の名義がどこにあるのかはっきりさせなければならない。実に天下の体勢は元亀・天正(戦国時代)にあらず。現在の朝廷及び各藩の情勢を察するに、わずかに兵力の強弱のみを各自うかがい、朝廷は自ら薩長に傾き、薩長はまたその兵力に傾き、その他の藩もまた概ね似たようなものであり、この混乱の拡大を終わらせなければ、実権が新政府に落ち着くことにはならない。元々、この国には国内の各藩それぞれに兵力、体制、政令・刑罰があり、混乱が起こりえる可能性があった。朝廷は日本の名義をもって、全国に号令をかけ、その国内を一つにまとめ上げることに勤めなければならない。」と訴え、国のあり方を示した。しかし、三条も岩倉も時期尚早としてこの時点では賛成しなかった。
同年閏4月、小松帯刀へ送った手紙に「革命の基礎を据わらせるには戦争より良法はない。太平は血をもって買い求めるしかない。」と書いてある。
版籍奉還が実施されれば、主君(藩主)と家臣(藩士)の主従関係が形式上は否定され、両者は同じ朝廷の臣民になる。同年閏4月と7月に、木戸は長州藩主毛利敬親に版籍奉還について説得にあたり、敬親は理解を示して同意した。同年9月18日、木戸は大久保利通と極秘裏に会談し、版籍奉還の実施について大久保と薩摩藩の協力を要請、大久保は「一緒尽力」を承諾した。さらに木戸は山内容堂と会談して土佐藩の同意を取り付け、大久保の奔走により薩摩藩も同意、これに佐賀藩も同調し、明治2年(1869年)1月20日、薩長土肥四藩の藩主連署による「版籍奉還の上表」が提出された。その後、大半の諸藩が同様に版籍奉還の上表を提出した。
この時点では、旧藩主がそのまま知藩事として任命された形となり、兵力と徴税の権限が依然として旧藩主の元にあり、木戸の念願である郡県制の実現は廃藩置県を待たねばならなかった。また、当初の廟議案では知藩事は世襲とする旨の文案であったが、木戸はこれに反対し、「世襲」の2字は削除された。
版籍奉還においては一致協力した木戸と大久保であったが、明治2年(1869年)になると両者は政治的路線の違いで対立した。大村益次郎、井上馨、陸奥宗光、大隈重信ら開化派の官僚を登用して、兵制改革や官制改革など封建制の解体を目指す木戸に対し、大久保は副島種臣らと共に保守的な慎重論を唱えた。両派は兵制改革において対立し、徴兵制による国民皆兵を唱える大村に対して薩長を中心にした士族兵の必要性を唱える大久保が反発した。その最中に大村益次郎の暗殺が起き、木戸は国民皆兵論を通し切ることが出来なくなり、薩長土三藩による御親兵が設置された。
同年7月8日に発表された新官制においても、両者の対立は表面化した。職員令によって待詔院学士に木戸・大久保・板垣の三名が任じられたが、木戸はそれを固辞した。大久保は君主の補佐という権限を持たない参議の代わりに、待詔院学士という役職を設置した。待詔院学士は天皇を直接に補佐する左・右大臣から諮詢を受けることが出来る。ともすれば両大臣を飛び越える形で天皇へ影響を与えうる役職を、木戸は自らの政治理念上、よしと判断しなかった。大久保は待詔院に出仕しながら、木戸を同職に就けようとしたが、木戸は固辞し続けた。
明治2年(1869年)11月、旧諸隊士1200人が脱隊騒動を起こした。翌明治3年(1870年)1月、脱隊した旧諸隊士たちは、大森県(現・島根県の石見地方と隠岐諸島)を管轄する浜田裁判所を襲撃。1月24日には山口藩議事館(現・山口県庁舎の前身)を包囲して、交戦した旧干城隊を撃破し、付近の農民一揆も合流した結果、山口藩議事館が1800人規模で包囲され続けるという事態となった。 この事態を治めるため、木戸は毛利元徳知藩事から依頼されて山口藩正規軍による討伐軍を指揮し、鎮圧した。騒動を起こした者のうち、農商出身者約1300名は帰郷が許され、功労者と認められた約600名には扶持米1人半が支給された。一方首謀者の長島義輔ら35名が処刑された。
明治4年(1871年)7月9日、木戸邸に大久保利通、西郷隆盛の他に、西郷従道、大山巌、山県有朋、井上馨らの薩長要人が集まり、廃藩置県断行の密議が行われた。この密議は、三条実美と岩倉具視にすら知らされていなかった。西郷と大久保、そして木戸の3人はそれぞれに政見は異なっていたが、この廃藩置県断行については一致協力を見た。この席上、井上は西郷隆盛に「反対する者は、どこまでも御親兵となって討伐してしまわねばならない」と要求し、西郷はそれを承諾した。
そして7月14日、在京の知藩事が皇居に召集され、廃藩置県の詔が下った。これによって旧藩主であった知藩事は失職して県令が任命され、封建制度を支えてきた領主による土地支配は廃止されることになった。
明治政府草創期の朝令暮改や百家争鳴状態を解消するため、廃藩置県の断行を控えた明治4年6月、西郷隆盛・大久保利通・岩倉具視・三条実美らから、木戸がただ1人の参議となるように求められる。「命令一途」の効率的な体制を構築するよう懇請されたわけであるが、リベラルな合議制を重んじる木戸は、これを固辞し続ける。大久保による妥協案により、木戸は、西郷と同時に参議になることを了承するが、翌7月には、政務に疎い西郷を補うためという口実で、肥前の大隈重信を参議入りさせることを西郷に提案し、西郷も「それでは土佐の板垣退助も参議にすべきだ」と応じ、薩長土肥1人ずつの参議内閣制が確立される。しかしこの体制は、それを打ち立てた木戸自身が海外視察の全権副使として留守にしたため、長くは続かなかった。
海外視察組(岩倉・木戸・大久保・伊藤たち)と留守政府組(三条・西郷・江藤・大隈・板垣たち)との間には、「海外視察が終わるまで、郵送文書での合意なくして明治政府の主要な体制・人事を変更しない」という約束が交わされていた。それを留守政府が大きく反故にしていた。また、留守政府による征韓論の方針は、海外視察組には到底承伏し難い暴挙にしか見えなかった。
木戸は海外視察へ出かけていたただ1人の参議であり、帰朝後、原因不明の脳発作のような持病が一気に再発・悪化し始めた。持病のためか、木戸は以後、本格的に明治政府を取り仕切れなくなった。
木戸は、幕末以来の宿願である開国・破約攘夷つまり不平等条約の撤廃と対等条約締結のため、岩倉使節団の全権副使として欧米を回覧し、予備交渉と欧米視察を進め、欧米の進んだ文化だけでなく、アヘン常用者や悲惨な貧困窟が存在するイギリス、フランスの労働者街の困難、ロシア農村の窮状など、資本主義の不完全性や危険性をも洞察して帰国した。また、それまでの市民革命的な立場を改め、資本主義の全面展開に疑問を持つようになる。
しかし、欧米と日本との彼我の文化の差ははなはだしかった。かつての征韓論などは引っ込めて、内治優先の必要性を痛切に感じ、憲法の制定、二院制議会の設置を積極的に訴え、国民教育の充実に積極的に取り組んだ。後に文部卿に自ら就任したのは、国民教育を充実させることを目指したものであった。
西郷らが主張する征韓論や、大隈重信や西郷従道らが主張する台湾出兵には一貫して反対し、またあくまで農民を不公正な税制と重税から解放するために積極的に推し進めた地租改正や、武士の特権を廃止し彼らの新たな生活が立ちゆくよう構想された秩禄処分が、それぞれ逆効果となる形で実行された時には、これに激しく反発した。そして、台湾出兵が決定された明治7年(1874年)5月には、これに抗議して参議を辞職している。
木戸を明治政府に取り戻したい大久保利通・伊藤博文・井上馨らは、明治8年(1875年)2月、大阪会議に招待する。板垣もこれに加わり、木戸と板垣は、立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立を条件として参議復帰を受け入れ、ただちに立憲政体の詔書が発布される。議会(立法)については元老院・地方官会議が設けられ、上下の両院に模された。司法については現在の最高裁判所に相当する大審院が新たに設立されることとなった。
急進論を廃して漸進的に改革を行うことを木戸と約束していた板垣だが、明治8年3月に参議に復帰すると政府内外の民権派を味方につけ、急進的な改革を主張するようになった。さらに板垣は、守旧派の島津久光左大臣と共同して、参議と各省の卿を分離するよう主張した。木戸はもともと分離主義ではあったが、現状での実行を不可と考え大久保らの分離中止派についたため、板垣・島津の主張は退けられ、同年10月板垣・島津は辞職した(大阪会議#大阪会議体制の崩壊)。この騒動により木戸は、民権派からは裏切り者と批判され、大久保らからは板垣を引き込み問題を起こしたと批判された。この状況を心配した福沢諭吉が木戸を訪ね、「参議をお辞めになったほうが良い。これ以上職にとどまっておられても衆人の恨みを買うだけです」と提言した。木戸と福沢は、岩倉使節団の帰国後に知り合い、篤く親交していた[39]。
明治9年3月、参議の辞任は受け入れられたが、新たに内閣顧問を命じられた。同年4月14日、明治天皇が木戸の別邸を訪れた際、木戸ら輔弼の功に言及し、「朕ここに親臨し、ともに歓をつくすをよろこぶ」という言葉を賜った。士族の家への臨幸はこれが初めてとされる。
明治元年(1868年)の集議所、翌2年(1869年)の公議所など、木戸自身の開明的な方針で国会の下院に相当するものを実際に構成し、機能させようとする努力は当初からなされてはいた。しかし、江戸時代の封建意識そのままの各地の不平士族たちを出仕させ、自由に発言させただけでは、維新の方針とも現実的な可能性とも乖離し過ぎており、大久保らをして「廃止すべし」と断言させるほどに、時期尚早かつ、ほとんど非現実的で無意味なものであった。また、これらの会議は「廃刀令」「四民平等」以前に行われたため、薩長土肥以外の、特権を奪われまいとする武士たちの不満の発散所でしかなかった。
このため、現在の国会の衆議院に相当するようなものを模索し続け、その必要性を訴え続けて来た木戸自身が、環境を整備し、タイミングを見計らった上で、第1回の地方官会議(明治8年1875年6月20日 - 7月17日)を、自ら議長として挙行した。このとき採択された5法案は、地方警察、地方民会など地方自治の確立を促進する法案であるが、いずれもそのままの形では実施されなかった。
明治6年(1873年)9月21日(11月10日)、大久保利通により内務省が設立された際には、「あまりにも強大で、強力な権限を持ちすぎる」として、内務省設立を主導した大久保を批判していたが、明治7年(1874年)2月に佐賀の乱が勃発すると、木戸は大久保の代理として内務卿を引き受け、三条実美太政大臣から司法・軍事の全権を委ねられた大久保が佐賀に行き対処した。以降木戸は、士族反乱に対抗するには、太政官による警察力の強化と中央集権の徹底が必要として、内務省による積極的な士族反乱への対処と、さながら独立国化していた鹿児島県に、薩摩藩出身者以外からの県令を派遣することや、鹿児島県を太政官の方針に従わせることを要求するようになる。
なお、木戸のお膝元の山口県で、明治9年(1876年)10月に勃発した萩の乱では、反乱の首謀者たる前原一誠(かつて徴兵令を巡って木戸と対立した経緯がある)を、萩の臨時裁判所での審理を経て極刑にしている。木戸が前原の処刑を強く主張したと当時の新聞で報道されたが、それは木戸の本意ではないと木戸日記に記している。「読売新聞と曙新聞が偽りの説で私の姓名を出して、私の平生の思考と反対のこと、私たちが強引に前原たちを厳罰に処することを論じたなどと(掲載した)。私はいつも、故国(=山口)の者が道を誤って不良の徒に扇動されることを憂いて数年来苦心してきたがうまくいかず、前原にも何度も忠告したが、故国がこのような困難なことになって耐えられないが、この際に彼らを厳罰になどとは、私は死んでも言えない (新聞を)一読して堪らず歎いた」[40] 木戸の抗議を受け、両新聞は訂正記事を出した。
明治9年12月、士族反乱と地租改正反対一揆に関して木戸は政府に意見書を提出し、「地租改正は急激にすすめるべきではなく各地方の実情に則してすすめるべきである。人民が困窮しないように税を軽減し、政府は不急の建築などを止めて支出を抑えること。政府はその権限を地方に分与し会計も別にすること。民費(町村の維持のため町村民が負担した諸経費)について町や村ごとに住民による協議会をもち、その民意を聞くべきだ。民費の負担は各地方の民力に従うしかなく、政府が一定の数目をもって之を推せば必ず堪える者が出る。華士族については、将来の生活が成り立つように配慮すること。法律をもち出し人民を束縛するのはさけるべきだ。法は人民あって生み出されるもので、法があって人民があるわけではなく、何でも杓子定規に決めてよいものではない。政府は各県の強弱によってその政策を違えてはならず、公平を旨とすること(鹿児島県では特別に地租改正も廃刀令も行われず、秩禄処分については他県より有利な条件だった)」を訴えた。
地租改正により土地の私的所有が認められ、土地が個人の財産として流通や担保の対象として扱われるようになった。これにより農民は他の土地を手に入れ農地を拡大することができたし、逆に売り払い他の職業に就くこともできた。土地所有者は金銭によって税金を支払う義務が課せられた。貧しい農民には重い負担であり、年貢と違って農産物を市場に出し金銭に換えその金銭で税金を払うことになじまなかった。仲介するものに金銭をだましとられることがあった。貧しい農民は寄生地主など裕福な者に土地を売りわたし小作人になっていった。さらに寄生地主の中には質屋などの金融業を兼業し、小作人に金銭の貸付を行っていた。これにより農村内での貧富の差はいっそう拡大した。資本主義の弊害であった。この意見書はそんな背景をもっていた。意見書を受けて大久保は税の低減を決定し、明治10年1月、地租は地価の3%から2.5%に、地方税は地租の3分の1から5分の1に減じられることとなった。すなわち、地租と地方税合わせて地価の4%から3%になり、地主農民が納める税金は低減前の4分の3(75%)になった。
明治天皇は、明治5年(1872年)の九州・西国巡幸(西郷隆盛が随行)以降、9年(奥羽・函館巡幸)、11年(北陸・東海道巡幸)、13年(山梨・三重・京都巡幸)、14年(北海道・秋田・山形巡幸)、18年(山口・広島・岡山巡幸)と6回巡幸を行っているが(六大巡幸)[41]、木戸は明治9年の奥羽・函館巡幸に随行した。
その道中、日光についた明治9年(1876年)6月6日、日光の輪王寺(当時は旧称の満願寺、「日光の社寺」として世界遺産に登録されている)の三仏堂の保存を訴える町民の嘆願をうけた。木戸は翌日、天皇に供奉して東照宮神殿や宝物を見学。「堂宇は実に本邦無類の壮観なり」との感慨を抱いている。日光町民は、廃仏毀釈による三仏堂の縮小移転などによって、それが日光全体の衰退につながることを危惧していたのである。木戸は、この町民の訴えに共鳴し、内務大丞品川弥二郎に三仏堂取り壊しの中止に尽力するように求めた。そして木戸は、帰京後も尽力を重ね、鍋島幹日光県令に対し「三仏堂旧観のままを不変」に移転するように伝え下賜金を手渡している。同年12月には満願寺が東照宮内の護摩堂と輪蔵の据え置きを願い出て、栃木県から認められた。(木戸の死後の)明治12年7月には三仏堂が旧観のままに移築されて輪王寺の本堂となり、日光の壮観が、日光町民の願いをうけて維持されることになった。
明治天皇が国体についてお尋ねられた時、木戸は「むかし天皇はその権力を外戚である藤原氏に,その後武家にゆだねた。この事は国の中のことで皇統の連続に支障はなかった。いま世界の国々は富強を争っている。このときに国の中心が定まらなければ政権が外国に奪われとりかえしがつかないことになる。このことを防ぐのががわたしの責務と日々自分を叱咤しているところです」と答えたとされる[42]。
同じく明治9年8月、宮内省出仕を拝命し、明治天皇や皇室、華士族に関わる仕事に取り組んだ。
明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発すると、かねてより西郷と旧態依然の鹿児島県(旧薩摩藩)を批判していた木戸は、すぐさま西郷軍征討の任にあたりたいと希望した。また大久保利通は、西郷への鎮撫使として勅使の派遣を希望したが、伊藤博文はこれらに反対した。その後、西郷軍征討のために、有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)に任じ、国軍が出動、木戸は明治天皇とともに京都へ出張する。
ところが、かねてから重症化していた木戸の病気(大腸がんの肝臓転移[43])が悪化した。明治天皇の見舞いも受けるが、5月26日、京都の別邸で朦朧状態の中、大久保の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後に、木戸はこの世を去った[44]。享年45(満43歳没)。
墓所は多くの勤皇志士たちと同じく、京都霊山護国神社にある。墓碑銘は明治29年(1896年)に川田甕江が死去したときには未だ完成をしておらず、それを知った三島中洲が慌てて未完の部分を継ぎ足して完成させたといわれている。
また、長州正義派政権時代に山口の居宅だった場所(山口市
明治11年(1878年)5月23日、明治天皇の特旨により、木戸家は大久保利通の大久保家とともに華族に列した。華族令公布以前に華族に列した元勲の家系は、木戸家・大久保家・広沢家(広沢真臣家)の三家のみである。木戸家の当主となっていた養子木戸正二郎は明治17年の華族令公布の際に侯爵に叙された。
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
「木戸」姓以前の旧姓は、8歳以前が「和田」、8歳以後が「桂」である。小五郎、貫治、準一郎は通称である。命を狙われ続けた幕末には、「新堀松輔(にいほり まつすけ)」「広戸孝助(ひろと こうすけ)」など10種以上の変名を使用した。「小五郎」は生家和田家の祖先の名前であり、五男の意味はない。前述の通り国泰寺会談において毛利側の吉川が幕府側の永井に桂小五郎と高杉晋作は死去したと言明したため、公には利用出来なくなる。「木戸」姓は、第2次長州征討前(慶応2年)に藩主・毛利敬親から賜ったものである。
「孝允」名は、桂家当主を引き継いで以来の
桂孝古 | 和田昌景 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
木戸孝允 (桂小五郎) | 治子 | 来原良蔵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正二郎 | 木戸孝正 | 木戸正二郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山尾庸三 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
児玉源太郎 | 孝正 | 寿栄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ツル | 幸一 | 和田小六 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孝澄 | 孝彦 | 孝信 | 昭允 | 都留正子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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