江川英武
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江川 英武(えがわ ひでたけ、嘉永6年4月5日(1853年5月12日) - 昭和8年(1933年)10月2日)は幕末期の韮山代官、明治期の韮山県知事・役人・教育者である。通称は籌之助、後に太郎左衛門。号は春緑。子に法学者の江川英文がいる。また、娘婿に山田三良・辰野隆がいる。
江川英龍(坦庵)の五男として伊豆国田方郡韮山(現・静岡県伊豆の国市)に生まれる。安政2年(1855年)に父が亡くなり、家督は兄の江川英敏が継いだが、7年後の文久2年(1862年)に兄も若くして亡くなったため、英武がわずか10歳にして家督を継承して江川家第38代当主・韮山代官となり、江川太郎左衛門を名乗った。その後、鉄砲方や講武所教授方にも任命された。
慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発した際には、早々に明治政府側に恭順の意を示したため旧領を安堵され、明治2年(1869年)には韮山県の知事となった。明治4年(1871年)、兵部省の命を受け、岩倉使節団と共に留学生として渡米する。約8年の留学の後、明治12年(1879年)に帰国し、内務省・大蔵省に出仕した。明治19年(1886年)、町村立伊豆学校(現・静岡県立韮山高等学校)の校長に就任。学校では英語教育と柔道教育(富田常次郎を講師として招聘)に力を入れたが、経営難から生徒が減少し、数年後に校長職を辞して東京に移った[1]。又、第1回衆議院議員総選挙に静岡県第7区(駿東郡、田方郡など)から無所属で出馬し306票を獲得したが落選し、続く第2回衆議院議員総選挙にも同選挙区から立候補したが、最下位得票で落選した。
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