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日本の作家 ウィキペディアから
曽野 綾子(その あやこ、1931年(昭和6年)9月17日 - )は、日本の小説家。日本財団会長、日本郵政取締役を務めた[1]。日本芸術院会員。文化功労者。
1956年頃撮影 | |
誕生 |
町田 知壽子 1931年9月17日(93歳) 日本・東京府南葛飾郡本田町 |
職業 | 作家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(文学) |
最終学歴 | 聖心女子大学文学部英文科卒業 |
活動期間 | 1951年 - |
ジャンル | 小説・随筆・童話・翻訳 |
文学活動 | 第三の新人 |
代表作 |
『遠来の客たち』(1954年) 『砂糖菓子の壊れるとき』(1965年) 『太郎物語 高校編』(1973年) 『虚構の家』(1974年) 『神の汚れた手』(1979年) 『天上の青』(1990年) |
主な受賞歴 |
日本芸術院賞・恩賜賞(1993年) 吉川英治文化賞(1997年) 菊池寛賞(2012年) |
デビュー作 | 『裾野』(1951年) |
配偶者 | 三浦朱門 |
子供 | 三浦太郎(長男) |
親族 |
三浦逸雄(義父) 三浦暁子(嫁) |
ウィキポータル 文学 |
「曾野 綾子」とも表記される。本名は三浦 知壽子(旧姓:町田)。夫は三浦朱門。カトリック教徒で、洗礼名はマリア・エリザベト。
聖心女子大学文学部英文科卒業。『遠来の客たち』が芥川賞候補に挙げられ、出世作となった。以後、宗教、社会問題などをテーマに幅広く執筆活動を展開。エッセイ『誰のために愛するか』はじめベストセラーは数多い。近年は生き方や老い方をテーマとしたエッセイが多く、人気を集めている。保守的論者としても知られる。
東京府南葛飾郡本田町(現・葛飾区立石)に父・町田英治郎、母・キワの二女として生まれる[2][3]。幽里香という姉がいたが、曽野が生まれる8年前に亡くなっており、一人娘として成長[4]。 1934年、大森区田園調布に移る(以後、三浦朱門と結婚後も同所に居住)。 母親の希望により幼稚園から大学まで聖心女子学院に通う。敗戦前後の10ヶ月ほど金沢に疎開し、金沢第二高等女学校(現・石川県立金沢桜丘高等学校)[5][6]に転校。勤労動員令が下り、平野化学工場に配属される。1946年3月、東京に戻り聖心に復学する[7]。一人娘ゆえ、小学校より親の知人の次男が婿養子に決まっており、一流大学出の秀才であったが、中学の頃に破談となっている[注 1]。曽野本人の意に沿わぬ相手だったのが理由だが、父親が病気治療で退社し、家勢が衰えたことも大きな要因だった。戦後、父親は姻戚(義弟・山口堅吉)を頼り、米軍に接収された箱根宮ノ下の富士屋ホテルの支配人となる(妻子を田園調布に置いての単身赴任だった。山口は最後のオーナー経営者)。芥川賞候補作「遠来の客たち」の舞台となる米軍接収の箱根山ホテルはここをモデルとしており、実際に曽野は1948年の夏、ここに滞在してアルバイトまがいの手伝いをしていた[8]。同年9月26日、洗礼をうける。
中河与一主宰の同人誌『ラマンチャ』(1951年5月)に載った「裾野」が臼井吉見の目にとまり、臼井の紹介で現在の夫・三浦朱門や阪田寛夫らの第十五次『新思潮』に加わる。朝日放送に入社した阪田の伝手もあり、同人誌発行資金獲得のため同社にコントを投稿し数編採用される。「鰊漁場の図」(新思潮5号)、「田崎と鶴代」(新思潮6号)、「片隅の戦士」(世界8・9月合併号)と発表し、22歳で文学的アドバイザーでもあった三浦と結婚。山川方夫の紹介で『三田文学』に書いた「遠来の客たち」が芥川賞候補となり23歳で文壇デビュー。以後、次々に作品を発表。30代で不眠症に苦しむが、『弥勒』『無名碑』など新しい方向性にチャレンジするうち克服した[9]。
大学の後輩である上皇后美智子とは親交が深く、三浦の生前から夫婦ぐるみで親しかった。上皇后(天皇)夫妻が葉山で静養する折、夫妻で三浦半島の曽野の別荘を訪問することも多い[10][11][12][13]。
文化人類学者の三浦太郎は長男で、彼をモデルにして『太郎物語』を執筆した。太郎の妻はエッセイストの三浦暁子[14]。
1995年から2005年まで日本財団会長職を務め[15]、2009年10月からは日本郵政社外取締役に就任[1]。2000年、元ペルー大統領のアルベルト・フジモリ(1992年のアウトゴルペで失脚)が日本に長期滞在した折、自宅に私人として受け入れた[16]。
今日に至るまで多数のベストセラーを著しており、代表的なものに『誰のために愛するか』(1970年、278万部)[17]、『戒老録』(1972年、85万部)[18]、『太郎物語 高校編』(1973年、117万部)、『同 大学編』(85万部)[19]、『虚構の家』(1974年、約50万部)[20]、『幸福という名の不幸』(1975年、60万部)[21]、『「いい人」を止めると楽になる』(1999年、70万部)[22]、『老いの才覚』(2010年、100万部)[23]、『人間にとって成熟とは何か』(2013年、80万部)[24]、『人間の分際』(2015年、30万部)[25]、『夫の後始末』(2017年、20万部)[26]などがある。
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
産経新聞コラム「透明な歳月の光」の2015年2月11日付けで、移民の人種を基準として居住区を分離した方が好ましいと発言して問題となった。曽野はこのコラムで、「労働力不足と移民「適度な距離」保ち受け入れを」と題し、「南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」[注 4]「人間は事業も建築も研究も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」と主張した[46]。さらに、「高齢者の面倒を見るのに、ある程度の日本語ができなければならないとか、衛生上の知識がなければならないとかいうことは全くない」「『おばあちゃん、これ食べるか?』という程度の日本語なら、語学の訓練など全く受けていない外国人の娘さんでも、2、3日で覚えられる。日本に出稼ぎに来たい、という近隣国の若い女性たちに来てもらって、介護の分野の困難を緩和することだ」などと発言した[47]。
曽野のコラムに対し、モハウ・ペコ南アフリカ駐日大使およびNPO法人アフリカ日本協議会は、アパルトヘイト政策を容認する内容だとして、曽野および産経新聞社常務取締役へ抗議文を送った[48][49]。さらに、日本国内のアフリカ研究者の学会である日本アフリカ学会の歴代会長ら約80人も、コラムの撤回や関係者への謝罪などを求め、連名の要望書を同紙に送った[50]。「ロイター」や「ウォール・ストリート・ジャーナル」も批判的に報じた[51][52][53][54]。
しかし、こうした抗議に対し曽野は「差別ではなく区別」「撤回するつもりない」という姿勢を見せた[55][注 5]。また、介護の現場が3Kで低賃金な労働環境であるのに、人手不足を経済連携協定や技能実習制度といった外国人労働者で埋めようとする考え方、日本がこれから先も出稼ぎ先として魅力的な国であるという認識、介護職は2、3日で覚えられる語学力で問題ないとする認識(実際には技能実習制度見直しに関する法務省・厚生労働省合同有識者懇談会、外国人介護人材受入れの在り方に関する検討会の報告書で、日本語能力試験で入国時点でN4、実習2年目に移る際に課す試験でN3程度を目指すとされた)、専門知識の無い低熟練状態でも問題ないとする認識の低さについての指摘もされた[56][57]。
その後の言説としては、ブログで「もし記事に誤りがあるなら、私はそれを正します。私も人間ですから、過ちを犯します。しかしこの記事について、誤りがあるとは私は思いません」と書いたことがウォール・ストリート・ジャーナルで報じられた[52][54][58]。『新潮45』連載「人間関係愚痴話」2015年4月号の第47回「『たかが』の精神」で、たかが一作家の自分の考えに対して「肩書一つ正確には書けなかった新聞や通信社が、こうやってヘイト・スピーチを繰り返し、そこに覆面のツイッターが群衆として加わって圧力をかけ、どれだけの人数か知らないが、無記名という卑怯さを利用して、自分たちは人道主義者、曽野綾子は人種差別主義者、というレッテルを貼ることに無駄な時間を費やしている、その仕組みを今度初めて見せてもらって大変ためになった。私は覆面でものを言う人とは無関係でいるくらいの自由はあるだろう。」と述べている[59]。 ただしウォールストリートジャーナルの記事は"Yuka Hayashi"[54]、ロイターの記事は"Elaine Lies"による署名記事である[60]。
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