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かつて存在した日本の公社 ウィキペディアから
日本電信電話公社(にっぽんでんしんでんわこうしゃ、英語: Nippon Telegraph and Telephone Public Corporation)は、かつて電気通信事業を営んでいた公共企業体、日本電信電話公社関係法令による公法上の法人である。通称は電電公社(でんでんこうしゃ)で、英文略称はNTT。現在の日本電信電話株式会社(NTTグループ)の前身である。
往年の三公社五現業の三公社のひとつ[注釈 1][注釈 2]。
1868年(明治元年)、官営に依る電信事業が廟議決定され、翌1869年(明治2年)に東京と横浜間で電信サービスが開始された。その後、1876年(明治9年)にベルにより電話機が発明され、翌1877年(明治10年)に工部省が電話機を輸入して実験を行い電話機の国産化に着手した。
1890年(明治23年)、逓信省により東京市、横浜市、および東京市と横浜市間において、電話交換サービスが開始され、電信・電話は同省の下で運営管理されることになった。
1943年(昭和18年)、第二次世界大戦中に逓信省と鉄道省を統合し、運輸通信省が設置され、電信・電話の事業は運輸通信省の外局である通信院が所管する事になった。その後、1945年(昭和20年)、運輸通信省の外局であった通信院は、内閣所属部局として逓信院となった。
第二次世界大戦後の戦災による電信・電話設備の復興を目指して電気通信事業体制の再編が行われた。敗戦直後の1946年(昭和21年)に逓信院を廃止し逓信省に格上された。
翌1947年(昭和22年)には、国際無線・有線電信・電話設備の建設と保守を事業とした国際電気通信株式会社[注釈 3]がGHQの財閥解体指示により解散され、逓信省に同社の国際通信設備と人員が移管された。これにより、逓信省は、国内国際電信電話事業と設備を所管するに至った。
1949年(昭和24年)、逓信省は郵政省と電気通信省に分割され、国内国際電信電話事業とその設備は電気通信省が所管することとなったが、後に郵政省に再統合され、以後は郵政省が管轄した。
その後の電信電話業務の拡大と電気・通信事業の企業的効率性の導入による更なる公共の福祉に役立つ運用を行うため、1952年(昭和27年)に日本電信電話公社法に基づく特殊法人として、日本電信電話公社が郵政省の外郭団体での形態で設立された。
設立の審議の過程において、国際電話業務を分離し特殊会社とする案もあったが電気通信大臣であった佐藤栄作が、「過去の例で国際電信電話に関し設備保有の会社があったが、電気通信省の管理者としては積極的な検討はしておらず、今日のところは国家的な使命を達成する意味において公共企業体の程度には是非とどめておきたいので、公共企業体移行への準備を進めている。」[注釈 4]と述べ、国際電話の別会社化について審議を併行し続ける形で、同公社が国内と国際の電信・電話業務を所管することとなった。
資本金は、電気通信事業特別会計の資産と負債の差額(182億円余り)とされ、全額政府の出資金とされた。その後、沖縄が日本に返還された1972年(昭和47年)に琉球電信電話公社の資本金(6.1億円)が追加し出資された[1]。
また、国際電信電話業務は、同公社設立の翌年1953年(昭和28年)に、国際電信電話株式会社法に依る特殊会社として設立された国際電信電話株式会社(現:KDDI)に移管される事になった。
1968年(昭和43年)にポケベルサービスが開始され、これがNTTドコモ創業の前身となり、1979年(昭和54年)に世界初の自動車電話サービスが開始された。
1985年(昭和60年)に公衆電気通信法は電気通信事業法に改正された。これにより、同公社の民営化と、電気通信事業への新規参入、および電話機や回線利用制度の自由化(端末の自由化・通信自由化)が認められた。同公社の民営化までは、国内の通信(電報、専用線など)、通話(電話)業務を単独で行ってきた。
これに伴い、1987年(昭和62年)に第二電電、日本テレコム、日本高速通信の3社が長距離電話サービスに参入した。電話事業の独占的環境にあった量的拡大の時代は、競争環境下における質的高度化の時代というステージに移行した。
なお、民営化の際、「地方では電話局が廃止・無人化されるのではないか」、「過疎地で電話が利用できなくなるのではないか」といった反対意見が出されたが、賛成派は「根拠のない[独自研究?]批判だ」と一笑に付すことで民営化路線を進めていった[注釈 5]。
同公社が業務としていた公衆電気通信は、1953年8月1日施行された公衆電気通信法により『日本電信電話公社及び国際電信電話株式会社が役務とすること』が自明のものとして定義されていた。
公衆電気通信役務を“電気通信設備を用いて他人の通信を媒介し、その他電気通信設備を他人の通信の用に供すること”と定義したうえで、電報の種類、電話の種類のほか、料金そのものも条文中で定められていた。
事業内容は日本電信電話公社法3条により「公衆電気通信業務及び付帯業務」とされている。この業務は、電話サービス、電信サービス(電報・加入電信)、データ通信サービス、専用サービスに大別される。
電電公社は事業年度毎に、予算を郵政大臣に提出し、閣議決定・国会の議決を経て政府から成立の通知を受けた。また決算期につき財務諸表の承認を受けた。一方、資金の借入のほか、政府保証債である電信電話債券(でんでん債。電話加入権ではない)の発行を行い、政府の貸付や債券引受、国庫余裕金の一時使用、更には外貨債務に掛かる債務保証が認められた。
電電公社の英文略称はNTT(Nippon Telegraph and Telephone Public Corporation)である。「NTT」と言う呼称は民営化の時に作られたものではなく、公社時代から既に使われていた。なお、現在のNTTのロゴマークなどは民営化時に作られた。民営化以前の1980年代前半に「NTT」と言う略称がCMで使われていたことがある。それと同時期に、「もっとわかりあえる、明日へ。」(それ以前は「電話のむこうは、どんな顔」)のスローガンが広告媒体で使われていた。
電電公社の経営は経営委員会の下に、総裁、副総裁、理事、監事のメンバーで行われていた。
電電公社の公式マーク(公社章)は、電気通信省の記章をそのまま使用しており、由来は電報(Telegraph)と電話(Telephone)の頭文字である2つの「T」で円を作り、中央の空白部でサービス(Service)の頭文字である「S」を表すデザインであった。国土地理院制定の電話局の地図記号にも使われたが、民営化翌年の1986年(昭和61年)に廃止された[2]。なお地図記号は今日まで引き続き使われている。
後身の特殊会社日本電信電話他NTTグループは社章を新しく制定し、この公社章は廃止されたマークとなったため、機器等に標示されたそれも更新と同時に逐次置き換わっていったが、それでも21世紀に入った後もマンホールの蓋など耐久性の高い物品にはこの公社章の入ったものを見かけることがある(右写真は一例)。
電電公社は女性技術者が多数在籍する特色があった。1960年代には技術者の補充が困難となってきたことから、1965年には女性の離職防止対策として育児休職制度(最大3年間)を試験導入。その後、3年間で約1700人の利用者があったことから、1968年5月から本格導入した[3]。
以下の病院は元々旧逓信省の下で発足し、同省が2分省化された際に旧電気通信省に属した事から、公社化後には電電公社の付属施設となったものである。ただし、一部の病院に関しては電気通信省または公社発足後に設立されたものもあるが、名称は他の病院と同様に「逓信病院」を名乗っていた。
これらの病院は、民営化後に日本電信電話→NTT東日本・NTT西日本が運営する企業立病院となるが、のちに大半が廃止され、現在は下記の関連施設となっている。
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