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日本の外交官、外交評論家 ウィキペディアから
岡崎 久彦(おかざき ひさひこ、1930年〈昭和5年〉4月8日[1] - 2014年〈平成26年〉10月26日[2])は、日本の外交官、評論家。位階は従三位。サウジアラビアとタイ王国で特命全権大使を歴任し、また外務省で情報調査局長を務めた。祖父の岡崎邦輔は、陸奥宗光の従弟にあたる。
関東州・大連生まれ[1][2]。白金小学校、旧制府立高等学校を経て、東京大学法学部入学。東大法学部在学中に外交官試験合格[3]。大学を中退し、外務省に入省[4]。八木秀次によれば、岡崎は卒業証書は小学校のものしか持っておらず、その後は大学まですべて「飛び級」だったという[5]。岡崎邦輔は祖父。
外務省ではケンブリッジ大学での英語研修を皮切りに、在外で在フィリピン大使館、在フランス大使館、在米国大使館、在韓国大使館に駐在し、本省では国際連合局に勤務する。課長就任後は、調査企画部の分析課長、調査課長、調査室長、さらに調査企画部長、情報調査局長と、情報部門の幹部を歴任する。駐タイ大使を経て1992年に退官。外交評論家として活動する。
外務省在職中から執筆活動を行い、外務省の論客として知られた。1977年、長坂覚[6]のペンネームで著した『隣の国で考えたこと』で日本エッセイストクラブ賞受賞。 1981年、『国家と情報』でサントリー学芸賞を受賞。1995年、第11回正論大賞受賞[7]。“アングロサクソンとの協調こそが日本の国益とアジアの平和につながる”と一貫して主張。また、自ら本を出すなど気功に傾倒していた。また、祖父が陸奥宗光の従弟にあたる政党政治家ということから「陸奥宗光」などでは戦前デモクラシーに関しても多く取り上げている。
イラク戦争では、開戦前の2003年2月19日に採択した日本国際フォーラムの「イラク問題について米国の立場と行動を支持する声明」に名を連ねていた。3月19日の開戦後、米国をいち早く支持した小泉首相を絶賛し、「日本が唯一指針とすべき事は、評論家的な善悪是非の論ではなく、日本の国家と国民の安全と繁栄である。」と主張した[8]。また、著書の中で「極東軍事裁判以来、歴史を論じる時には歴史的事件の当事者の善悪、責任を論じるのが習慣のようになっているが、そんなことばかりしていると是非の論争にこだわって歴史の真実を見失ってしまう恐れがある。歴史は流れであり、その流れの中で戦争も平和も起こる」と述べている[9]。
安保騒動後に全日本学生自治会総連合(全学連)で反対運動をしていた人間と話した際「お前たちのような教育のある人間がどうしてああいうことをするんだ。大学に行っているインテリがどうして安保反対など言うんだ」と聞いて「あの時の雰囲気がわからない人に話してもわかりませんよ」と返され「雰囲気とは何だ。お前インテリだろう。雰囲気だけで動くのか」と問い詰めたことがあるという[10]。
新しい歴史教科書をつくる会賛同者(のち日本教育再生機構顧問)、日本李登輝友の会副会長、歴史事実委員会会員を務める等の政治運動でも知られた。
「何十年の経験を誇るプロでも、一年間情勢の変化から目をそらしていると、その一年情勢をフォローしてきた駆け出しの現場の人間より判断が劣ることがある。」[11]とする一方で、米英などのイラク戦争を支持した東大教授の田中明彦、北岡伸一の発言を受けて、「昔は重大な国際的国内的政治問題が起こると、新聞は社会面に東大の政治学の教授の意見を掲載し、国民は「ああ、そういうことなのか」と啓発されたものである。その後、東大法学部は長い間左傾して権威を失墜して、誰もその発言を顧みなくなっていたが、そういう時代も終わっている。本来なら、この二教授の発言でこの論争は決着している」[12]とも述べている。
2012年秋の叙勲で瑞宝重光章受章[13]。同年9月に行われた自由民主党総裁選挙の際は、「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」発起人に名を連ねた[14]。
核拡散防止条約調印後の1969年2月に、外務省の課長級(当時分析課長だった本人、国際資料室の鈴木孝、調査課長村田良平)が西ドイツ外務省のエゴン・バール政策企画部長、ペア・フィッシャー参事官、クラウス・ブレヒ参事官を箱根の旅館に招いて、核保有の可能性を探る非公式会合に参加。
2014年10月26日、東京都内の病院で死去[2]。84歳没。死因は非公表。夫人によると敗血症から来る肺機能の低下が致命的だったという[15]。叙従三位[16]。岡崎が多く寄稿した産経新聞ではその訃報を10月28日付朝刊の一面に掲載し、五面掲載の評伝では文化部編集委員・桑原聡が「エレガントなサムライ」「教えを請いたくなるようなオーラがあった」と評した[17]。墓所は和歌山市護念寺。
岡崎久彦の遺著『国際情勢判断・半世紀』巻末に略年譜が収録されている。[4]
2006年8月24日の産経新聞朝刊「正論」欄に「遊就館から未熟な反米史観を廃せ」と題した記事を掲載[19]。この記事で、遊就館の展示説明の論理性を求めている。主張の内容は遊就館の展示中にある、「アメリカが不況の脱却のために資源の乏しい日本を経済制裁により戦争に追い込み、これによりアメリカ経済は回復した」という旨の主張が不適切だというものである。また、この発言の影響から靖国神社は反米的な展示物の多数を一掃し、日本兵の手紙などに展示物を置き換えた。アメリカに関する記述以外(日中戦争・韓国・台湾植民地支配等)については記述内容を訂正しなかった(ただし、2012年の著書「二十一世紀をいかに生き抜くか」P162では、「支那事変の原因としてコミンテルンの反日工作しか記述がなかったので日本の北支工作を追加した」「たった四文字の追加ではあったが歴史の正しい認識に寄与したとひそかに自負している」と述べている)。
西尾幹二は、委員長発言を「岡崎久彦が「正論」コラムで先走って書いたテーマとぴったり一致している。やっぱりアメリカの悪意ある対日非難に彼が口裏を合わせ、同一歩調をとっていたというのはただの憶測ではなく、ほぼ事実であったことがあらためて確認されたといってよいだろう[24]」と「媚米反日[24]」として批判している。
富田メモについて、「本物であるはずがない」「昭和史の基礎的な知識があれば(富田メモに)信憑性があると考えるはずがない」と主張している。[25]死後に出版された回顧録では、1.昭和天皇は「ですます」調の言葉は使わない、2.昭和63年頃の証言だけで、その前の証言が何十年、一切ないのも不自然、3.千代の富士が連勝を続けていた昭和63年の七月場所か九月場所の頃、(相撲が大好きな昭和天皇が)「もう相撲はご覧になっていない」と宮内庁の人間に聞いたことから、あの頃の証言の記録は少し怪しい、ことを根拠として挙げている。[26]
西尾幹二が『新しい歴史教科書』に記したアメリカ批判の文章を当人に無断で削り、親米色に替えたことはつとに知られる。『中央公論』『Voice』で岡崎は第二版で完成の域に達したのは自分の削除のおかげだ、というような自画自賛のことばを、海外にまで伝わるように列ねた[28]。
小林よしのりは、岡崎の第二版『新しい歴史教科書』書きかえを厳しく批判し、その中でも、原爆投下が「日本のせい」というアメリカの言い分に近づけた内容に変質していることを指摘している[29]。
西尾幹二は初版と第二版を対照し、岡崎の記述が「不自然なまでにアメリカの立場に立っている」という。
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