新思潮(しんしちょう、旧字体:新思潮󠄀)は、日本の文芸雑誌である。『帝国文学』に対抗して1907年(明治40年)小山内薫が創刊したが振るわず挫折。以後、帝大生により復活され、東京大学(東京帝国大学)系の同人誌として後に続いた。特に第3次-第4次新思潮の同人菊池寛、芥川龍之介、久米正雄、松岡譲らを新思潮派といい、大正文学の一つの拠点になった。新思潮の名は前任者の了解を取れば誰でも使用する事が出来た。
- 第1次 1907年(明治40年)10月 - 1908年(明治41年)3月
- 小山内の編集により総合的な文芸雑誌として創刊。資金は小山内の知人の援助による。チェーホフの翻訳やイプセン研究会の記録(藤村、花袋らが参加)などを掲載。6号まで刊行。
- 第2次 1910年(明治43年)9月 - 1911年(明治44年)3月
- 谷崎潤一郎、和辻哲郎、芦田均、木村荘太、後藤末雄、大貫晶川、小泉鉄らが参加。谷崎はデビュー作「誕生」や出世作「刺青」などを発表。小山内が創刊号に小説を寄稿。実態は東大の学生だった谷崎らの同人誌で、有名な『新思潮』の名を借りたようなもの。芦田によるアナトール・フランスの短篇小説[要出典]の翻訳が原因で発売禁止処分を受け[注釈 1]、財政難で終焉を迎える。
- 第3次 1914年(大正3年)2月 - 1914年(大正3年)9月
- 第一高等学校在学中の山宮允を中心に創刊。久米正雄、松岡譲、豊島与志雄、山本有三らが活躍。小山内が創刊号に評論を寄稿。芥川龍之介(筆名:柳川隆之助)も翻訳などで参加、近衛文麿や井川恭(恒藤恭)もアイルランド出身作家の作品を翻訳。ほかに成瀬正一、土屋文明、佐野文夫、藤森成吉、菊池寛(筆名:菊池比呂士、3月号から草田杜太郎)。久米が劇作家として、豊島が小説家として注目された。
- 第4次 1916年(大正5年)2月 - 1917年(大正6年)3月
- 成瀬正一、久米正雄、菊池寛、芥川龍之介、松岡譲が参加。創刊号に掲載された芥川の「鼻」が夏目漱石に激賞され、久米、芥川が小説家として世に出た。
- 第5次 1918年(大正7年) - 1919年(大正8年)
- 中戸川吉二、佐治祐吉、福田悌夫、村松正俊、亘理正。
- 第6次 1921年(大正10年)2月 - 1923年(大正12年)8月
- 川端康成、今東光、鈴木彦次郎、石濱金作、酒井真人らが参加。彼らはのちに『文藝時代』に発展する。
- 第7次 1924年(大正13年) -
- 大宅壮一、飯島正、湯地孝、浅野晃、手塚富雄、小方庸正らが参加。
- 第8次 1925年(大正14年)
- 秋山六郎兵衛、手塚富雄ら。
- 第9次 1925年(大正14年) - 1929年(昭和4年)
- 雅川滉(成瀬正勝)、深田久弥、小林勝、青江舜二郎ら。
- 第10次 1929年(昭和4年) - 1930年(昭和5年)
- 第9次の雅川、深田、小林、青江に加え、福田清人、那須辰造、一戸務が参加し、1929年5月号から第10次とする。雅川が『文芸都市』、深田が『文学』、小林がP.C.L.脚本部へと分散し、1年ほどで終了。福岡高等学校出身の福田、那須、浦和高等学校出身の一戸が入り、一高系という伝統は崩れた。
- 第11次 1932年(昭和7年)
- 小林正[要曖昧さ回避]、中村哲[要曖昧さ回避]、嘉門安雄
- 第12次 1934年(昭和9年)
- 第13次
- 小島輝正、堤重久、山下肇、平田次三郎ら。
- 第14次 1947年(昭和22年) - 1948年(昭和23年)
- 中井英夫、吉行淳之介、嶋中鵬二ら
- 第15次 1950年(昭和25年) - 1958年(昭和33年)
- 旧制高知高校同窓の三浦朱門・阪田寛夫・荒本孝一によって1950年に創刊。翌年に東大独文のグループの能島廉・林玉樹・村上兵衛らや、久慈宏一、臼井吉見の紹介により曽野綾子が参加。その後も岡谷公二、村島健一の紹介により竹島茂、原春雄、有吉佐和子、梶山季之らが参加。また阿川弘之と奥野健男も関わっている。雑誌『新潮』で、同人誌推薦作としての作品掲載もあった。また1957年に芥川賞推薦の一票を得た。有吉、曽野は同時期の原田康子と並べて「才女の時代」とも称された。1958年まで17号を発行した。作品集として『愛と死と青春と』(徳間書店、噂発行所、1972)がある。
- 第16次 1961年(昭和36年) - 1964年(昭和39年)
- 磯田光一、小野二郎、近藤耕人、柘植光彦、蟻二郎、中井多津夫らが晶文社を版元として刊行した。
- 第17次 1964年(昭和39年) - 1967年(昭和42年)
- 1号(1964.10) - 6号(1967.8)晶文社版。 柘植光彦を中心に数名が同人として参加。野口武彦、金鶴泳、郷正文、元吉瑞枝、矢島輝夫が加わる。
- 第18次 1969年(昭和44年) - 1970年(昭和45年)
- 第19次 1976年(昭和51年) - 1979年(昭和54年)
- 東大の学生を中心に5号続いた。沼野充義(道吉昭治)、松浦寿輝、川崎賢子、澤井繁男、宗近真一郎、木下渉、藤田衆らが参加した。
- 第20次 1987年(昭和62年)
- 第21次 2022年(令和4年)
- 21世紀に入ってからは初となる復刊。これまでは「代替わりする際には、必ず前任者の了解を得て刊行する」という不文律がハードルとなって刊行は途絶えた状態が続いてきたが、東京大学メディアデザイン部の活動により第19次、第20次当時のメンバーの了解を得、晴れて復刊の運びとなった[2][3]。また、クラウドファンディングによる資金調達を行った[4]。
注釈
芦田均の翻訳作品は1911年はフランソワ・コペー(英語版)『パンテオンの対話』(原題不詳)。アナトール・フランス『青髭物語』の翻訳は1912年である。